第2話
第2話
翌朝の教室は、まだ人の少ない時間の匂いがした。 窓は開け放たれていて、廊下のほうからは、誰かの上履きが床を擦るきゅっきゅっという音だけがまばらに聞こえてくる。黒板にはゆうべの日直の字がまだ残っていて、「四月十日(水)晴れ」の「晴」の字が少しだけ傾いていた。机のならびも椅子の位置も、昨日の放課後のまま止まっていて、誰かの忘れていった赤ペンが一本、窓際の床に転がっている。朝のこの時間だけ、教室はまだ誰のものでもなかった。 私は自分の席に鞄を置いて、胸元に指先を這わせた。ゆうべ、下宿の小さな鏡の前で、何度もほどいては結び直したリボン。結局うまくいかなくて、最後は蝶々の翅が片方だけ大きく、片方だけ小さく、出来損ないの鳥みたいな形になってしまった。それでも首の後ろは、昨日よりもほんの少しだけ楽だった。きつく締めすぎないこと。それだけは、ゆうべの自分がどうにか学んだ小さなことだった。 窓の外で、また桜が散っていた。昨日より風が柔らかい。花びらはもう地面にもたくさん落ちていて、渡り廊下の石の上に、薄桃色の小さな道を作っている。その道の上を、ひとりの女の子が歩いてくるのが見えた。後ろで結んだ黒い髪、丸眼鏡、少しだけ大きな通学鞄。足音はほとんどしないのに、歩く速さだけはきっちり一定で、その規則正しさだけで、もう湊だとわかった。 階段を上がってくる気配。廊下を曲がる気配。引き戸が、静かに横にすべる。 「……おはよう」 湊は、誰にともなく呟くような声で言って、自分の席に鞄を置いた。驚いた顔もしなかったし、笑顔もなかった。ただ、昨日と同じまっすぐな姿勢で、椅子を引き、私のほうを一度だけ見て、小さく頷いた。「早いね」でも「来てくれたんだ」でもなく、ただの頷き。その素っ気なさが、今朝もまた、私の肩の力をそっと抜いていく。
「——見せて」 湊は自分の椅子を、ほんの少しだけこちらに寄せた。昨日と同じ、床を擦るかすかな音。彼女の指先が、私の胸元の高さでふっと止まる。触れる前に、一度、目で「いい?」と尋ねてくれた。私はこくんと頷いた。頷いてから、自分がどれだけ緊張していたかに気づいた。他人に胸元に手を伸ばされるなんて、前世では侍女以外あり得なかった。けれど湊の指は、侍女のそれとはまるで違った。手慣れていないわけではないのに、どこか遠慮がちで、必要以上に触れようとしない。 「……うん、やっぱり上下逆。あとね、柊さん、結ぶ前にここ、ちゃんと平らにしないと、翅が片方だけ大きくなるの」 「平ら、にする……?」 「こう。一回、布地を指で撫でつけてから、真ん中で折る」 湊はそう言いながら、私のリボンを一度ほどいた。するりと、細い帯が首のまわりで軽くなる。ほどかれた瞬間、自分の首がこんなに細かったのかと、妙なところで驚く。湊の指は、私の喉のあたりにはぎりぎり触れないようにしながら、リボンを丁寧に真っ直ぐに直していった。 「えっとね、右が上。まず、こうやって輪っかを作って、もう片方をその上からくぐらせて、……で、ここを引っ張る。強すぎない。翅が泣かない程度」 「翅が、泣く」 思わず復唱してしまって、湊がちょっとだけ笑った。ほんとうに、ちょっとだけ。口の端が五ミリくらい持ち上がって、すぐに元に戻る。 「うん。きつく締めると、布地がくしゃってなるでしょ。あれが、泣いてるみたいだから」 布地が泣く、という言い方を、私は知らなかった。前世の針子たちは、布のことを「生地」と呼んだ。繻子、絹、天鵞絨、模様織——布には値段と等級があって、泣いたり笑ったりするものではなかった。けれど湊の指先の下で、確かに私の胸元のリボンは、さっきまで少しだけ泣いていたのかもしれない、と思った。 「……はい、できた」 湊の指が離れる。胸元で、昨日よりずっと対称な蝶々がひとつ、行儀よく翅を広げていた。私は思わず胸元に手を当てて、そのかたちを確かめた。指の腹に、布のわずかな起伏が伝わってくる。泣いていない、と思った。呼吸に合わせて、ゆるく揺れている。 「……ありがとう」 「ん。毎日朝練みたいに練習すれば、一週間で自分でできるようになるよ」 湊は何でもないふうに言って、鞄から文庫本を取り出した。昨日と同じ色のカバーだけれど、栞の位置が少しだけ進んでいる。ゆうべ、彼女も家でこの本を読んでいたんだ、と思ったら、なんだか急に、湊という人の輪郭が、私の中で少しだけ濃くなった。
