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焼かれた聖女は微笑で返す

第3話 第3話

第3話

第3話

風が、森の梢を鳴らした。  リィナは戸口に立つ男から一歩も退かなかった。退けば、自分の芯が揺らぐ気がした。扉枠に片手を添えたまま、灰色のローブの裾が、夜明け前の冷気に細く震える。冷気は肌ではなく、掌の古い火傷の縁に先に触れた。鼓動ごとに、そこだけが独立した小さな心臓のように熱を返してくる。 「無実を」リィナは短く繰り返した。「最初から、ご存知だった」  声は、まだ薄い。けれど芯はぶれない。  男はフードの奥で、ゆっくりと目を伏せた。肯定とも、詫びともつかない仕草だった。 「知っていて、止めなかった」 「止められなかった、の間違いでは」 「同じだ」男は言った。「結果だけを見れば、お前は焼かれた」  乾いた断定だった。慰めを挟まない言葉が、かえって信に値するように響いた。リィナは扉の木目を指の腹で一度だけ撫で、閂を元の位置に落とした。鉄がことりと鳴る。招き入れる、という意思表示だった。 「中へ。夜明けは、外よりも内で見るほうがいい」  男は無言で敷居をまたいだ。黒衣の裾が、埃を巻き上げずに床を滑る。歩幅が、驚くほど静かだった。剣を帯びない者の静けさではなく、剣を帯びる必要がない者の静けさ。リィナは寝台の端に腰を下ろし、男に向き合って立つ空間を残した。

 男はフードを下ろさなかった。ただ、卓の上に古い地図の切れ端を広げ、その脇に細い蝋燭を立てた。指先が蝋の根元に触れる。火種はない。けれど芯は、呼吸ひとつぶんの間を置いて、音もなく灯った。  リィナの睫毛が、わずかに動いた。喉の奥で、息が小さく引っかかる。鼻先に届いたのは、硫黄でも樹脂でもない、ただ温められた空気の匂いだけだった。耳の奥が、しんと澄んだ。まるで部屋の音という音が、その一点の熱に吸い寄せられ、こちらに戻ってくるまでに一拍ぶんの距離を余計に歩かされたような、奇妙な遅延があった。  祈りではない。聖句の一節もなかった。掌をかざす仕草も、印を切る動きも、なにひとつ介在していない。ただ、男の指先の近くで空気そのものの質が変わり、熱が一点に収斂した。そういう術の在り方を、前世の彼女は知らなかった。聖堂で教わった魔術はすべて、神の名を媒介にした。名を捨てた魔術——それが、いま目の前で灯っている。掌の火傷の痕が、その灯に呼ばれるように、ひときわ強く脈を打った。 「アルヴィス」  男は、ようやく名乗った。 「隠者、流浪者、異端者。呼び名はいくつかある。だがもっとも古い呼ばれ方は——賢者だ」  リィナの喉の奥で、小さく空気が詰まった。賢者アルヴィス。その名は、聖堂の禁書目録の奥深くで、何度か見たことがある。数百年前に姿を消したとされる、大陸最強の魔術師。死んだとも、塔に籠もったとも、別の大陸に渡ったとも言われていた。少なくとも、十六の少女の隠れ家の戸口に現れていい名前ではない。 「……生きておられたのですか」 「生きている、の定義による」アルヴィスは薄く笑った。「少なくとも、こうして蝋燭は灯せる」  冗談にしては、声が乾きすぎていた。  リィナは敢えて深追いしなかった。この男の時間軸を問うことは、今の自分には贅沢だ。知るべきは、なぜ彼が「ここ」にいるのか、それだけだった。 「なぜ、私を」 「魂の残響を追っていた」アルヴィスは地図の端を指で押さえた。「焼かれた聖女の誓いは、通常の死者のものではなかった。灰になる直前、お前は何かを——誓った。あれは術式の形を持っていた」 「……術式」 「憎しみでも、祈りでもない。もっと静かな、精密な意志だ。あれだけの純度の誓いは、数百年ぶりだった。魂の輪郭が溶けずに残る。私は、それを辿った」  男の銀灰色の瞳が、ちらりとリィナの掌に落ちた。 「その火傷は、前の器のものではない。お前の魂が、新しい肉に焼き付けた『印』だ。誓いが、文字通り、身体に彫り込まれている」  リィナは、無意識に右の掌を握りしめた。硬い小石のような疼きが、鼓動に合わせて返ってくる。器は新しい。けれど、この痕だけは、前世の磔台から直接運ばれてきた。そう告げられれば、腑に落ちた。 「……なぜ、あなただけが」リィナは言葉を選んだ。「私の、無実を」

