第1話
第1話
血のような夕焼けが、畳敷きの六畳間をゆっくりと犯していた。
藤代悠一は、安酒の瓶を傾けたまま、文机の上に広げた古文書の写しを睨んでいる。墨の薄れた行間に、もう何百回と見返した一文があった。天文二十年、尾張某郷、小領主某の手勢、理不尽なる敵襲に遇い、士卒ことごとく討死す――ただそれだけの、脚注にもならぬ一行。名前すら残されぬ、名もなき将と名もなき足軽たちの最期であった。瓶の底に残った焼酎が、傾けるたびにちゃぷり、ちゃぷりと安っぽい音を立てる。畳はところどころ毛羽立ち、藺草の匂いに混じって、昨日の冷や飯の饐えた臭気がかすかに漂っていた。
「……くだらぬ論文を書きおって」
耳の奥で、学会の老教授の声が蘇る。半年前、藤代が壇上で読み上げた発表は、失笑と咳払いに埋もれた。歴史の主役でもなく、勝者でもない、名もなき者たちの死に意味を見出そうなどという試みは、学問の名にすら値せぬと切り捨てられた。研究室の鍵は取り上げられ、契約は更新されず、三十路を過ぎた博士は畳の染みのような男として、この安アパートに打ち捨てられた。あの日、演題の紙を握りしめた手のひらに滲んだ汗の冷たさを、藤代はまだ覚えている。壇を降りたとき、誰も目を合わせてくれなかった。廊下の白い蛍光灯が、やけに眩しかった。
家族からの年賀状も、もう二年来ぬ。手の中に残ったのは、安酒と、史料の行間にだけ棲む死者たちの息遣いだけだった。
「俺の人生にも、脚注の一行ぐらい、残るだろうか」
独りごちて、藤代は苦く笑った。窓の外で、夕陽が赤を深める。その赤が、やけに生臭い。酔いのせいか、古文書の墨がにじみ、文字が土煙のように立ち昇って見えた。まずい、と思ったとき、藤代の額は文机の板に落ちていた。
鉄錆の匂いが鼻を突いた。
それが、現代の最後の記憶であった。
***
草の匂いと、泥の匂いと、人の血の匂いが、同時に押し寄せた。
藤代は畦道に膝をついていた。頬を撫でるのは、安アパートの黴臭い風ではない。乾いた土埃を孕んだ、低い山風である。風は藤代の前髪を乱し、耳の奥にまで細かな砂粒を運び込み、喉の奥をざらりと撫でた。顔を上げれば、青の薄い空の下、麦の刈り取られた田が段々に続き、その向こうに低い山並みが青く霞んでいた。己の身体を見下ろせば、着ているのは洗いざらした麻の小袖、腰には縄、足は藁の沓。手の甲には見覚えのない擦り傷が数本、赤黒くかさぶたを作っている。指先で触れると、かさぶたの縁がざらりと剥がれかけ、薄く滲んだ血の匂いが鼻先をかすめた。
――夢ではない。
頭の芯が、火を点けたように冴えた。史料で飽きるほど読んだ景色、論文のために脳裏に組み立て続けた時代の匂い。それが今、五感のすべてを絡め取って、藤代の肺に染み込んでくる。遠く、陣太鼓の低い響きが地を伝い、近くの畦には、麻縄で束ねられた首級が三つ、無造作に転がっていた。目は、半ば開いたままである。白目の上に、早くも蠅が数匹止まっており、藤代はその光景から目を逸らすこともできずに、ただ自分の呼吸が浅くなっていくのを聞いていた。唾を飲もうとしたが、口の中はすでに干からびており、舌が上顎に貼り付いて剥がれなかった。胃の腑の底から、酸い塊がせり上がってくる。論文の註でさらりと書き流した「首級三」という数字が、今、己の目の前で、蠅の羽音と共に、生ぐさい現実として転がっているのだった。
「……天文、二十年」
乾いた唇が勝手に呟いた。尾張、片田舎、没落小領主――符号が、恐ろしい速さで藤代の頭の中で組み上がっていく。そしてその組み上がりの中心に、あの脚注の一行があった。名もなき将、名もなき足軽、理不尽な殲滅戦。嘲笑され追放された、己の論文の主題そのものの真っ只中に、藤代は放り出されていた。
「おい、生きとるのか」
しわがれた声が頭上から降った。振り向けば、埃にまみれた胴丸を纏った中年の雑兵が、槍の石突きで藤代の肩を小突いていた。無精髭の奥で、疲れた目だけが存外に優しい。
「流れ者か。名は」
「藤代……悠一と、申します」
口は勝手に、半ば現代の名を告げていた。雑兵は怪訝な顔をしたが、深くは問わなかった。この乱世、名乗りが嘘でも本当でも、明日には屍になるかも知れぬのだ。
