第2話
第2話
馬のいななきは、二度、三度と繰り返された後、山の稜線の向こうへ吸い込まれるように消えた。その残響が耳から抜けるまでの数秒、藤代は息を止めていた。馬が何に怯えたのかは分からない。獣か、人か、あるいはこの山そのものが発する、言葉にならぬ気配か。
藤代は焚き火の傍で膝を抱え、闇の奥を凝視し続けていた。周囲の足軽たちは既にまばらな鼾を立てている。筵の下から染み上がる地面の冷気が、腰骨を芯から冷やした。四月だというのに、山中の夜気は容赦がない。吐く息が白く、焚き火の明滅に照らされては消える。炎が爆ぜるたびに、松脂の甘い匂いと焦げた土の匂いが混ざり合って鼻腔を刺した。空を仰げば、星が、痛いほどに近い。大気汚染のない空というものを、藤代は知識としてしか知らなかった。それが今、瞼の裏まで焼きつくような白さで瞬いている。天の川が、まさしく川として、空の真ん中を横切っていた。安アパートの窓から見上げた夜空には、精々が木星と、滲んだ月があるばかりだった。ここでは、星が降る。降って、この痩せた陣所を、この疲れ果てた兵たちを、等しく照らしている。
眠れぬまま、藤代は己の掌を見つめた。学者の手だった。ペンだこはあっても、剣だこはない。槍を握れと言われたが、構え方すら知らぬ。史料の中では合戦の推移を俯瞰で眺めていた男が、今やその渦中の、最も脆い一片として転がっている。指先が微かに痙攣するのを、藤代はただ見つめていた。震えを止めようと拳を握ったが、爪が掌に食い込む痛みだけが鮮明で、震えは止まらなかった。
やがて空の端が、魚の腹のように白み始めた。
***
朝は、怒号と共に来た。
「起きよ、起きよ! 陣替えじゃ!」
柵の向こうから駆け込んできた伝令の声に、足軽たちが藁のように跳ね起きる。藤代もつられて身を起こしたが、寝不足の頭は重く、視界の端がちらちらと揺れた。腹が鳴った。昨夜の握り飯の半分きり、胃に入れたものはない。渇いた喉の奥に、胃液の酸っぱさだけが込み上げてくる。
慌ただしい朝の陣所で、藤代は昨日己を拾った中年の雑兵に腕を掴まれた。掴む力が思いのほか強く、骨が軋むような痛みが走った。
「おい流れ者、ちょうどよい。人が足らぬ。藤代とか申したな」
「は、はい」
「三ノ組に入れ。組頭は弥兵衛殿じゃ。あの旗の下におる」
指差された先に、継ぎ接ぎだらけの幟が一本、朝風に力なくはためいていた。その下で、四十がらみの痩せた男が、顎鬚を引きながら数名の足軽に何事か指図している。日に灼けた額に深い皺が刻まれ、左の耳朶が半ば削がれていた。古傷であろう。にもかかわらず目だけが妙に澄んでいて、藤代が近づくと、値踏みするような視線がすうと通った。まるで刃物で撫でられたような感覚だった。
「槍は使えるか」
「……いえ」
「弓は」
「いえ」
「刀は」
藤代は黙って首を横に振った。弥兵衛は鼻から短く息を吐いたが、怒りはなかった。この手の無能は珍しくもないのだろう。戦が長引けば、田から引き剥がされた百姓が何も持たずに陣に放り込まれる。藤代はその最たるものに見えたはずだ。
「ならば荷を担げ。それと、字は読めるか」
その問いに、藤代の喉が一瞬つまった。ここで「読める」と答えることの意味を、瞬時に計った。戦国の足軽で字が読める者は稀だ。怪しまれるか、あるいは重宝されるか。だが嘘をつくだけの余裕は、今の藤代にはなかった。空腹と恐怖で、思考が擦り切れかけている。
「……読めます」
弥兵衛の眉が、僅かに動いた。
「坊主崩れか、それとも公家の落ちぶれか。まあよい。名簿を任せる。三ノ組の人数と名を、板に記しておけ」
渡されたのは、削りかけの木板と、煤を溶いた墨汁の入った欠けた椀であった。筆の代わりに、細く裂いた竹の先を墨に浸して使えと言う。椀の縁に指を添えると、土器の冷たさと、墨の湿った匂いが同時に伝わった。研究室の万年筆とは何もかもが違う。だが字を書くという行為だけは、確かに藤代の手が覚えていた。藤代は板を受け取り、三ノ組に割り振られた足軽たちの名を、一人ずつ聞き取って記していった。
平助、と名乗る者がいた。昨夜、握り飯を半分くれた少年だった。名を聞き返すと、少年は歯を見せて笑った。前歯が一本欠けている。齢は十五、六であろうか。頬にはまだ幼さの残る丸みがあったが、手の甲だけは既に農作業で荒れ、ひび割れた皮膚が赤黒く光っていた。
「字で書いてもらうのは初めてじゃ」
