第1話
第1話
八度目の朝が、今日も同じ角度の光で始まった。
カーテンの隙間から差し込む陽は六時四十七分の色をしていて、枕元のアラームが鳴るより三分早く、私は目を開ける。毎回そうだ。体が勝手に覚えている。寝返りを打つふりをして、天井の木目を一本ずつ数える。右から七本目、真ん中に小さな節。その節の形まで、私はもう飽きるほど知っている。形はいびつな涙滴で、下側が少し欠けている。最初のループのときは気づきもしなかったその欠けを、いまは目を瞑っていても指でなぞれる。数えている途中で、いつもどおり外のカラスが三度鳴いた。三度。きっかり三度。世界は、この部屋の天井の木目ひとつ変えてくれない。
布団から出て、洗面所の鏡の前に立つ。そこにいるのはいつもの早乙女千紗、二十八歳、中堅商社勤務、誰の記憶にも残らない顔。前髪をいじっても、眉を描き足しても、結局「どこかで見たような気がする人」以上にはならない。前世で過労死したときもたしか同じ顔をしていたな、とふと思う。思って、自分で少し笑った。笑ったつもりが、頬の筋肉はほとんど動かなかった。鏡の中の私は、笑う練習をしている人形みたいに、口の端だけをぎこちなく持ち上げた。冷たい水で顔を洗うと、頬が一瞬だけ生き返ったふりをする。ふりだけだ。タオルに押し付けた顔から、石鹸の匂いがした。この石鹸も、七回同じ銘柄を選んでいる。選ばされている、というほうが正しいのかもしれない。
キッチンでトーストを焼く。焦げる直前にポップアップするタイミングも、牛乳のパックを開けるときの微かな抵抗も、全部予習済み。予習というより、七回分の記憶。今日は四月十五日、月曜日、朝の情報番組の三番目のニュースで新人アイドルの熱愛が報じられる。私はそれを聞き流しながら、バッグに社員証をしまう。バターが溶ける音、冷蔵庫のモーターの唸り、遠くの救急車のサイレン——すべてが同じ順番で、同じ音量で、私の耳を通り過ぎていく。一度だけ、試しに牛乳をコーヒーに変えてみたループがあった。だから何かが変わるというわけでもなかった。運命は、朝食のメニュー程度では、指先ひとつ動かしてくれない。
駅までの道で、三軒先の家の柴犬がいつものように吠える。踏切の前で、同じ制服の女子高生が二人、同じ話題で笑っている。全部、知っている。知っているのに、何ひとつ変えられない。変えようとして、七回、失敗した。柴犬の名前がチョコだということも、女子高生の片方が来月失恋することも、踏切の警報機が午前七時十二分きっかりに鳴り始めることも、全部。知っているという事実だけが、私の胸の中でじわじわと重くなっていく。錆びた鎖を首に巻きつけたまま歩いているような気分だ。
満員電車の窓に、私の顔がぼんやりと映る。
「……もう、いいかな」
声に出したつもりはなかった。けれど、唇は確かに動いた気がする。隣のサラリーマンはスマホを見つめたままで、誰もこちらを振り向かない。当たり前だ。私は空気なのだから。窓ガラスに映る自分と目が合って、すぐに逸らす。八度目のループの私は、七度目の私よりほんの少しだけ、目の奥が暗い気がした。諦めるのにも、体力がいる。
つり革に捕まる指先が、昨日より少しだけ冷たい。
会社のエントランスをくぐるとき、私はいつもの角度で頭を下げる。受付の女性は私の名前を覚えていない。入社五年目の部署の男性社員でさえ、半分くらいの確率で「えっと、経理の……」と口ごもる。私はそのたびに「総務の早乙女です」と小さく訂正して、自分の席に着く。今日もそうだった。訂正するときの声の大きさまで、私は無意識に調整している。大きすぎれば気まずい空気が生まれ、小さすぎれば聞き返される。ちょうど相手に罪悪感を抱かせない音量。七度のループで身につけた、誰の役にも立たない技術だ。
デスクに置かれたマグカップは、四度目のループで自分で買った安物。取っ手の内側に小さな欠けがあって、それを指先で撫でるのが私の数少ない癖になっている。パソコンを立ち上げ、朝礼のための資料を印刷する。ホチキスを留める音が、フロアのざわめきに紛れて消える。印刷機から出てくる紙の、ほんのりとした温かさだけが、今日もまだ私が生きていることを教えてくれる。
