第1話
第1話
駅のホームに立っていた俺の視界に、異質なものが映った。
満月の光を吸ったような、形を持たない黒。改札を抜けてくる通勤客の誰一人、それに気づいていない。スマホの画面に目を落としたサラリーマンも、イヤホンで音楽を聴く女子大生も、ベビーカーを押す若い母親も、俺の隣をすり抜けていく。アナウンスの電子音、踏切の遠い警報、誰かの咳払い──日常の音は何ひとつ欠けていない。けれど俺にだけは、はっきりと「居る」のがわかる。肌の産毛が一斉に逆立ち、耳の奥で血管が脈打つ音が不自然に大きく響いた。
──また、だ。
周防聖哉、都立高校二年。裏の魔術学院では、学年最底辺の烙印を押されている。詠唱は同級生の倍遅く、術式の精度は半分以下。血筋だけは由緒ある周防の本家だが、才能はまるで錆びついていた。「血筋だけの凡才」。教師の嘲笑が、鼓膜の奥でまだ乾かない。朝の実習室で、同級生たちが涼しい顔で初級火球を宙に浮かべるなか、俺だけが汗だくで詠唱を噛み、術式が霧散する。あの時の笑い声が、ホームの雑踏にも重なって聞こえてくる気がした。
帰り道、実家の古書店で埃まみれの魔導書を磨くのが俺の日課だ。指先の擦り傷と、インクの匂いと、誰にも読まれない古書の背表紙。黴と樟脳と、革表紙のかすかな獣臭。それでも俺は、毎日積み上げてきた。朝四時に起きて基礎詠唱を五百回。放課後に術式ノートを三ページ。手のひらのペンだこは層を重ね、喉は常に掠れ、舌の奥には詠唱の金属的な味が染みついている。──誰にも見てもらえない努力が、それでも自分を支える唯一の柱だった。柱というには、あまりにも細くて心許ない一本だったけれど。
通学鞄の肩紐を握りしめて、俺はホームの黒い影から目を逸らす。関わらない。見なかったことにする。それが凡才の処世術だと、いつからか自分に言い聞かせている。凡才が異界のものに首を突っ込んで、無事で済んだ例を俺は知らない。学院の図書室で読んだ失踪者名簿の、にじんだ名前たちを思い出す。
終電間際の電車に飛び乗り、最寄り駅で降りた頃には、夜空に満月が浮かんでいた。
白く、やけに大きい。吊り広告の油性インクの匂い、車内の生温い暖房、誰かのコートから漂う煙草の残り香──それらを背中に置いて、俺は無人の改札を抜けた。
古書店までの路地裏を、俺はいつも通り足早に歩く。コンクリートの塀、古びた自販機、消えかけた街灯。自販機の低い唸りだけが妙にはっきりと耳につき、自分の靴音が壁に跳ね返って二重に聞こえた。スマホのライトを点けようとした瞬間、背筋が凍った。
空気が、重い。
水の中を歩いているような粘りが、肺の奥まで入ってくる。呼吸のたびに喉の奥がざらつき、舌の根に鉄臭さが滲む。指先から体温が逃げていく。四月の夜とは思えない冷気が、制服のブレザーを突き抜けて肋骨の一本一本を撫でた。顔を上げた先、路地の突き当たりに、あのホームで見た黒が立っていた。今度ははっきりと輪郭を持っている。牛ほどの大きさ、四本の細い脚、首のない胴から裂けた口だけが覗く。喰魔。学院の禁書で一度だけ見た、異界からの迷い子。ページの挿絵では、あれは確か「出会った者は七割が戻らない」と注釈がついていた。残り三割も、五体満足で戻った者はいないと、欄外に小さく書き添えられていたのを思い出す。
「嘘、だろ……」
声が掠れた。鞄の中の護符に指を伸ばしかけて、止まる。俺の札じゃ、効かない。精度が足りない。詠唱が間に合わない。逃げろと本能が叫ぶのに、脚は根が生えたように動かない。膝が笑う、という言葉を初めて実感として理解した。太腿の裏が痙攣し、尿意に似た恐怖がじわりと腹の底を冷やす。奥歯がかちかちと鳴り、それを止めようと噛みしめれば、今度は顎の関節が軋んだ。喉仏が何度も上下する。唾を飲み込みたいのに、口の中はからからに乾いて、舌が上顎に貼りついたまま剥がれない。
喰魔が一歩踏み出した瞬間、街灯が弾けて消えた。
