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断頭台で目覚めた魔導令嬢

第1話 第1話

第1話

第1話

刃が、落ちる。

 冷たい鉄の匂いと、民衆の嘲笑が同じ温度で首筋を撫でた。断頭台の木目は、ひどく近い。私──セレスティア・ヴェル・アーデルハイトは、うつ伏せに押さえつけられた頬骨で、その冷たさを数えていた。 「悪女に、死を!」 「毒婦! 聖女様に手を出した報いだ!」  石が飛ぶ。額を掠めて血が滲む。痛みよりも、赤錆色の石塊が乙女ゲーのスチルに似ていることの方が気になった。  ──ああ、なるほど。これは、あのゲームだ。  脳の奥で、なにかの栓が抜けた音がした。

 前世。モニターの光。深夜までコードを書いていた研究室。『魔力構造解析』という博士論文の題目。そして、就寝前にやり込んでいた乙女ゲー『星霜のアーデルハイト』──悪役令嬢セレスティアが婚約破棄の末に処刑されるバッドエンド。  全部、一息に戻ってきた。  記憶の雪崩が止まった時、私はまだ断頭台に寝かされたままだった。首の上で、刃が陽を弾いている。 「……冗談でしょう」  小さく呟く。喉は乾いて、声は掠れていた。けれど頭だけは、不思議なほど冴えている。  婚約者の王太子エドガルド。血の繋がらない義妹フィオラ。──あの二人が私を嵌めた。毒物を義妹の紅茶に仕込んだとされ、審問すら形ばかりだった。父は一度も目を合わせなかった。社交界の誰も、私を庇わなかった。  愛されなかった十八年だ。今更、惜しくもない。  惜しくはない、はずだった。  けれど胸の奥で、何かが静かに立ち上がった。泣くのでも、喚くのでもない。もっと静かで、ずっと硬い感情。それは怒りに似ていて、怒りよりも冷たかった。前世で徹夜明けにバグの根本原因を突き止めたときの、あの据わった目線に近い。感情ではなく、手続きだ。処理すべき事象だ。──そう、私の頭はもう、処刑される令嬢のそれではなかった。

 視界の端で、処刑人が刃の綱に手をかけた。観衆がどっと沸く。最前列の貴婦人が扇で口元を隠しながら、目だけは爛々と光らせている。その扇の金糸刺繍が陽を受けて、蜜蜂の腹のようにちかちかと瞬いた。どこかの子どもが親の肩車の上で手を叩いている。別の老人が干し肉を齧りながら、こちらを指差して何か囃し立てていた。人の死が、祭りの見世物と同じ顔をしていた。広場の隅では、物売りが焼き栗の匂いを風に流している。甘く焦げたその匂いが、私の鼻腔を掠めて、妙に腹立たしかった。人が死ぬ朝にも、誰かは朝食を売っている。それが世界の仕組みなのだと、妙に冷めた部分が頷いた。 「さよならだ、公爵令嬢」  処刑人の声は、意外なほど平坦だった。仕事の手順を読み上げるような、抑揚のない声。きっとこの男は、私の名前すら覚えていない。  刃が、落ちる。  ──その一秒に、私は世界の術式を全部読み切った。

 空気中の魔力素が、まるで付箋を貼られたように光って見える。詠唱句、魔法陣、媒介石。どれもこれも、前世の専門で見れば、ひどく冗長な実装だった。同じ関数を三回呼んでいる。不要な変数宣言。冗長な条件分岐。教科書通りの詠唱句は、要するに人間の口が回る速度に合わせて引き伸ばされたラッパーでしかない。核となる式は、たった数行。残りは全部、儀式のための飾りだ。  なるほど。この世界の術式、リファクタリングすれば桁違いに軽くなる。  刃が、肩口に届く寸前。時間が、粘度を帯びた蜂蜜のように遅くなる。光の粒ひとつひとつが、指で摘めそうなほど鮮明に見えた。  私の唇が、音もなく動いた。詠唱ではない。設計図だ。頭の中で組み上げた最小単位の空間歪曲式。媒介はこの身の血と、髪にまだ残る魔力素。出力は──「この場から、座標Δで離脱」。たった一行。変数は血、引数は距離、戻り値は生存。シンプルすぎて、この世界の誰も書いたことのない式。 「──縮めて、実行」  どぷん、と水に沈むような感触。耳の奥で圧が抜け、視界がぐにゃりと歪んだ。民衆の悲鳴が遠ざかる。断頭台の刃が、虚空を切って木台に食い込む音だけが、ひどく遠くから聞こえた。誰かの「消えた!」という叫びが、最後に鼓膜を掠めた。

