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黒の審問官、聖女に転生す

第3話 第3話

第3話

第3話

石の角を曲がった瞬間、額の奥で、一本の細い線が音もなく裂けた。  裂け目から、光がこぼれた。剥がされたはずの聖痕のあった場所——胸ではなく、額の、皮膚のさらに奥。そこに埋められていた何かが、今、薄い膜を破って外へ滲み出してくる。廊下の松明の炎とはまるで違う、青白い、冷たい燐光だった。私の瞼の裏を、その光がすっと舐める。舐めた端から、見たこともない景色が、順に、けれど確かな手順で並び始めた。石の床。鉄の輪。皮と油の匂い。遠くの鐘。——ここは、私の記憶ではない。 「どうした」  騎士の声が、背後から届いた。抑えた声音だった。私の足が止まったことに、彼はすぐに気づいている。私は廊下の壁に片手をつき、もう一方の手で額を押さえた。指の腹に、熱が触れる。肉の熱ではない。もっと古い、骨の奥で鍛えられた金属のような温度。 「——なんでも、ありません」  声は、自分でも意外なほど平らだった。足を踏み出す。鍵束が、また律儀に拍子を取って鳴る。その音に守られるようにして、私は廊下を進んだ。進みながら、裂け目から溢れ出てくるものを、胸の奥で一つずつ受け止めていく。受け止めきれなかったものは、こめかみの裏側にそっと積み上げる。今夜の私には、それを並べ直す時間が、まだ少しだけ残されているはずだった。

 特別房の鉄扉が閉じ、閂が外側から下ろされる音がした。  石壁に背を預けて座り直した途端、堰を切ったように、それは流れ込んできた。  ——灰色の石畳。冬の朝。吐く息が白い。両手は後ろ手に縛られ、麻縄が手首に食い込んで、すでに血が滲んでいる。血の匂いは鉄というより、錆びた鍵の匂いに近かった。背中を押されて歩く先に、粗末な木の台が据えられていた。処刑台ではない。もっと事務的な、問答のための台。その上に、一冊の分厚い帳面が置かれている。帳面の前に立っているのは、黒い外套の男。外套の胸には銀糸で、天秤と燭台の紋——「審問」を司る者の印。外套の裾が、朝の風に一度だけ、旗のように鳴った。  その男は、私だった。  いや——私ではない。顔立ちが違う。背が高く、肩幅が広く、首のあたりに古い傷がある。男は静かに帳面を開き、目の前の囚人に問いかけた。その声の抑揚を、私は骨で知っていた。質問の運び方、沈黙の置き方、視線を外す瞬間、そして相手の返答が終わる前に次の頁をめくる指先の呼吸。先ほど白衣の審問官が机の向こうで使っていた技術と、骨格が同じだった。そして、その骨格を最初に組み上げたのが、この黒外套の男——前世の私なのだ、と、私の額の奥が静かに告げた。  黒の審問官。  名前は、思い出せない。けれど、呼び名は確かにあった。石畳の上で囚人たちが、あるいは同僚の書記が、あるいは処刑人までもが、その二文字を小声で呼んだ。黒の、と。畏れと、少しの軽蔑と、わずかな敬意が混ざった呼び方で。呼ばれるたびに、黒外套の私は返事もせず、ただ帳面の端を指先で軽く叩いた。その乾いた音が、呼び名の代わりの返事だった。  記憶は、一つの場面に収束していった。  ——夜。石造りの尋問室。机の上の調書。燭台の蝋が、溶け落ちる寸前で止まっている。机の向こうに座っているのは、若い聖職者だった。頬に血の気はなく、指先が震えている。その震え方を、黒外套の私は冷静に観察していた。震えには二種類ある。罪を抱えた震えと、罠を仕掛け終えた側の、張り詰めた震え。私が見ていたのは、後者だったはずなのに、そう認めるには、その夜の私は少しだけ勝ちに急ぎすぎていた。私は——黒外套の私は、その聖職者を告発した側だった。聖印の偽造、薬草の不正調合、密室殺人の教唆。動かぬ証拠を三つ並べ、四つ目を喉元に突きつけた瞬間、相手の瞳に、怯えではない光が浮かんだ。勝ち誇った光だった。その光は、ほんの一瞬だけ、若い聖職者の伏せた睫毛の影に隠れ、すぐにまた薄く浮かび上がった。私は、その瞬きの速さと、瞳孔のわずかな開き具合を、骨の奥に刻みつけた。刻みつけながら、なぜか胸の内側が、ほんの少しだけ軽くなったのを、今でも覚えている。勝利の予感というよりは、長い勾配を登りきった者の、危うい弛緩だった。  次の刹那、私の咽喉の奥で、かすかな違和感が灯った。  燭台の蝋の匂いに、青く苦いものが混じっている。聖別香ではない。薬草だ。それも、昼に告発対象の男が触れていたはずの薬草と、同じ匂い。——なぜ、この部屋に。なぜ、この瞬間に。答えを探すより先に、舌の裏側に、じわりと甘い痺れが広がった。唾を飲み下す。飲み下してしまったあとで、それが毒だと気づいた。遅効性の、舌裏から吸わせる種類の毒。喉の奥では、鉄と蜜の混じったような味が、ゆっくりと花ひらいていった。視界の端で燭台の炎が二重に滲み、石壁の継ぎ目が、波打つ水面のように緩く揺れはじめる。この部屋へ入る前、茶を差し出された。湯飲みの縁に、薄く塗られていたのだ。指先から力が抜け、羽根ペンが調書の上に小さな黒い染みを落とした。その染みが、みるみる文字の行を侵していくのを、私はどこか他人事のように眺めていた。  黒外套の私は、調書の上に、ゆっくりと倒れ伏した。  倒れながら、最後に見たのは、若い聖職者の背後に立つ、もう一人の人影だった。長衣の裾に、天秤でも燭台でもない、第三の紋章を帯びていた。その紋様の形を、私の瞼は最期の一瞬で焼き付けた。焼き付けて——そして、闇に落ちた。