暗闇の中、裂けた口が俺に向かって開く。生臭い呼気、鉄の錆びた匂い、耳の奥を掻き毟るような低い唸り。唸りは音というより振動で、胸骨の内側から内臓を揺さぶってくる。五感のすべてが「死」を告げていた。父も母も、通学路ですれ違った同級生も、学院の教師さえ、誰も俺を助けに来ない。──当たり前だ。凡才の末路なんて、きっとこんなものだ。誰の記憶にも残らず、明日の朝刊の片隅にすら載らない。古書店のシャッターは明日も誰かの手で開けられ、俺がいないことに気づくのは、三日後の集金に来る酒屋のおやじくらいのものだろう。
それでも。
それでも俺は、鞄を地面に叩きつけて、両手を前に突き出した。指先が痺れるほど冷たく、爪の先まで血の気が引いているのがわかる。それでも、俺の中のどこかが──四時起きの朝と、インク塗れの指と、嘲笑に耐えた日々が──「ここで膝をつくな」と叫んでいた。積み上げた五百回の詠唱が、三ページのノートが、ペンだこの一層一層が、今この瞬間のためにあったのだと、そう信じなければ、俺は俺でいられなくなる。
「……縛、れ……!」
口から零れたのは、魔導書で一度だけ目にした古代式の断片。自分でも意味がわからないまま、ただ縋るように唱える。詠唱は噛んだ。術式は歪だ。発動すらしないと、頭ではわかっていた。舌がもつれ、最後の音節は悲鳴に近かった。
──なのに。
足元の影が、揺れた。
自分の影だ。満月に照らされて伸びた、細長い俺の影。それがまるで液体のように波打ち、コンクリートの継ぎ目から何かが這い上がってくる。足裏に、ぞわり、と冷たい何かが触れた。自分の影のくせに、まるで知らない生き物のように脈打っている。
銀。
硬質な、凍るような銀の輝き。
影の中から伸びたのは、細い、しかし確かに質量を持った鎖だった。一本、二本、三本──アスファルトを裂きながら宙に躍り出て、月光を反射して唸りを上げる。鎖と鎖がこすれる澄んだ金属音が、路地裏の夜気に氷の粒を撒いたみたいに広がった。俺は息を呑んだ。こんなもの、学院で習った術式のどこにもない。周防の家系図のどこにも、「鎖」なんて言葉は書かれていなかった。
「な、んだ、これ……!」
鎖は俺の制御を無視して、意思を持った蛇のように喰魔へ襲いかかった。一本が脚に絡み、一本が裂けた口を突き上げる。喰魔が甲高い悲鳴を上げた──耳をつんざく、硝子を爪で引っ掻くような音──その瞬間、鎖が軋んだ。
制御できていない。暴走している。
三本目の鎖が、あろうことか俺自身の腕に巻きついた。皮膚が焼ける。冷たいのに焼ける、という矛盾した痛みが神経を駆け上がる。氷を押し当てられた火傷、とでも言うべきその感覚に、俺は思わず歯を食いしばった。喰魔は鎖に縫い止められたまま、それでも残った前脚で俺の胸を薙いだ。
視界が白く飛んだ。
背中がコンクリートに打ちつけられ、肺から空気が全部追い出される。胸郭が内側から軋み、呼吸しようとしても横隔膜が言うことをきかない。鉄錆の味が口の中に広がった。血だ。俺の血。月が、やけに遠い。銀の鎖は主を見失ったように宙を踊り、やがて力を失って俺の影に沈んでいく。
──ああ、死ぬのか。
不思議と恐怖はなかった。ただ、腹の底から静かな怒りが湧いた。毎朝四時に起きて、誰にも褒められない詠唱を繰り返して、古書店の埃にまみれて。擦り切れたノートの余白に、何度も何度も同じ術式を書き直して。それでも何者にもなれないまま、こんな路地裏で終わるのか。
報われない努力の、これが答えか。
喰魔が再び動いた。裂けた口が、ゆっくりと俺の頭上に下りてくる。生臭い呼気が前髪を揺らし、意識が急速に遠のいていく。指先の感覚が消え、耳鳴りだけが世界の全部になる。
そのとき──影の底で、銀の鎖がもう一度、微かに鳴った気がした。
まるで、「まだ終わらせるな」と囁くように。
満月が、ぐにゃりと歪む。
コンクリートの感触が消え、俺の身体はどこか冷たい石畳の上に落ちていくような感覚に呑まれた。喰魔の呼気も、血の味も、街灯の残骸も、何もかもが遠ざかる。代わりに、かすかな香の匂いと、遠くで響く鐘の音のようなものが、意識の縁をくすぐった。最後に見えたのは、自分の影から伸びた銀の鎖が、月光の中でもう一度だけ美しく輝く光景だった。
──誰かの、低い声が聞こえた気がした。
「……やっと、見つけた」
意識が、闇に呑まれる。