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断頭台で目覚めた魔導令嬢

第2話 第2話

第2話

第2話

竜の金瞳が、森を裂くように私を捉えた。

 距離にして、およそ二百メートル。木々の隙間越しに、古代竜の鱗が鈍い金色を放っている。地を踏む前足の爪が、樫の根をひと撫でで裂いた。空気の粘度が増して、肺に入り込む酸素が重たい。鼓膜の奥で、遠雷のような唸りが転がっていた。 「……待って。まだ、準備が終わってない」  小さく呟いて、私は片膝をついた。泥が膝頭に滲みる。汚れた令嬢服の裾が、じわりと黒く色を変えた。構わない。どうせ、もう舞踏会には戻らない服だ。  目を閉じて、呼吸を整える。頭の中で、さっきから散らかっていた設計図を一枚ずつ並べ直した。離脱式、鑑定式、そして──これから書く攻撃式。前世の私なら、ホワイトボードにマーカーを走らせながら、同僚に「この部分、冗長じゃない?」と突っ込むところだ。今は、ホワイトボードの代わりに空気中の魔力素が、指先の動きに合わせて淡い燐光を帯びる。燐光は、息を吸うたびに濃さを変えた。前世のモニターに映るスペクトル波形に似ている、と思う。違うのは、この光が私の皮膚の産毛を内側から撫でてくることだ。体温より少しだけ低い。くすぐったい、と表現するには、あまりに厳かで、祈りに似た温度だった。指先をほんの数ミリ動かすだけで、魔力素は従順に列を組み替え、また次の命令を待つように静止する。──従順すぎる、と私は思った。こんなに素直な素材を、この世界の魔導師たちは、どうしてあんなに力任せに扱っているのだろう。  ふと、気づいた。  この世界の術式は、儀式の所作ごとに魔力を「確保」する。詠唱のたびに、念のため多めに確保して、使い切れなかった分は霧散させる。まるで古いプログラムが、関数呼び出しのたびにメモリを余分に確保して解放し忘れているようなものだ。桁違いの無駄遣い。  ──なるほど。これは、リークだ。  私は息を呑んだ。この世界の魔導師たちが「大術式には膨大な魔力が要る」と信じているのは、式が重いからじゃない。式の実装が、根本的に垂れ流しているからだ。頭の中で、前世の後輩が書いた酷いコードが蘇った。ループの中で毎回データベース接続を張り直し、使い終わっても閉じない。実行するたびにサーバのメモリが膨らんで、夜中にアラートが鳴る。あのときの私は、朝礼で静かに怒って、後輩にペアプロを申し込んだ。同じことだ。同じ、本当に同じことが、この世界の根幹で起きている。違うのは、ここではそれを指摘してくれる先輩も、アラートを鳴らす監視システムも、存在しないということだけだった。  そこまで理解した瞬間、背中を冷たい何かが走った。恐怖ではない。確信だった。──勝てる。この身に宿った魔力量が現地の平均だとしても、私が書く式なら、竜の一体や二体、十分に釣りが来る。  指先が、震えるのをやめた。さっきまで膝頭で笑っていた恐怖が、設計図の裏側にそっと畳み込まれていく。怖さが消えたわけではない。ただ、怖さより先に、解きたい問題がある。それだけのことだった。前世の研究室で、締切前夜にコーヒーを三杯飲み干したときの、あの目の奥の熱。同じ熱が、今、令嬢服の下の肋骨の内側で灯っている。