 石壁に背を預けた現世の私は、ゆっくりと息を吐いた。  肺の底にまで、前世の冬の冷気が残っている気がした。指先が震えている。けれど、その震えは、恐怖のものではなかった。怒り、でもない。もっと静かで、もっと律儀な——「確認の震え」だった。指折り数える者が、数え終える寸前に指先を走らせる、あの震え。舌の奥には、まだあの青く苦い薬草の後味がこびりついていて、唾を飲み下すたび、前世の死が喉を一度ずつ通り抜けていく。  密室の懺悔室。内側から閂。封印札。手に握られた聖印。告発者の袖口の薬草。段取りされた三人の告発劇。そして今、私の脳裏に焼きついた、前世の最期の毒。——同じ一手だ。同じ手口だ。並べ方も、見せ方も、そして、仕込みの呼吸まで、同じだ。前世の私を葬った者と、今世の私を葬ろうとしている者は、同じ設計図を使っている。使っているのが同じ人間なのか、同じ流派の弟子なのかは、まだわからない。けれど、設計図そのものが共有されていることだけは、疑いようがなかった。  だとすれば——今夜、私が取るべき手順は、一つだけだ。  前世の私が、最期の瞬間まで気づけなかったこと。それは、「自分が罠の中にいる」という構図そのものを、早い段階で口に出さなかったことだ。黒外套の私は、証拠を三つ並べ、四つ目を突きつけた時点で勝ったと思い込んだ。勝ったと思い込んだから、湯飲みの縁の薄い膜に気づけなかった。勝利を確信する瞬間こそが、設計者にとって最も毒を仕込みやすい隙間だ——その教訓を、前世の私は、死ぬ瞬間にようやく理解した。そして今、その教訓を、現世の私は、まだ生きている段階で、受け取ることができる。遅れて届いた遺書を、自分で自分に読み聞かせるような心地だった。石壁の冷たさが、背骨を伝って腰まで降りてくる。降りてきた冷たさは、尾てい骨のあたりで一度だけ立ち止まり、それからまた、ゆっくりと足裏へ抜けていった。足裏から石へ、石から地の底へ。体の熱が、少しずつ石に預けられていく代わりに、頭の芯だけが、刃物のように澄んでいく。その冷たさを、私は拒まなかった。冷たさは、気を確かに保つための、ささやかな錨だった。  私は胸の内で、黒の審問官に、静かに礼を述べた。  礼を述べてから、その呼び名を、自分の呼び名として引き取った。拒む理由はなかった。拒んだところで、額の奥の燐光は、もう引っ込んではくれない。ならば使うのだ。前世の骨格を、今世の指先で。前世の手順を、今世の呼吸で。前世が読み違えた一手を、今世で読み直すために。

 鉄扉の向こうで、遠い足音が一つ、近づいてきた。  規則正しく、けれど先ほどの尋問官のものより、ずっと軽い。鍵束の鳴る音が、廊下の石に拍子を刻んでいる。間違えようがない——先刻、私を牢から尋問室まで歩かせた、あの若き騎士だった。彼の足音は、私の独房の前で、ぴたりと止まった。止まっただけで、声はかけない。扉の向こうで、鍵束が一度、ごく短く鳴る。あれは合図だ、と、前世の私の骨が告げた。合図を送る側の人間と、受け取る側の人間。今夜の彼は、どちらなのか。  額の燐光が、扉の向こうの熱に、静かに応えた。首筋の薄布の下に隠された、あの淡い熱。前世の最期、私は誰かに何かを託した気がする。託した相手の首筋に、確かに一つ、印を押した気がする。その印が、今、扉の向こうで、呼吸と同じ速さで脈を打っている。  ——だとすれば、あなたは。  私は、闇に向かって、声に出さずに呟いた。  鉄扉の閂が、外側から、ゆっくりと持ち上げられる音がした。

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