第1話
第1話
暁の鐘が鳴った。 鎖が軋む。磔台の木が、朝露で湿っている。白装束の裾が風に揺れ、足首を縛る縄が肌を擦った。縄目は一晩のうちに血を吸って黒ずみ、擦れるたびに細かな棘のように皮膚へ食い込んだ。エルネスティアは顔を上げた。帝都大聖堂の広場、円形に並ぶ石段、その向こうに黒い人波。歓声。石礫。口の端に生温かいものが滲む。血の味は、昨夜から舌の奥に居座ったままだった。鉄錆と、涙の塩が混ざり合った味。 喉が潰れている。昨夜、地下牢で異端審問官がそうした。焼いた鉄の棒を押し当て、舌の付け根を灼いた。あの男は作業のあいだ、鼻歌さえ歌っていた。声を奪えば、無実の叫びも神への祈りも、等しく沈黙になる。それを知り尽くした手つきだった。肉の焦げる匂いは、彼女自身のものだった。あの時、意識が半分飛びかけた刹那に見たのは、審問官の助手が手元の羊皮紙に「処置・完了」と几帳面な字で記す姿だった。死刑執行は、誰かにとってただの事務作業に過ぎなかった。 「──異端の女、エルネスティア」 大司教の声が朝の空気を裂いた。紫の法衣、金の錫杖、その足元に跪く聖騎士たち。かつて彼女が額に手を置き、祝福を与えた男たちだ。剣の柄には、彼女自身が聖水で清めた紋章が今も刻まれている。今、誰一人として目を合わせない。兜の庇の陰で、視線はただ石畳の目地を数えていた。彼らの沈黙は、剣を抜くよりも深く彼女を刺した。裏切りとは、刃ではなく、伏せられた瞼の重さのことだった。 「炎もて、穢れを焼き祓う」 油を含ませた薪が足元に積まれていく。松脂の匂い。湿った木の軋み。朝霧に混じる、鉄と血の匂い。遠くで鳩が羽ばたく音。乳飲み子の泣き声。誰かが売り歩く焼き栗の香ばしさまで。五感だけが異様に冴えていた。まるで世界が、彼女の死を惜しむかわりに、最後の光景を隅々まで見せつけようとしているかのようだった。石畳の濡れた光沢、聖堂の尖塔にかかる薄い霞、見物席の最前列で咳き込む老人、その隣で退屈そうに欠伸を噛み殺す少年──すべてが、痛いほどの解像度で網膜に焼きついていった。 誰かが叫んだ。偽聖女、と。別の誰かが続いた。魔女、と。石が飛んでくる。額に当たる。頬に当たる。骨に響く鈍い音が、頭蓋の奥で何度もこだました。痛みはもう遠い。昨日まで「聖女さま」と涙を流して跪いていた同じ口が、今日は石を投げる腕の付け根で嗤っている。人の心とは、これほどまでに軽く翻るものだったのか。かつての彼女ならば、許しを乞うただろう。今は違った。許しという言葉そのものが、口の中で灰になっていた。 エルネスティアは顔を上げた。無実を叫ぶ喉はない。嘆願する声はない。だから、目だけで睨みつけた。大司教を。王弟を。聖騎士団長を。金で買われた証人たちを。瞳の奥に、炭のような熱が宿った。涙は、昨夜すべて流し切っていた。 一人ずつ、顔を刻みつけた。鼻の形、眉の角度、笑った時に覗く歯並び、額の汗の浮かび方。記憶の版木に、刃で彫り込むように。忘却は、赦しの同義語だ。ならば自分は決して忘れない。死後の世界にまで、この七つの顔を持って行く。
火が点いた。 赤い舌が薪を舐める。乾いた音。熱が、まず足の甲を撫でた。最初はぬるま湯のような、奇妙に優しい温度だった。けれどそれはほんの一瞬で、すぐに皮膚の下の神経を逆撫でる業火に変わった。足の指の爪が、熱で内側から反り返っていくのが分かった。 白装束の裾が、音もなく焦げていく。布の縁が黒く縮れ、橙色の火花を散らしながら上へと這い登る。聖別の儀の朝に、侍女たちが丁寧に糊を利かせてくれた、あの真新しい裾が。 「──」 声にならない声で、彼女は笑った。潰れた喉の奥で、空気だけが細く震えた。聖女が最後に見せる顔ではなかった。群衆の最前列、見物にきた貴婦人が息を呑むのが分かった。扇を握る白い指が、硬直したまま止まっていた。その隣で、幼い娘が母の袖を引き、何かを問うた。母は答えなかった。答えられなかった。 炎が膝に届く。腿に届く。皮膚が爆ぜる音。脂が滴る音。自分の肉が燃える匂いは、昨夜嗅いだものと同じだった。ただ今回は、鼻ではなく、骨の髄で嗅いでいた。 痛い。ひどく、痛い。痛みは色を持っていた。白く、それから赤く、そして最後には何も見えない黒に変わっていく。痛みの向こう側に、奇妙な透明さがあった。