窓の外、道路を挟んだ向かいのビルの四十二階。あの男のオフィスがある。KUROSAKI Holdings CEO、黒崎玲司。三十四歳。私が七度のループで一度も近づけなかった人。SNSのタイムラインに流れる彼のインタビュー記事を、私は何百回読んだかわからない。冷徹、鉄面皮、氷のような瞳。ネットの書き込みはどれも判で押したように同じ形容をする。でも私はそれ以外の彼を知らないし、知る権利もない。ただ眺めて、諦めて、また朝に戻る。それだけ。それだけ、のはずだった。
朝礼が終わって、課長がやけにもったいぶった咳払いをした。
「えー、皆さんに重要な報告があります。本日付で、当社は——」
言葉の途中で、私は気づいた。課長の声が、微妙に震えている。七回のループで一度も聞いたことのない震え方だった。指先のマグカップを握る力が、勝手に強くなる。欠けの角が爪の下に食い込む。痛い、と思った。痛みを感じたのは、何日ぶりだろう。
「KUROSAKI Holdings による、株式公開買付けを受諾することになりました」
フロアの空気が一斉に凍る。誰かが小さく息を呑み、誰かがペンを落とした。私は、自分の呼吸が止まっているのに気づくのに、たっぷり三秒かかった。蛍光灯の白い光が、急に遠ざかったり近づいたりする。耳鳴りのような静寂の向こうで、誰かの椅子がきしむ音がやけに大きく聞こえた。
——そんな話、なかった。
七度のループで、私はこの会社に何が起きるかを隅々まで知っているはずだった。四月に大きなニュースがあるとすれば、それは社長の不倫スキャンダルで、買収なんて単語は一度だって出てこなかった。出てくるはずがなかった。だって、黒崎玲司は、いつも遠くの人だったのだから。心臓が、喉のあたりまでせり上がってくる。手のひらに汗がにじむ。いままで何度となぞってきた四月のシナリオが、頭の中でばらばらと崩れていく音がした。
「つきましては、統合担当役員として、先方から直々にお越しいただきます」
課長の声が、遠くで反響する。私の視線は無意識に窓の外へ向かう。道路を挟んだ向かいのビル。四十二階。——いや、違う。もうそこには、いない。
エントランスの方から、革靴の音が近づいてくる。一歩、また一歩。規則正しく、迷いのない足音。フロアの視線が、磁石に吸い寄せられるように扉へ集まっていく。私は動けなかった。マグカップの欠けが、指の腹に食い込む。息を吸うことも吐くことも、急に作法を忘れてしまったみたいに難しい。
扉が開いた瞬間、空気の密度が変わった。
背の高い人影が、逆光の中に立っている。スーツの黒、ネクタイの深い青、そして何よりも——こちらまで届いてくる、冷たく澄んだ気配。顔を上げなくても、わかった。わかってしまった。七度のループで、一度も触れられなかった人。ただ画面の中でだけ見つめてきた人。記事の行間に書かれていた「室温を二度下げるような存在感」という比喩が、初めて比喩ではなくなった瞬間だった。
その人が、今、同じフロアの空気を吸っている。
心臓が、一度だけ、痛いくらいに跳ねた。諦めていたはずの場所で、諦めていたはずの感情が、勝手に動き出す。私は咄嗟に俯いた。俯いて、自分の膝を見つめて、必死に息を整えようとした。膝の上で握りしめた手の甲に、自分の爪の跡がくっきり残っている。大丈夫、私は空気だ。誰にも気づかれない。いつものように、いつものように——。
低い声が、フロアの真ん中で響いた。
「黒崎です。本日より、統合担当を務めます」
その声を、私は知っていた。何百回も記事の行間で想像してきた声。想像よりずっと静かで、ずっと深かった。耳の奥が、じん、と痺れる。喉の奥で、言葉にならない何かが、小さく震えた。
そして、ほんの一瞬——ほんの一瞬だけ、視線が動いた気がした。
フロアの一番後ろ、総務の端、誰の記憶にも残らないはずの席。そこに俯いて座る私の方へ。気のせいかもしれない。きっと気のせいだ。七度のループの私が、都合のいい幻を見ているだけだ。けれど、顔を上げる勇気はなかった。上げてしまったら、何かが確定してしまう気がした。
八度目のループの歯車が、かすかな音を立てて、軋みはじめた。