「陣に来い。握り飯の一つもやる。代わりに槍を担げ」
藤代は黙って頷いた。立ち上がった足がもつれ、雑兵の袖を掴んで辛うじて支えた。その手の下で、相手の体温が確かに脈打っている。熱い。生きている。論文の中ではただの駒だったはずの男が、息をして、汗をかいて、己を憐れんでいる。袖口からは饐えた汗の匂いと、古い血の匂い、そして藁と煤の匂いが入り混じって立ち昇り、藤代の鼻腔を焼いた。文字ではない。注釈でもない。これは、生きた人間の体臭であった。
涙が出そうになって、藤代は慌てて目を伏せた。
***
陣所は、小高い丘の裾に粗末な柵を巡らせただけのものだった。幟は色褪せ、兵たちの具足はちぐはぐで、誰もが一様に痩せている。没落寸前――史料の通りであった。柵の丸太には苔が生し、縄の結び目はほどけかけ、風が吹くたびに幟がぱたぱたと力なく鳴った。馬のいる気配は乏しく、わずかに繋がれた駄馬が一頭、痩せた尻を藤代のほうへ向けて項垂れていた。
案内された隅の焚き火の傍で、藤代は筵を渡され、他の足軽たちと共に座らされた。筵は湿気を吸って重く、尻の下でじゃりりと砂の鳴る音がした。焚き火の薪は生木が混じっているらしく、白い煙がしきりに目に染みて、藤代は何度も袖で涙を拭った。周囲の顔を見渡して、藤代の喉が鳴った。記憶の底にある史料の字面が、生きた顔として一人ずつ嵌まっていく。明日、この者たちはほとんどが死ぬ。奇襲に遭い、退路を断たれ、地形を読み違えた組頭の下で、無意味に屠られる。脚注の一行の、その一人一人の顔が、今、焚き火の明かりに炙り出されているのだった。頬に刀傷のある者、前歯の欠けた者、まだ髭も生え揃わぬ少年――誰もが火を見つめる目の奥に、どこか諦めに似た穏やかさを湛えていた。誰かが小声で故郷の田の話をし、誰かがそれに相槌を打ち、また別の誰かが、明日の握り飯は冷えとるかのうと、わざとらしく笑った。その笑い声の薄さが、藤代の胸を締めつけた。
胸の奥が、冷たく軋んだ。逃げるべきだ、と学者としての計算が囁く。史料通りなら明朝までに発てば助かる。だが藤代の足は、筵に縫い止められたように動かなかった。頭の片隅で、半年前の壇上の白い光がちらついた。あのとき、自分はこの者たちの死を「意味ある死」として語りたかったのではなかったか。その当人たちを前にして、逃げ出すということが、いったい何を意味するのか――藤代には、それが急に分からなくなっていた。
「兄さん、手が震えとるぞ」
向かいに座っていた若い足軽が、無言で己の握り飯を二つに割り、大きい方を藤代の膝に置いた。歳は十六、七か。日に焼けた頬に、まだ少年の柔らかさが残っている。藤代が口を開く前に、若者は照れ隠しのようにそっぽを向き、小さく言った。
「明日、生きとったら返してくれりゃええ」
麦と稗の混じった、ぬるい握り飯であった。噛めば土の味がして、塩気は舌を刺すほどだった。米粒の間に小石が混じっていて、奥歯でがりりと鳴った。だが藤代は、その粗末な一塊を飲み込みながら、学会の壇上では決して得られなかった何かが、胸の真ん中で音もなく灯るのを感じていた。喉を通る塊は熱く、胃の腑に落ちたとき、そこから小さな火がともったように、指先まで血が巡り始めた。
承認――ではない。もっと素朴で、もっと重いもの。己がここに在ることを、誰かが当たり前に赦してくれている、という感触だった。誰も藤代の論文を知らぬ。誰も藤代の肩書きを問わぬ。それでも握り飯は半分に割られ、膝に置かれた。たったそれだけのことが、半年分の嘲笑を、音もなく押し流していった。
藤代は焚き火の向こうの闇を見た。明朝、この闇の奥から敵が来る。史書はそれを一行で片付けた。だが、この握り飯の温度を、一行で片付けてよいものか。割ってくれた少年の、照れたようにそっぽを向いた横顔を、たった一行で葬ってよいものか。
――俺は、名もなき者たちの名を、残す側に立てるだろうか。
冷えた夜気の中で、藤代の指先だけが、奇妙に熱を帯び始めていた。焚き火の爆ぜる音に混じり、遠くの山から、微かな馬のいななきが風に乗って届いた。それが敵斥候のものだと気づいた者は、この陣中にただ一人、三十路の敗北者だけであった。