その笑みに、藤代の指先が止まった。竹筆の先から墨が一滴、板の上に落ちて丸く滲む。名を記す。ただそれだけのことに、これほどの重さがあるとは、論文を百本書いても知り得なかっただろう。
十一人。三ノ組の総員は、たったの十一人であった。
***
名簿の記載を終えた藤代の手が、不意に凍りついた。
十一人の名を、板の上に並べた。誰の名も、史料には載っていない。一人として残っていない。それは知っている。だが問題は人数だった。三ノ組、十一名。脚注の傍らに、藤代自身が補注として書き添えた走り書きが、脳裏にまざまざと蘇る。
――某郷の小領主、手勢凡そ四十。うち前衛の一組、士卒十余名、敵の迂回奇襲により全滅。
十余名。前衛。全滅。
板を持つ手が、がたがたと震え始めた。墨の椀を取り落としそうになり、慌てて両手で抱え込む。黒い液体が指の間から溢れ、手首を伝って小袖の袖口を汚した。それすら気にならぬほどに、藤代の頭の中を一つの確信が焼いていた。
三ノ組は、前衛に配される。史料にある「十余名の全滅した一組」とは、まさにこの組のことだ。
弥兵衛が何やら声を上げ、足軽たちが槍を手に整列を始めている。平助が藤代の傍を通りがかり、大丈夫かと声をかけた。藤代は辛うじて頷いた。頷きながら、この少年が明日には死ぬのだと、喉の奥で叫び出しそうな何かを必死に押し殺していた。平助の欠けた前歯が、笑うたびに見える。その一本の欠損すら、史料のどこにも記されていない。記されるはずもない。
陣所の向こうから、馬上の人影が一つ、近づいてくるのが見えた。具足は古びているが、胴の漆だけが妙に丁寧に塗り直されている。小領主であった。顔は細く、頬骨が張り、目の下に深い隈を刻んでいる。年の頃は五十前後か。馬を降り、弥兵衛と二言三言交わした後、居並ぶ足軽たちの前に立った。馬の鞍に括りつけられた水筒が、風に揺れてかちゃりと鳴った。
「明朝、西の谷筋に陣を移す。三ノ組は前衛を務めよ」
それだけだった。訓示も鼓舞もない。声は淡々として、どこか諦念の色を帯びていた。戦に勝てるとも、生き延びられるとも、この男は信じていない。ただ領地を守る義務だけが、痩せた背中を戦場に押し出しているのだと、藤代には分かった。研究者の目が、その背中に滲む疲弊を読み取っていた。治める村の名も、抱える妻子の数も、藤代は知らない。史料に残っているのは「某郷の小領主」という五文字だけだ。
足軽たちが散っていく中、藤代は名簿の板を胸に抱いたまま、立ち尽くしていた。西の谷筋。史料では、そこが殲滅の地だった。敵は南の山腹を迂回し、谷の出口を塞いで、退路を断つ。地形の不利に気づかぬまま前衛に立った十余名は、袋の中で殺される。
それを知っているのは、この時代で、藤代ただ一人であった。
***
日が傾き始めていた。
藤代は陣所の隅で、名簿の板を膝に置いたまま、十一の名を順に指で辿っていた。竹筆の拙い字で記された、誰の記憶にも残らぬはずの名前たち。弥兵衛。平助。源蔵。喜八。作之丞。又七。――指先が、一つ一つの名の上を滑るたび、焚き火の傍で見たそれぞれの顔が浮かんでは消えた。源蔵は名を告げるとき唾を飛ばした。喜八は自分の名の字を知らず、「木の八でよいか」と尋ねた。作之丞は足を引きずっていた。又七は、何も言わず、ただ頷いた。十一人の十一通りの声と顔と仕草が、板に刻んだ墨の文字の下に、まだ温かく息づいている。
脚注の一行に収まるには、この者たちは、あまりにも確かに生きている。
――逃げるか。
学者としての藤代が囁く。史料は明日の結末を教えている。ならば今夜のうちに陣を抜け、東に走れば死なずに済む。合理的だ。一介の足軽が消えても、誰も追いはしない。
だが、膝の上の板が重かった。十一人分の名の重さが、藤代の足を地面に縫い止めていた。この名を書いたのは己だ。書いた以上、読み捨てることが、藤代にはどうしてもできなかった。
西の空が、昨日と同じ血の色に染まっていく。その赤は六畳間の夕焼けと同じ色だった。あのとき文机に突っ伏した男と、今ここで名簿を抱える男は、果たして同じ人間なのか。
遠くの谷筋から、微かに鍛冶の槌音が風に乗って届いた。敵方が、陣を構え始めている。槌音が一つ打たれるごとに、明日が一歩ずつ近づいてくる。藤代は板を抱き締め、十一の名の上に額を伏せた。墨の匂いが鼻先を掠めた。それは研究室のインクとも、令和の印刷物とも似つかぬ、煤と膠の生々しい匂いだった。