 気づけば、知らない森の中に倒れていた。  湿った土の匂い。頬に触れる苔の冷たさ。頭上では梢が揺れ、木漏れ日が縞を作っている。処刑装束の白い麻は、泥と血で汚れていた。髪を押さえていた銀の髪留めが、どこかへ落ちていた。どこか遠くで小鳥が鳴いている。風が梢を鳴らすたび、木漏れ日が私の手の甲を撫でた。生きている者だけが受け取れる光だった。指先に触れた苔は、まるで生き物の背中のようにしっとりと湿っていて、押し返すような弾力があった。鼻の奥にはまだ刑場の鉄の匂いが残っていたが、森の呼気がそれを少しずつ洗い流していく。  私は、ゆっくりと身を起こす。  生きている。首も、繋がっている。指先で喉元をなぞって、ようやく息が戻った。触れた皮膚は、まだ刃の残響で微かに震えていた。脈が、首筋の下で律儀に時を刻んでいる。──そうか。私の心臓は、あの石畳の上で止まる予定だったのに、今こうして胸を押し上げている。一度だけ、深く息を吸い込んだ。肺の奥まで、森の湿った空気が届いた。生きているという事実が、ようやく骨の髄まで降りてきた。 「……成功、か」  呆れるほど呆気なかった。刑場から離脱する、という一行を実行しただけで、命が繋がった。前世の私なら、論文一本書けている案件だ。査読者に「新規性が高すぎて再現困難」と突き返されるやつだ。  木の幹に手をついて立ち上がる。膝が笑った。怖かったのか、安堵したのか、自分でもよく分からない。ただ、掌に食い込んだ樹皮の感触だけが、この現実を縫い止めていた。粗い、乾いた、生きた木の手触り。  ただ、ひとつだけ決まっていることがある。 「……許す、なんて言葉は、今日から辞書に入れない」  声に出すと、腹の底が据わった。自分の声が、前世の研究室で実験結果を読み上げたときの声に似ていて、少しだけ笑いそうになった。泣くより先に、仕事モードに入る癖は、どうやら魂に刻まれているらしい。

 森の奥で、空気が軋んだ。  それは音というより、圧だった。鼓膜ではなく、皮膚で聞く種類の響き。近くで大きな魔力が身じろぎしている。私の離脱式が、森の魔力場を勝手に撫でてしまったらしい。式の波紋が、眠っていた何かの鼻先を突いたのだ。迂闊だった。前世なら、本番環境でうっかり重いクエリを流した時の青ざめ方に近い。  梢の向こうで、何かが咆哮する。地響き。鳥たちが一斉に飛び立つ。足裏から伝わる震動が、肋骨の内側まで届いた。木々の根が、ぞろりと地面を波立たせる。空気が一段、重くなった。耳の奥で、気圧の膜が張るような鈍い痛みが走る。  試しに、前世で言うところの「鑑定」めいた術式を瞬時に組んでみる。情報を読むだけの受動式なら三行で足りる。編んで、走らせる。指先が、空中に見えない文字を置いていく感覚。  ──対象:古代竜。等級:災害指定。 「……出迎えが、豪勢すぎる」  私は、薄く笑った。唇の端が、自分でも意外なほど自然に持ち上がった。恐怖は、確かにあった。膝はまだ笑っていたし、掌には冷たい汗が滲んでいた。でもそれ以上に、好奇心が背骨を伝って這い上がってきた。  ちょうどいい、と思った。この世界の術式がどこまで圧縮できるのか、どこまで私が「規格外」なのかを、生きた的で確かめたい。それに何より、ここで死ねない理由が、一秒前にできたばかりだ。──エドガルド。フィオラ。父。私を見殺しにした社交界。あの顔ぶれに、もう一度、今度は私の側から会いに行くために。  汚れた令嬢服の裾を持ち上げ、私は森の奥へ踏み出す。足元の落ち葉が、かさりと乾いた音を立てた。一歩ごとに、断頭台の上にいた少女が、一枚ずつ剥がれ落ちていく気がした。  頭の中で、攻撃術式の設計図が、すでに何枚も展開されていた。冗長な詠唱は、全部削ぎ落とす。必要なのは、たった一行。媒介は血、出力は貫通、引数は竜の質量。式はもう、指先で組み終わっている。  ──私を捨てた奴ら、全員、見届けるまで。  木々の向こうで、竜の金色の瞳が、こちらを睨みつけた。その瞳の奥で、古い魔力が渦を巻いている。私は、静かに息を吸った。処刑台で吸えなかった分を、取り戻すように。

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