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脚注の将よ、史を覆せ

第3話 第3話

第3話

第3話

夜が更けるにつれて、鍛冶の槌音は途絶えた。代わりに、谷筋を這う風だけが陣所の柵を鳴らし続けている。湿った土の匂いが、夜気に混じって鼻腔の奥まで這い上がってくる。

 藤代は名簿の板を膝に置いたまま、一度も目を閉じることができずにいた。焚き火は既に熾になり、赤い塊が時折ぱちりと小さく爆ぜるばかりである。その微かな明滅に照らされて、板の上の十一の名が浮かんでは沈む。弥兵衛。平助。源蔵。喜八。作之丞。又七。――知っている。この名が、いかなる史料にも残らぬことを。残らぬということは、すなわち誰にも弔われず、誰にも語られず、この谷筋の泥の下に朽ちるということだ。

 そして己も、その一人になる。

 その事実が、藤代の臓腑を氷の手で鷲掴みにしていた。死ぬ。明日、死ぬ。論文の脚注に書いた「全滅」という二文字が、今や己の骨の髄まで染み込んで、内側からがたがたと歯を鳴らしている。安アパートで古文書を眺めていたとき、全滅という字面には、どこか乾いた響きしかなかった。史料上の数字に過ぎなかった。十余名、全滅。それだけのことだった。だが今、その十余名の一人として夜の陣所に座り、焚き火の灰の匂いを嗅ぎ、隣で鼾をかく男の体温を感じている。乾いた二文字が、生ぬるい血と肉で膨れ上がり、藤代の喉元を塞いでいた。

 死んだら、どうなるのだろう。この身体が滅べば、令和に戻れるのか。それとも、ただ消えるのか。答えを持つ者は、この時代にも、あの時代にも、おそらくどこにもいない。考えても仕方のないことだと分かっている。分かっていて、なお考えずにいられぬのが、死を前にした人間の業というものだろう。

***

 眠れぬまま横になっていると、夜の陣所はおよそ静かなものではなかった。

 足軽たちの鼾、寝返り、歯軋り。時折、誰かがうなされて短い叫びを上げ、隣の者がぞんざいに肩を叩いて黙らせる。藤代のすぐ傍では、源蔵が仰向けに寝転がったまま、天を指差して星の名を数えていた。

「あれが北の大星じゃ。あれさえ見つけりゃ、どこにおっても家の方角が分かる」

 誰に語るともなく、源蔵は呟き続けた。声は低く、どこか子守唄のような調子を帯びている。家に帰りたいのだろう。帰る家があるのか、もう焼かれたのか、藤代には分からない。ただ、源蔵が「北の大星」と呼んだ光を、藤代も仰いで見た。北極星だった。五百年後もあの星はあそこにある。そのことだけが、今の藤代にとってかろうじて確かなものだった。

 少し離れた場所では、喜八が膝を抱えて座ったまま、小さな木片を削っていた。月明かりに透かして見ると、それは粗末な仏像の形をしている。刃こぼれした小刀で、一削り一削り、丁寧に顔を彫り出していた。木屑が膝の上に薄く積もり、松脂に似た青い香りが微かに漂っている。

「女房に渡すんじゃ」

 藤代の視線に気づいた喜八が、照れたように木片を袖で隠した。

「戦が終わったら、じゃが」

 戦が終わったら。その言葉を、藤代は声に出さずに繰り返した。喜八にとって「戦が終わったら」は希望だった。しかし藤代だけが知っている。この男に、戦の後はない。削りかけの仏像は完成することなく、泥の中に踏み潰されるか、あるいは誰にも拾われぬまま朽ちる。史料には、木片の一欠片も記されていない。

 弥兵衛は眠らなかった。組頭は陣の端に腰を据え、西の谷筋のほうを黙って見つめている。左の削がれた耳朶が、月光に白く浮き上がっていた。何を考えているのか、その横顔からは読めぬ。ただ、時折ゆっくりと瞬きをするのが、藤代の位置からも見えた。弥兵衛もまた、明日を知らぬまま、明日を待っている。

***

 寅の刻を過ぎた頃、藤代は静かに身を起こした。

 足軽たちは皆、眠りに落ちている。源蔵の鼾が低く響き、喜八は削りかけの仏像を胸に抱いたまま丸くなっていた。弥兵衛だけが目を開けていたが、暗がりの中、藤代のほうは見ていなかった。