一時限目と二時限目のあいだの休み時間、廊下は急に騒がしくなった。 上履きの音、上級生の笑い声、スカートの裾が擦れる音。私は湊に教科書の置き場所を訊きに、二組の前を通って職員室のほうへ歩いていた。湊は「この時間、社会科準備室が空いてるから」と、相変わらず必要なことだけを教えてくれた。彼女の二歩うしろを歩きながら、私は初めて、廊下の壁に貼られた掲示物をちゃんと見る余裕を持った。生徒会役員の顔写真、部活動紹介のポスター、文化祭実行委員募集の貼り紙。 そのうちのひとつ、一番大きなポスターの中央に、ひとりの男子生徒の写真があった。 黒い髪、切れ長の目、制服の襟をきっちりと立てた立ち姿。遠目に見てもわかる整いすぎた顔立ちに、私は足を止めた。見てはいけないものを見てしまった気がしたのに、目が離せなかった。写真の下には「生徒会長 藤ヶ谷 蓮」と活字で刷られていて、そのまわりを、手書きの文字が取り囲んでいる。——"今年の文化祭は、『本物』しか出させない。" 本物、という一語の角ばった響きに、背筋がちりっとした。前世のどこかで、同じような言い回しを聞いた気がする。けれど、それを思い出すより先に、廊下の向こうから、いくつかの足音の塊が近づいてきた。 「会長、これ、今日の議案の追加分です」 「例の一年の件、ほんとにあのままでいいんですか?」 「——いい。下らない騒ぎは、早く終わらせたほうが学校のためだ」 低く、澄んだ声だった。聞き覚えのある音の並びではなかった。それなのに、私の膝はかすかに震えた。声そのものではなく、その声の運び方——言葉の終わりを静かに切り落とす、あの癖。前世で、何度も扇越しに聞いた話し方に、ほんのわずかだけ似ていた。 湊が足を止めて、私の肘に軽く触れた。 「こっち」 短くそう言って、彼女は私を社会科準備室のドアの陰にさりげなく引き寄せた。足音の塊が、ポスターの前を通り過ぎていく。私は顔を上げなかった。ただ、廊下の床に落ちた影だけが目に入った。真ん中をゆっくり歩く、背の高い影。その両側を、数人の影がぴたりと距離を保って従っている。歩幅も、影の間隔も、きちんと測ったように均等で、それがかえって、胸の奥をざらりと撫でた。 足音が遠ざかってから、湊は小さく息を吐いた。 「……生徒会長。藤ヶ谷先輩。二年。文化祭の実行委員長も兼ねてて、去年、一年生の模擬店の案、半分くらい却下したんだって」 「半分、くらい」 「『平凡なのはいらない』って。……まあ、噂だけどね」 湊の声は、噂を楽しむ色をしていなかった。むしろ、こういう話はあまり好きじゃない、という気配がほんの少し混じっていた。私は頷きながら、さっきのポスターの"本物"という二文字を、まぶたの裏でもう一度なぞった。本物。誰が決めるのだろう。前世の舞踏会では、「本物の令嬢」「本物の淑女」という言葉が、扇の陰でいくつも飛び交っていた。そのたびに誰かが笑われ、誰かが泣き、誰かが舞踏会から姿を消した。 胸元の、まだ慣れない蝶々のリボンに、指先をそっと触れる。泣いていない。まだ、泣いていない。
教室に戻る途中、渡り廊下の窓から、校庭の桜がまた目に入った。 花はもう半分以上が地面に落ちていて、残っている枝先のほうが頼りなく見える。散ることを前提にして咲いている花なんて、前世では見たことがなかった。宮廷の庭師は、花弁が一枚でも落ちれば怒られていた。散らないように、崩れないように、いつも同じ形でいるように——そう仕込まれた花ばかりが、磨き上げられた大理石の鉢に収まっていた。 けれど、この国の桜は、散るほうを選ぶ。 窓枠に手を置いて、私は一度だけ長く息を吐いた。胸元のリボンが、呼吸に合わせてゆっくりと上下する。今朝、湊の指が直してくれた蝶々。誰かに直してもらわないと、うまく結べないリボン。わからないと言ってもいいリボン。 ——静かでいい。地味でいい。 ゆうべまでの自分の呟きを、もう一度口の中で転がしてみる。けれど、その言葉は、さっきの廊下の足音のあとでは、ほんの少しだけ輪郭がぼやけて聞こえた。静かでいたいと思う自分と、"平凡なのはいらない"という声に、胸の奥がちりっと反応してしまった自分と。どちらも、たしかに私だった。 湊が、少し先で私を振り返っていた。急かすでもなく、ただ、待っている顔で。その表情を見た瞬間、ゆうべ下宿の鏡の前でひとり格闘していた自分が、ふっと遠くなった。ひとりで結べないリボンでも、隣に誰かがいれば、明日の朝には結べるかもしれない。そんな、ちいさな、ちいさな予感。 私は窓辺から指を離して、湊のほうへ歩き出した。 廊下の先、まだ見ていない教室の並びの向こうで、誰かが小さく笑う声がする。来週の調理実習のプリントが、鞄の中でかさりと鳴った。胸元の蝶々のリボンが、歩くたびに、ほんの少しだけ揺れる。翅は、まだ泣いていない。 けれど、廊下の奥からさっき聞こえたあの声の残響が、耳の奥にまだ居座っていた。静かな日々を願ったはずの二度目の春が、私の知らないところで、もう次の頁をめくろうとしている——そんな気配だけが、リボンの端に、かすかに引っかかっていた。