 アルヴィスはしばらく黙った。蝋燭の炎が、彼の頬骨の線を細く照らす。その沈黙は、答えを惜しんでいるのではなかった。答えを正確に切り分けようとしている沈黙だった。 「私は、あの朝、大聖堂の地下にいた」  リィナの背筋が、静かに伸びた。 「審問官の助手として、ではない。壁の向こうにいた。石壁一枚を挟んで、お前の喉が灼かれる音を聞いていた。助けなかった。助ければ、七人全員の影が散る。散ってしまえば、二度と同じ卓には並ばない」 「……私を、餌に」 「違う」アルヴィスの声が、初めてわずかに尖った。「お前を餌にしたのは、私ではない。彼らだ。私はただ、彼らが使い捨てた駒の中に、奇跡的に『戻ってくる』可能性のある一人を見つけただけだ。助けなかったことは、詫びない。詫びれば、お前を侮辱する」  その理屈は、冷たかった。けれど、リィナが今ほしい温度は、まさにその冷たさだった。慰めは喉に詰まる。事実だけが、飲み下せる。 「七人の、真の関係を知っているのは」 「この大陸で、私ひとりだ」アルヴィスは言った。「大司教の署名、王弟の銀貨、聖騎士団長の沈黙——表の線は、いずれお前も辿れる。だがその奥に、もう一つの糸がある。七人を同じ卓に座らせた、八人目の影。その名は、今はまだ言わない」 「……なぜ」 「お前が、一人目を自分の手で終わらせたあとでなければ、聞いても意味がないからだ」  リィナは、目を伏せた。睫毛の下で、蝋燭の炎が歪んで揺れた気がした。  八人目。言葉の響きだけが、胸の奥の一番やわらかい場所を、指先で軽く押した。七つの顔は、磔台の上で刻みつけた。一人ひとりの輪郭は、喉を灼かれるあいだに熱で焼き付けて、もう二度と剥がれないと思っていた。けれど、その奥にもう一つ——そう告げられた瞬間、刻んだはずの七つの顔のさらに後ろで、誰かが静かに椅子を引く音がした気がした。微かに、ほんとうに微かに、磔台の朝には想像もしなかった方向から、風が吹いてきた気がした。それを「予感」と呼ぶには、まだ早い。けれど、掌の火傷は、その風の向きを先に知っていたかのように、脈の奥でひとつ、深く疼いた。 「一人目は」リィナは顔を上げた。「どこに」  アルヴィスは地図の端を、指の節でとんと叩いた。色褪せた羊皮紙の上、山脈の裾に小さく描かれた都市の印。 「辺境都市シュトレン。領主は元・聖騎士団長ガレス。お前の処刑台で、一番前の列に跪いていた男だ」  リィナの記憶の版木が、音もなく動いた。跪いていた兜の列。兜の庇の影。石畳の目地を数えていた視線。その中に、剣の柄に見覚えのある紋章を光らせた男が一人——彼女自身が聖水で清めた、あの紋章。 「覚えています」 「なら、話は早い」アルヴィスは細く微笑んだ。「ただし、いま出立しても、お前は三日と持たない。聖女の魔術は、聖堂の名の下でしか動かない。お前はまず、その回路を——壊さなくてはならない」 「……壊す」 「祈りを、呪に組み直す。神の名を外し、自分の名で術式を立てる。異端魔術だ。私が、教える」  蝋燭の炎が、ふっと一度だけ細くなり、また戻った。火を灯したときと同じ、呼吸ひとつぶんの間。  リィナは、卓の上の地図をじっと見下ろした。山脈。街道。辺境都市の小さな印。そしてその先に広がる、まだ名を知らない七つの点。自分が、一つずつ、順番に、丁寧に消していくべき点。 「──一つだけ、お聞きしても」 「どうぞ」 「なぜ、いまさら。数百年、姿を隠していた賢者が、なぜ焼かれた一人の聖女のために、戻ってこられたのですか」  アルヴィスは、ほんの一瞬だけ答えをためらった。蝋燭の炎が、男の銀灰色の瞳に小さく映り込む。 「私にも、返したい名前がある」  それ以上は、言わなかった。リィナも、それ以上は問わなかった。

 夜明けが、窓の外で薄紫から淡い橙に変わり始めていた。  アルヴィスは地図を丁寧に畳み、リィナの手にそっと載せた。紙は、思っていたよりも軽かった。けれど掌の古い火傷の痕が、その軽さをしっかりと受け止めて、かすかに脈を打った。 「支度を」男は言った。「森を出る前に、教えることが三つある。歩き方、呼吸、そして——自分の名で火を灯す方法だ」  リィナは頷いた。寝台の脇に立てかけられた短剣を、ためらいなく腰帯に差す。動作は、少女のものではなかった。かつて錫杖を構えた手の記憶が、そのまま鞘を選び取っていた。  戸口で一度、振り返る。  鏡の中の銀髪の少女が、もう怯えた輪郭を失っていた。瞳の奥の炭火が、蝋燭の灯と呼応するように、静かに芯を増している。 「アルヴィス様」 「様はいらない」 「では、アルヴィス」リィナは、初めて微笑んだ。磔台の朝、灰になる直前に浮かべたのと同じ種類の、凍てつく微笑だった。「一人目まで、どれくらい歩きます」 「十四日」男は答えた。「ただし、お前の歩幅によっては、もう少し早い」  夜明けの風が、隠れ家の扉を外から静かに押した。  森の奥、ずっと遠くで、梟の声が一度だけ鳴き、止んだ。

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