 古代竜が、二度目の咆哮を上げた。  木々が波打つ。頭上から、折れた枝が雨のように降ってきた。一本が肩を掠めて、血の赤が令嬢服の白にぽたりと落ちる。私は顔を上げず、指先だけで空中に式を刻んだ。  第一行。媒介を指定する。血。ちょうど今、肩から垂れてくれている。好都合だった。  第二行。出力の形を決める。貫通、点、単発。広範囲は要らない。狙いは、竜の眉間の奥──鑑定で拾った魔核の位置だ。  第三行。圧縮率の指定。ここが、この世界の誰も書いたことのない一行。現地術式が十の工程で組み上げる出力を、一の工程に畳み込む。前世の専門用語で言えば、畳み込み変換。比喩ではなく、文字通り、術式を畳んで圧縮する。  私の指が止まった。  本当に、これでいいのか。三行で、古代竜を。  指先が、式の第四行を書き出す手前で止まっていた。空中に浮かぶ三本の光の線は、完成された楽譜のように静かで、けれど演奏者を待って震えている。三行。たった三行で、この世界の災害指定を撃ち落とすつもりでいる自分が、急に正気ではないように思えた。  前世の研究室なら、この式は査読前にもう一度シミュレーションにかけている。再現性、安全率、失敗時の被害範囲。どれも検証していない。ぶっつけ本番で、対象は災害指定。失敗したら、この森ごと私が吹き飛ぶ可能性すらある。  喉の奥が干上がっていた。唾を飲み込もうとして、舌がうまく動かない。耳の内側で、自分の心拍が太鼓のように響いている。前世の私は、こういう状況を一番嫌っていた。検証されていない式、査読されていない論文、再現性の取れていない実験。そのどれにも、同僚として「やめなよ」と声をかけてきた側の人間だ。その私が今、自分自身に向かってその台詞を言えない。言ってしまったら、次の一秒に生き残る方の選択肢が消えるからだ。  ──でも。  私は目を開けた。竜の金瞳が、こちらに向かってまっすぐ突進してくるのが見えた。もう、シミュレーションの時間はない。  本番環境で走らせるしかない。  本番環境。前世で一番嫌いな言葉だった。テストも通していないコードを本番に投げるなんて、正気の沙汰じゃないと、ずっと思ってきた。そう思ってきた私が、今、自分の命をその本番環境に乗せようとしている。皮肉だ、と思う余裕すら、もうなかった。 「……試し撃ち、と呼ぶには、相手が大きすぎる」  笑いが漏れた。自分の声が、少しだけ震えていた。震えは喉から胸へ、胸から指先へ降りていくはずだったのに、手首のあたりで不思議と止まった。止めたのは恐怖の反対側にある何か──好奇心、あるいは、職業病だった。膝も、まだ笑っている。それでも指先だけは、不思議なほど正確に動いた。  第四行。起動条件。私の瞬き一回。  式を、閉じる。  空中に描いた魔法陣が、ぎゅうっと一点に収束した。直径三メートルほどあった光の幾何紋が、親指の爪ほどの一点に畳まれる。その瞬間、森の空気が軋んだ。木々の葉がざわりと逆立ち、遠くの鳥が悲鳴を上げて飛び散った。圧縮の反動で、半径十メートルの落ち葉が渦を巻いて宙に浮く。  古代竜の足が、止まった。  あれほどの巨体が、本能で何かを察したのだ。金色の瞳の奥に、私が初めて見る感情が揺れた。──警戒。あるいは、困惑。  遅い、と私は思った。

 瞬き、一回。

 親指の爪ほどの光点から、音もなく、一本の線が伸びた。  それだけだった。  派手な閃光も、轟音も、衝撃波もない。ただ、森の空気に白銀の細い線が一本、竜の眉間まで引かれた。前世でレーザーポインタを初めて見た時の、あの静かな鋭さに似ていた。線は、古代竜の鱗を抵抗なく貫いて、後頭部の向こう側の木立までまっすぐ突き抜けた。後方の巨木が三本、ほぼ同時に音もなく倒れ始める。  一秒。  二秒。  古代竜は、まだ立っていた。何が起きたのか、理解していない顔だった。やがて、前足がぐらりと揺れ、膝が地に沈む。地響きが、私の踵まで届いた。巨体が横倒しになる寸前、金色の瞳が私を探すように動いて──そこで光が消えた。  森が、静まった。  鳥の声も、虫の声も、何一つない。圧縮術式の反動で撒き散らされた魔力素が、しんしんと雪のように落ちてくる。私は、空中に残った光の残滓を指先で撫でた。思っていたより、ずっと軽かった。これが、三行の重さだ。  息を、吐く。  ──成功。再現性、要検証。安全率、ゼロ。倫理審査、未通過。査読者がいたら、間違いなく首を傾げる案件だった。 「……生きてるのは、こっちか」  自分の呟きが、妙に他人事に聞こえた。

 足が震え出したのは、竜が完全に沈黙したあとだった。膝から力が抜けて、私はその場に座り込む。掌を地面についたら、指先がずぶりと苔に沈んだ。冷たい。生きている感触だった。  頭の中では、すでに次の設計が動き出している。離脱式、鑑定式、攻撃式。三つで足りるなら、あと七つ書けば、この世界で私の知らないことはだいぶ減る。  だけど、今は少しだけ、休ませてほしかった。  風が、森を渡った。梢の葉が静かに鳴って、木漏れ日が私の銀髪を撫でる。令嬢服の裾の汚れは、もう数えきれない。首筋には、刃の通らなかった細い赤線だけが残っている。処刑台のセレスティアは、たぶんこの森のどこかに置いてきた。ここにいるのは、まだ名前のない、式を書く女だ。  その時、遠くから、乾いた馬蹄の音が聞こえた気がした。  一頭ではない。複数。竜の咆哮を聞きつけて、誰かが森に入ってきている。  私はゆっくりと顔を上げ、倒れた竜の巨体の向こう、木立の奥を見つめた。指先が、無意識のうちに次の式を空中に組み始めている。逃げるための一行か、それとも、迎え撃つための一行か──自分でも、まだ決めていなかった。

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