第2話
第2話
足音が、止まった。 少女は寝台の上で、息を殺した。枯葉を踏む音は二歩きりで途絶え、そのかわりに、戸板の向こう側で衣擦れの気配だけが続いている。黒衣。直感だった。見たわけではないのに、扉一枚を隔てた空気の重さが、黒い布の輪郭をはっきりと教えてくる。 心臓が速い。けれど、震えではなかった。 彼女は自分の胸に手を当てた。細い、骨張った少女の胸。その奥で脈打っているのは、確かに見知らぬ心臓だ。だが、その拍子に合わせて目覚めつつある意志だけは、紛れもなく自分のものだった。炎の中で最後に焼きついた、七つの顔。七つの名。それらが、他人の肋骨の内側で静かに目を覚ましていく。 扉の向こうから、低い声がした。 「起きているな」 問いではなかった。確認ですらなかった。まるで、眠りから覚める瞬間をずっと外で待っていたかのような、乾いた断定だった。 少女は答えない。声帯が、まだ自分のものとして馴染んでいない。試しに喉を動かそうとして、やめた。最初に発する声が怯えであってはならない。それだけは、焼かれた朝に決めたことだ。 代わりに、寝台の横の棚に目を走らせた。錆びた短剣。水差し。割れかけた鏡。鏡。 少女は、ゆっくりとそれを取り上げた。
鏡の中に、知らない顔があった。 鏡面は曇っていた。薄く埃を被り、端の銀箔が黒ずんで、像の輪郭を水に滲ませたように歪ませている。それでも、そこに映った顔だけは、不思議なくらい鮮明だった。 銀髪。細い首。血の気のない頬。十六歳か、十七歳か。睫毛が長く、眉の角度が控えめで、どこか怯えたような輪郭を持った少女。エルネスティアの記憶には、ただの一度もない顔だった。帝都の朝市で見かけたこともない。聖堂の孤児院で額に手を置いたこともない。初めて会う他人が、今、自分の名前で息をしている。 けれど瞳だけが違った。淡い灰色の虹彩の奥に、炭火の芯のような暗い熱がひとつ、動かずに燃えていた。その熱を、彼女は知っている。磔台の上で、七つの顔を刻みつけたあの温度だ。 その熱を思い出した瞬間、喉の奥で何かが締めつけられた。煙の味。油を染み込ませた薪の匂い。耳の奥で、群衆の声が遠く反響する。歓声と悲鳴の区別がつかない、あの朝の音。リィナは唇を薄く噛んだ。記憶は、器を選ばない。新しい肉の、どの筋を辿っても、同じ場所へ戻ってくる。 右の掌を広げる。剣だこはない。祝福で擦り切れた跡もない。代わりに、掌の中央に古い火傷の痕があった。丸く、縁の焦げた、小さな痣のような跡。自分の肉ではないはずなのに、その傷はまるで昨日負ったもののように疼いた。指の腹でその痕をなぞる。皮膚の下で、小さな石でも埋め込まれているように硬い。熱くはない。ただ、鼓動が通るたびに、わずかに脈を持っていた。 鏡を伏せる。 指先が覚えていた。錫杖の重さを。聖油の粘りを。香炉の鎖の冷たさを。そして──炎の熱を。記憶と魔力だけが、前世の器から新しい器へ引き剥がされて運ばれてきた。魂ごと、一枚の布のように折り畳まれて。 「リィナ」 扉の向こうの声が、少女の名を呼んだ。 リィナ。その響きが、胸の奥で微かに共鳴した。彼女の、新しい名だ。正確に言えば、この器の持ち主の名だった。孤児院の片隅で、誰にも呼ばれないまま捨てられていた名前。今、それを最初に拾い上げる声が、黒衣の男のものだというのが、奇妙に腑に落ちた。 「開けろとは言わない」声は続いた。「ただ、寝台の下を見ろ。板が一枚、浮いている」 リィナ──そう呼ぶことにしよう、と彼女は即座に決めた──は音もなく寝台を下り、床に膝をついた。埃の匂い。木の腐りかけた匂い。指先で床板を探る。声の言った通り、一枚だけ、釘の抜けた板があった。 持ち上げる。 下から出てきたのは、薄い革の包みだった。革は使い込まれていた。角が擦り切れ、縫い糸がほつれかけている。けれど中身を包む手つきだけは丁寧だった。包みを解く指先に、乾いた穀物の匂いと、古い油紙の匂いが立ちのぼる。中には、灰色のローブと、銀の鎖で括られた小さな書物と、水筒と、硬いパン。そしてもう一つ──折り畳まれた羊皮紙が一枚。 羊皮紙を広げる。 そこには、たった一行だけ、細く正確な文字で書かれていた。 《焼かれた朝を覚えているならば、扉を開けよ》 指が、止まった。 偶然ではない。この男は、知っている。帝都大聖堂の広場で何が起きたのかを。彼女が何者だったのかを。そして──何者に、なろうとしているのかを。
