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転生令嬢、湯気の向こうに

第3話 第3話

第3話

第3話

調理実習の朝は、いつもより空気が湿っていた。  四時限目、家庭科室の窓は全部開け放たれていて、隣の校庭から体育の号令と、ボールが跳ねる乾いた音が届いてくる。白い割烹着を着た同級生たちが、長いステンレスの調理台のまわりで、まだ少しぎこちない距離を保ったまま並んでいる。まな板、包丁、ざる、ボウル。昨日まで名前しか知らなかった道具たちが、今日は手の届くところに、きちんと順番通りに並べられている。道具の並びが整っているだけで、私の指先は、もうどこに何があるのか知っていた。知っていることを、今日は忘れたふりをしなければならない。  「柊さん、こっち」  湊の声に振り向くと、四番の調理台の前で、彼女が手招きをしていた。同じ班は四人。湊と、私と、前の席で笑い合っていたショートカットの子と、サッカー部の男の子。みんな、「柊さん、よろしく」と控えめに頭を下げてくれた。私は「よろしくお願いします」と、令嬢の礼を慌てて喉の奥で飲み込みながら、代わりに頭だけを小さく下げた。深すぎた、と思ったけれど、誰も気にしていないようだった。  黒板に貼られた献立表を、もう一度見上げる。  ——ミネストローネ。キャベツ、玉葱、人参、セロリ、ベーコン、トマト缶、にんにく、オリーブオイル、塩、胡椒、ローリエ一枚。材料の並びを目でなぞるだけで、鍋の底で脂が弾ける音が、鼻の奥に先に届いた。前世の厨房の、あの深夜の匂い。下働きの少年が居眠りしかけていた椅子の軋む音。いけない、と自分に言い聞かせる。普通に、平凡に、誰の記憶にも残らないように。胸元のリボンにそっと触れて、その翅のかたちを思い出す。今朝も湊に結んでもらった、対称な蝶々。翅を、泣かせないこと。料理も、きっと、それと同じだ。

 「じゃ、分担決めよっか」  湊が、淡々と仕切り始めた。「私、計量と洗いもの。柊さんは——」そこで一度だけ、ちらりとこちらを見る。昨日のプリントを握っていた私の手のことを、覚えているのかもしれない。「柊さんは、切るのと、火、お願いしていい? たぶん、できそうだから」  できそうだから。その言い方が、優しかった。得意でしょう、でも、慣れてるんでしょう、でもなかった。ただの、観察の結果みたいな声。私は頷いた。頷きながら、包丁の柄に手を伸ばす。ステンレスの柄は冷たくて、前世の重たい肉切り包丁とはまるで違う。軽い。あまりに軽くて、一瞬、指が拍子を取り損ねそうになる。  玉葱の皮を剥く。  剥いた瞬間、指が、勝手に動き出した。  縦に半分、芯を落とし、断面を下に。左手を猫の手に、右手の刃は手首ではなく肘から滑らせる。前世の料理長が、夜な夜な「お嬢様、包丁は腕で動かすんじゃない、息で動かすんです」と言っていたあの言葉が、身体のどこかに、まだ生きている。とん、とん、とん。まな板を叩く音が、妙に小さい。刃が入る角度が深すぎず浅すぎず、玉葱の繊維がほどけるように細かくなっていく。気づいたら、ひと玉が半透明の欠片の山になっていた。涙も、ほとんど出なかった。  「……え」  隣で、ショートカットの子が小さく声を上げていた。私はびくりとして顔を上げた。失敗した。目立った。胸の奥が冷えた。  「柊さん、料理教室とか行ってた?」  「……え、えっと、あの、家で、お手伝いを、少し」  嘘だ、と自分でもわかる言い訳を、どうにか口の中で組み立てる。けれど、ショートカットの子は疑う顔をしなかった。むしろ、感心したように「すご」とだけ言って、自分の担当のキャベツに戻った。サッカー部の男の子は、トマト缶の蓋を開けるのに悪戦苦闘していて、こちらを見ていない。湊だけが、計量カップを手にしたまま、ほんの一瞬、私の手元に視線を止めて、それからすぐに目を逸らした。何も言わなかった。けれど、何も言わない、というその選び方そのものが、今の私には、少しだけ怖かった。  にんにくを潰す。包丁の腹で、一度だけ。ぱきっと乾いた音がして、皮がはらりと落ちる。オリーブオイルを鍋に垂らす。量は、目分量。小さじで測らなかったことに、自分で気づいて、慌てて計量スプーンに持ち替えるふりをする。火をつけると、青い炎が鍋の底を舐めた。にんにくを入れる。じゅ、と低い音が立った瞬間、鼻の奥に、一気にあの厨房の夜が戻ってきた。下働きの少年の、眠そうな横顔。隅の木樽に腰掛けて、「お嬢様、今日のは味見しなくていいんですか」と眠たげに笑う声。忘れていたはずの細部が、油の音ひとつで、こんなにも簡単に立ち上がる。  玉葱を入れる。木べらで、鍋底を撫でるように。焦がさない。急がない。甘さを引き出すのは、火の強さじゃなくて時間だ——その感覚も、誰かに教わる前に、指がもう知っていた。じんわりと玉葱が透き通っていくのを見ながら、私は、自分の呼吸がいつの間にか落ち着いていることに気づいた。包丁を握っていた時より、鍋の前のほうが、胸が静かだった。令嬢としての十九年間、ドレスを着ているときよりも、厨房にこっそり立っているときのほうが、私はずっと自分のままでいられた。あの感覚が、別の身体の中で、まだちゃんと生きている。  ベーコン、人参、セロリ、キャベツ。順番に入れていく。トマト缶を開けて、果肉を木べらで軽く崩す。水を注ぎ、ローリエを一枚。塩はほんの少しだけ、仕上げに残しておく。煮立ってきたところで火を弱める。灰汁を、お玉の腹で、す、す、と丁寧に掬う。宮廷では「濁りは罪」と教えられた。透き通ったスープは、料理人の良心の見える場所なのだと。