あらゆる嘘が焼け落ち、真実だけが残る温度があった。 それでも、彼女は目を閉じなかった。閉じれば負けだと思った。閉じた瞼の裏で、祈りの言葉を探した過去の自分を、焼き尽くすためにも。十年間、毎朝捧げてきた聖句。額に十字を切った指の記憶。香炉の煙。讃美歌の旋律。すべてを、この炎とともに灰にする。 祈りは届かない。 聖女は、神に見捨てられたのではない。人に、売られたのだ。銀貨の音で。耳打ちで。署名一つで。売った者たちは今夜、温かい食卓につく。葡萄酒を傾け、笑い、明日の天気を語るだろう。その平穏こそが、彼女に与えられた最大の侮辱だった。 大司教が錫杖を掲げる。歓声が高まる。エルネスティアは、燃えながら、一つひとつを記憶する。顔。名。声の高さ。笑う男の前歯の欠け。拍手する女の指輪の色。王弟の外套に縫い付けられた、真新しい黒貂の襟。聖騎士団長の左手首に巻かれた、見覚えのない赤い組紐。異端審問官の、爪の隙間に残った黒い汚れ。どれもが、後で手繰るための糸になる。 炎が胸に届いた。 肺が熱で弾ける。視界が白く焼け落ちる。最後の景色は、朝焼けの空ではなかった。跪いていたはずの騎士たちの、冷たい視線だった。氷のように透明で、何の感情も宿していない目。 意識が崩れていく瀬戸際、彼女は誓った。 ──返す。 この屈辱、必ず、返す。 怒号ではなく、微笑で。血ではなく、名誉で。 順番に。一人ずつ。丁寧に。彼らが自分にしたのと同じ手順で、同じ時間をかけて、同じ場所で。 誓いは言葉ではなく、魂の芯に焼きついた。炎よりも熱く、鉄よりも硬い核として。炎が肉体を灰にしても、その核だけは決して溶けなかった。溶けないどころか、炎を食らって輪郭を増していった。憎しみではなかった。もっと静かで、もっと精密な、意志の結晶だった。 そして、視界が消えた。
無音。 暗闇の底で、エルネスティアは自分がまだ在ることに気づいた。体はない。痛みもない。ただ意識だけが、深い水に沈んでいく。水は冷たくもなく、温かくもなかった。ただ、重かった。重さだけが、自分がまだ「誰か」であることの証だった。 神の御許ではなかった。裁きの座でもなかった。天秤もなく、天使の羽音もなく、聖句が約束したいかなる光景もそこにはなかった。十年捧げた祈りの対価が、この虚無なのか。あるいは虚無こそが、唯一誠実な返答だったのか。 暗闇は、どこまでも続く廊下に似ていた。奥に微かな光。その光に向かって、意識が引き寄せられていく。自分の意思ではない。誰かが、呼んでいる。細い糸で手繰るように、彼女の魂を手元へと引き寄せる何者かがいた。 遠くで、別の鼓動が始まっていた。 最初は小さく。次第に確かに。胸の奥ではない、どこか別の胸の奥で。トクン、トクン、と。自分のものではない心臓が、自分のものであるかのように、暁の鐘の続きを打っている。その律動は、彼女がかつて祭壇で聞いた聖歌の拍子に、奇妙なほどよく似ていた。 誰の、鼓動だ。 問いかけようとして、声が出ない。手を伸ばそうとして、手がない。それでも意識だけは、廊下の奥へと滑り落ちていく。 ただ一つだけ、鮮明に残ったものがあった。 七つの顔。 大司教。王弟。聖騎士団長。金で雇われた異端審問官。偽証した修道女。石を投げた貴族。そして──祝福の冠を授けた、あの人。最後の一人の名だけは、思い浮かべるだけで、消えかけた意識の輪郭が震えた。 一人も、忘れない。 鼓動が速くなる。廊下の奥の光が、膨らんで、呑み込む。光は白ではなく、夜明け前の淡い紫だった。 意識の最後の欠片で、彼女は呟いた。声にならない声で。 「──まだ、終わっていません」 灰になった聖女の誓いが、見知らぬ器の中で、静かに芽を出そうとしていた。
遠く、深い森の奥。 朽ちかけた隠れ家の寝台で、銀髪の少女が、息を呑んで目を開けた。 窓の外、夜明け前の闇。梟の声。湿った苔の匂いが、隙間風に乗って流れ込んでくる。 少女は自分の手を見た。細い指。十六歳の、見知らぬ手。掌には、剣だこも、祝福に擦り切れた跡もなかった。けれど指先が覚えていた。錫杖の重さを。聖油の滑らかさを。そして──炎の熱を。 だが、その目の奥に宿っていたのは──燃え尽きた聖女の、凍てつく微笑だった。 戸口の向こうで、枯葉を踏む足音がした。 一歩。 二歩。 黒衣の裾が、静かに扉の前で止まった。