リィナは羊皮紙を畳んだ。丁寧に。折り目をつけて、胸元にしまう。 灰色のローブを羽織る。サイズは、驚くほど合っていた。まるでこの器のために仕立てられたかのように、肩の線も、袖の長さも過不足がない。用意されていた。彼女の目覚めに合わせて、すべてが。布地の内側に、かすかに薬草の匂いが染み込んでいた。乾いた樒と、名を知らない苦い根。誰かがこのローブを、長い夜をかけて香にくぐらせたのだと分かる。袖口を指でなぞると、縫い目は素人のものではなかった。一針一針が、祈るように揃っている。 扉の前に立つ。 木の節が、目の高さでこちらを見つめ返してくる。その向こうに立つ男の呼吸が、板越しに伝わってきた。浅くない。深くもない。鍛えた人間の、無駄のない呼吸だった。 リィナは、潰れていない喉を試すように、小さく息を吸った。喉の奥で、一度だけ空気が詰まった。これから自分が発する声が、扉の向こうの男の耳に、どんな形で届くのか——想像がつかない。怯えと読まれてもいけない。命乞いと聞こえてもいけない。ただ一人の人間として、対等に響かなくてはならない。 「──お名前を」 出てきたのは、少女の声だった。甲高くも、掠れてもいない。ただ薄く、まだ芯の通っていない声。それでもいい、と彼女は思った。声は、これから育てればいい。 「名乗る前に、一つだけ問わせてほしい」男は言った。「お前は、自分が誰か、わかっているか」 リィナは、扉に手を当てた。木の繊維が、掌の古い火傷の縁に引っかかった。節の凹凸が、まるで読めない文字を掌に押しつけてくるようだった。掌の火傷の痕が、木の冷たさに触れて、ちりりと疼いた。 「灰になった女です」 少し間があった。 「そして、灰から戻ってきた女です」 扉の向こうで、男が低く息を吐いた。笑ったのか、頷いたのか、判別はつかない。ただ、その息には、長く探し続けた者だけが持つ安堵の匂いがあった。 「──十分だ」男は言った。「開けていいか」 その一言が、胸の底に沈んだ小石のように、静かに音を立てた。十分。何に対しての十分なのかは分からない。ただ、長い道のどこかで誰かが待ち続けていた、その待ち時間に対しての返答なのだと、リィナには分かった。 リィナは閂に指をかけた。冷たい鉄が、細い指に食い込む。前世で最後に触れた鉄は、喉を灼いた審問官の棒だった。あの熱を、今度は自分の意志で開く扉のために使う。鉄の冷たさが指先から手首へ這い上がり、一瞬、前世の終わりの温度と釣り合いをとるように、指の先が痺れた。 閂が、ことりと落ちた。 扉が、ゆっくりと外側へ引かれていく。夜明け前の紫がかった闇が、隙間から部屋の中へ流れ込んだ。湿った苔の匂い。遠い梟の声。そして、黒衣の裾。
戸口に立っていたのは、背の高い男だった。 フードの奥に、目元だけが見える。淡い銀灰色の瞳。リィナの鏡の中の瞳と、驚くほど同じ色をしていた。年齢は読めない。二十代にも、四十代にも見える。肌は青白く、口元には薄い微笑みが刻まれている。その微笑みは、祝う種類のものではなかった。久方ぶりに正しい相手と出会えた者の、静かな諦念に似た微笑みだった。フードの陰影が深く、頬骨の線と、口の片端だけが闇の中で浮き上がっている。剣は帯びていない。少なくとも、見える位置には。代わりに腰帯の左側に、細い革袋が下がっていた。薬草師の袋でも、写字生の袋でもない。長年の旅で擦り切れた、ただの旅人の袋のようだった。 男は、ローブの内側から一枚の紙片を取り出した。丸められた、古い地図の切れ端のようだった。紙は何度も折り畳まれた皺を持ち、角が指の脂で黒ずんでいた。長いあいだ誰かの懐で温められてきた紙の匂いが、夜明け前の冷えた空気に、ほんのわずかに滲んだ。 「七人だな」 リィナの呼吸が、一瞬だけ止まった。喉の奥で、焼かれた朝の煙の味が、ふたたび薄く立ちのぼる。胸元にしまった羊皮紙の折り目を、指先が無意識になぞっていた。皮膚の下で、掌の古い火傷が、鼓動に合わせて小さく脈を打った。 「七つの顔を、お前は覚えているはずだ」男は続けた。「私は、その七人のうち誰一人の味方でもない。そしておそらく──この大陸で唯一、お前の無実を最初から知っていた人間だ」 風が、森の梢を鳴らした。 夜明けが、まだ来ない。