 逃げるなら、今だ。

 東の山道を辿れば、夜明け前に陣を離れられる。史料通りなら敵の奇襲は卯の刻過ぎ、時間は十分にある。足軽一人が消えたところで、追手は出ぬ。合理的に考えれば、それが唯一の正解であった。藤代は論文を百本書いた学者だ。感情ではなく、論理で判断すべきだ。

 膝の上の名簿の板を脇に置こうとして、指が動かなかった。墨の文字に触れた指先が、まるで板に根を生やしたように離れない。平助、と書いた二文字の上で、藤代の親指が止まっている。欠けた前歯で笑う少年の顔が、暗闇の中にちらついた。「明日、生きとったら返してくれりゃええ」。あの声が、鼓膜に貼り付いて剥がれぬ。

 藤代はゆっくりと立ち上がった。腰に差した短い脇差の鞘が、筵に触れてかすかに鳴った。足音を殺し、陣の東端に向かう。柵の隙間から身を滑らせれば、あとは山道を駆けるだけだ。二歩、三歩。暗い地面を踏みしめるたびに、脳裏で学会の白い蛍光灯がちらつく。あのとき、名もなき者たちの死に意味を見出したいと語った自分の声が、酸い味と共に胸に蘇る。

 壇上の恥辱も、老教授の嘲笑も、研究室を追われた屈辱も、すべて遠い。だが、あの論文に込めた思いだけは、今なお藤代の血の中を巡っていた。名もなき者たちに、名を。記録に残らぬ者たちに、せめて一人でも覚えている人間を。それが学者としての藤代の、最後に残った矜持であった。

 柵まであと三歩の所で、藤代の足が止まった。

 振り返った。闇の中に、十の影がある。鼾をかき、仏像を抱き、星の名を数え、明日も知らず眠る者たち。この者たちの名を書いたのは己だ。板の上だけではない。脳の中に、一人一人の声と顔と仕草を刻んだのは己だ。その刻印を持ったまま逃げることは、できるのかもしれない。できるのかもしれないが――それをやった瞬間、藤代悠一という名前こそが、史料の脚注にすら値せぬ一行になる。

 膝の力が抜け、藤代はその場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆い、声を殺して長く息を吐いた。指の隙間から、涙ではなく、ただ熱い息だけが漏れた。

 ――逃げぬ。

 逃げぬと決めたところで、何ができるわけでもない。槍も弓も使えぬ。腕力もない。あるのは、史料に基づく五百年先の知識だけだ。だがその知識の中に、敵の奇襲経路がある。迂回の方角がある。地形の罠がある。すべてを覚えている。論文のために何百回と読み返した、あの一行の前後に散らばる断片を、藤代の頭は正確に保持していた。

 使えるのか。この知識を、今この場で。

 手のひらを見た。薄い闇の中に、自分の両手がある。墨の染みがこびりつき、豆だらけで、学者の手には見えぬ。だが、この手で板に名を書いた。この手で史料を写した。ならばこの手で、一つくらい歴史を書き換えてもよいのではないか。

***

 空の端が、再び魚の腹の色に白み始めていた。藤代は柵の傍にしゃがんだまま、西の谷筋を見つめている。まだ暗い稜線の向こうに、昨日聞こえた鍛冶の槌音の主がいる。史料では敵は南の山腹を迂回し、谷の出口を塞いだ。ならば、その迂回路を事前に知っている者がいれば――。

 背後で、筵を踏む足音がした。振り向くと、平助が目を擦りながら近づいてくる。少年は藤代の傍にしゃがみ込み、欠伸を噛み殺しながら同じ方角を見た。

「兄さん、夜通し起きとったのか」

「ああ」

「眠れんかったか。まあ、明日が怖いのは皆同じじゃ」

 平助はそう言って、小さく笑った。怖いと口に出せる少年の強さが、藤代には眩しかった。少年の横顔に朝の最初の光が触れ、欠けた前歯の影が頬に薄く落ちる。

「平助」

「ん」

「明日、死なせぬ」

 己でも驚くほど低い声が出た。平助が目を丸くして藤代を見た。藤代は少年の目を見返した。学者の目ではなかった。何かを賭ける者の目であった。

 その言葉を裏づける手段は、まだ頭の中で形を成しきっていない。だが藤代の脳裏には、西の谷筋の地形と、敵の迂回経路と、そして弥兵衛という組頭の、あの妙に澄んだ目が、一つの線として繋がりかけていた。

 東の空が割れるように明るんでいく。陣太鼓の、最初の一打が、地を揺らした。

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