 「……なにこれ」  転機は、一口の味見から始まった。  味見用の小皿に、ほんの少しだけスープを取って、湊に差し出したときだった。黒板の時計を見ると、まだ煮込み始めて十分ほどしか経っていない。本当なら、もっと時間をかけたい。けれど授業は四十五分しかなくて、私は前世の感覚を半分にまで縮めて、火加減だけで味を追い込んでいた。湊は、小皿を両手で受け取って、木製の小さなスプーンをそっと唇に運んだ。  一口。  それから、ほんの少しだけ間があって、もう一口。  眼鏡の奥の目が、ゆっくりと丸くなっていく。  「……なにこれ」  その声は、昨日までの湊の、淡々とした水のような声とは違っていた。驚きの輪郭が、はっきりと音の中に滲んでいた。湊はもう一度スプーンを皿に沈め、今度は鍋のほうを見て、それから私の手元を見て、最後に私の顔を見た。  「柊さん、これ、店出せるよ」  「……え」  「給食のとか、家で母さんが作るのと、ぜんぜん違う。なんか、奥のほうがちゃんとしてる。一口目はふつうなのに、飲み込んだあとに、野菜の甘いのが、後ろから来る」  奥のほうがちゃんとしてる、という言い方に、私の喉の奥が、ひゅっと鳴った。誉め言葉としては、あまりに素朴で、あまりに正確だった。前世で料理長が鍋の前で呟いていた、「下ごしらえの嘘は、最後の一口に出るんですよ」という、あの台詞をそのまま翻訳したみたいだった。  ショートカットの子も寄ってきて、「味見、味見」と小皿を取り合うように笑う。サッカー部の男の子も一口飲んで、「うわ、なにこれうまっ」と、ほとんど叫ぶような声を上げた。隣の班の女の子が振り返り、その隣の班の子もちらりとこちらを見る。家庭科室の空気が、ほんの少しだけ、ざわっと揺れた。目立たないように、という今日の宿題が、玉葱を切る音と一緒に、どこかへ転がっていってしまったのがわかった。  けれど、不思議と、胸は冷えなかった。  湊はスプーンを置いて、私の顔をまっすぐに見た。眼鏡の奥の目は、もう驚きだけではなかった。何かを静かに確かめるような、そんな光があった。  「……柊さん、これ、自分でもわかってるよね」  「……なに、を」  「うまい、ってこと」  私は答えられなかった。答える代わりに、鍋の中でゆっくりと回っているスープの表面を見た。油の粒が、いくつも、淡い光を弾いていた。前世の大きな寸胴鍋に比べれば、呆れるくらい小さな家庭科室の片手鍋。それでも、あの夜の厨房と、同じ匂いがした。同じ匂いをしていいのだろうか、と、ほんの一瞬、迷う自分がいた。迷った末に、ゆっくりと頷いた。否定する嘘を、今日はもう、つきたくなかった。湊の前でだけは。  「……うん」  小さな声だった。けれど、湊には、たぶん届いた。彼女はそれ以上何も聞かず、ただ、もう一度だけスプーンを取って、自分のぶんの一口を、静かに味わった。何かを噛みしめるような顔だった。

 授業の終わり、後片付けの最中に、隣の班の男子が「柊さんのとこ、スープ余ってたら一口くれない?」と冗談めかしてやってきた。湊が静かに首を振って追い払ってくれる。私は使い終わった包丁を洗いながら、水道の水の冷たさに指先を預けていた。蛇口から落ちる水の音の向こうで、誰かが「四組の柊さんっていう転入生、料理めちゃくちゃうまいらしいよ」と早口で話しているのが、聞きたくなくても耳に届いた。  廊下に出て、ワゴンで食器を返しに行く係を、私は自分から引き受けた。少しだけ、ひとりの時間が欲しかった。胸の奥で、ずっと押さえつけていた小さな昂りが、まだ収まりきっていなかった。湊が「付き合おうか」と言いかけて、私は首を横に振った。ワゴンの金属の取っ手を握ると、指先に、さっきの鍋の熱がまだ残っている気がした。  廊下はちょうど四時限目終わりのざわめきに満ちていて、すれ違う上級生の笑い声や、上履きのリズムや、誰かの笑い混じりの名前呼びが、耳のまわりで小さな渦をつくっていた。ワゴンの車輪が、かたかたと規則正しく鳴る。給食室の手前の角を曲がろうとした、そのときだった。  向こうの角から、均等な間隔の足音が近づいてくる。昨日、社会科準備室の陰で背中越しに聞いた、あの足音の運びかた。  私は、ワゴンの取っ手を握り直した。胸元の蝶々のリボンが、ひとつ、ゆっくりと上下した。

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