第2話
第2話
鉄格子の手前で、騎士は動かなかった。 松明の炎を受けた鍵束が、腰の革帯から低く垂れて、金属同士の擦れる微かな音を立てている。兜は被っていない。前髪の下から覗く双眸は、私ではなく、私の背後の石壁——より正確には、私が背を預けている場所から半歩ずれた、湿った影の一点を見据えていた。護送の騎士ではない。そもそも、追放された罪人を夜半に見張りに来る階級ではない、と一目でわかる礼装の縁取りだった。肩章の金糸が、松明の揺れに合わせて細く瞬く。 兵士たちが背筋を正したまま、息を殺している。 「——リゼル・ヴァレンティン」 騎士は、私の旧姓を呼んだ。聖女位を剥奪されたあと、一晩でもう誰も口にしなくなった名。その律儀さが、ほんの少しだけ、私の肩の力を抜かせた。 「懺悔室の件で、尋問を行う。同行願いたい」 丁寧な語尾だった。命令ではなく、依頼の形を装っている。けれど鍵束の鳴り方が、それを許さなかった。私は膝を抱えたまま、ゆっくりと顎を上げる。額の奥で燐光となりかけた熱が、相手の姿を見た途端、すっと音もなく沈み込んだ。まだ出てくるな——誰かが胸の内側から、そう私を押し留めたような気配だった。 私は立ち上がった。祭服の裾が石の湿気を吸って重い。足首が一度だけ、微かに震えた。震えたことに気づいた自分が、妙に遠くから自分を眺めているのを感じた。
連れて行かれたのは、懺悔室ではなかった。 尋問室、と呼ぶには狭すぎる石室だった。中央に古びた樫の机。机の向こうに、先ほどの若き騎士と、白衣の審問官——祭壇脇に並んでいた、あの男。壁龕の蝋燭が一本だけ灯され、脂の焼ける甘苦い匂いが、古い石に染みついた黴と、鉄錆の香りの上に薄く重なっている。天井の四隅では、どこか遠くの滴りが、数えられそうで数えきれない間隔で石床を打っていた。その一滴ごとに、部屋の空気がわずかに縮むような気がした。机の端には、厚い革表紙の調書が既に半ば開かれていて、鵞ペンがインク壺の口に斜めに突き立っている。ペンの先から一滴、インクが垂れかけて、辛うじて留まっていた。誰かが書きかけていた文面を、今さっき中断したのだ。 私が席に着く前に、審問官は口を開いた。 「懺悔室は内側から閂が下り、窓には封印札。出入りの痕跡はない。そして仏さんの手には、剥奪されたはずの聖印が握られていた」 兵士の口から漏れ聞いたのと、ほぼ同じ言葉。ただし、順序が違う。兵士は「内側から閂」「封印札」「出入りなし」「聖印」と並べた。審問官は、密室の条件を先に述べ、聖印を最後に置いた。最後に置いた——ということは、それが彼の切り札だと思っている、ということだ。 「聖女——いや、リゼル嬢。昼、祭壇で剥ぎ取られた聖印を、あなたはどこで受け取りましたか」 「受け取っていません」 「では、あなた以外の誰が、あの聖印を所持し得たと」 「剥ぎ取った本人にお尋ねになるべきかと」 審問官の唇の端が、ほんのわずかに引き攣った。剥ぎ取ったのは、第二王子その人だ。彼の名前を出す覚悟が、この尋問官にあるのかどうか——その一点を、私は衿の下で試した。審問官は答えなかった。答える代わりに、机の上の調書を、わざとゆっくり、一枚めくった。羊皮紙の縁が乾いた音を立て、それが部屋の滴りの間隔にぴたりと噛み合ったのが、妙に耳に残った。 「ここに、あなたが牢内で発した言葉の記録があります。『妙だ』と」 私の喉が、一度だけ詰まった。兵士は、私の独り言まで聞き取っていたのか。石牢の反響は、こちら側が思うよりもずっと律儀に、声を廊下へ運んでいたらしい。 「——絶望の夜に、告発の報を聞いた罪人が呟く言葉としては、随分と冷静ですな」 「冷静だと、なぜ罪人になるのでしょう」 「冷静な人間は、段取りを知っている。段取りを知る人間は、段取りを組める」 論理ではない。ただの修辞だ。だが、尋問というものが本来、論理と修辞の境目で人を搦め捕る技術だということを、私はなぜか知っていた。知っている、というより、掌に記憶がある。机の木目の走り方、審問官の指がペンを持つ角度、爪の生え際にまで沁みついた古い墨の痕、インク壺の縁のひび——私の視線は勝手に細部を掬い上げ、並べ替えていく。ペンの傾きが示す利き手。調書の筆跡の、急がされた箇所と落ち着いた箇所。撥ねの乱れ方、行間の詰まり方、余白に残る指紋の位置。この男が、どの質問で嘘を警戒し、どの質問で本心を漏らすか——骨格の輪郭が、じわりと浮いてくる。 これは、今夜の私が初めて見る景色ではない。 その確信が、胸の底で、もう一度、ことりと音を立てた。
審問官が机を回り込んできた。 靴音を立てないように歩いているのが、かえって気配を濃くする。私の背後で一度立ち止まり、祭服の右肩のあたりに、何かを近づけた。ごく淡い香り——青く、苦く、夏の薬師の手元を思い出させる、あの匂いだった。 袖口の匂い、と私は胸の奥で呟く。昼間、若き司祭の袖口に残っていたのと同じ匂いが、今、私の肩のすぐ後ろにある。試されている。この匂いに私が反応するかどうか、反応するならどの程度で、反応しないなら偽装がどこまで利くか——それを確かめるための距離の詰め方だった。審問官の呼吸が、うなじの産毛をほんの一度だけ撫でた。白衣の袖がすれる乾いた衣擦れが、耳の後ろで糸のように細く伸びる。背骨の一節が、勝手に強張ろうとするのを、私はゆっくり息を吐いて宥める。喉の奥にせり上がってきた苦い唾を、気づかれない速さで飲み下した。舌の裏に、覚えのない薬草の名がいくつも浮かびかけ、浮かびきる前に、自分でそれを押し戻した。 私は、動かなかった。 動かないことに、自分で少しだけ驚いた。振り返って匂いの出所を確かめたいという衝動を、誰かが喉元で押さえつけている。ここで反応すれば「知っている」ことを証明してしまう、と冷たい声が告げる。私の声ではない。けれど、私の声よりも私のことをよく知っているような、古い響きの声だった。 「——何も、香らぬか」 審問官は独り言のように言い、また机の向こうへ戻った。その目の奥で、失望と満足が、半分ずつ混じっていた。失望は、私が反応しなかったこと。満足は、反応しなかったという事実自体が、彼にとって別の情報になったこと。 尋問はそこで一度、区切られた。 「今夜中に、あなたの身柄は特別房へ移される。供述は、明朝、改めて」 立ち上がった審問官の白衣の裾が、ほんの一瞬、調書の上を掠めた。その拍子で、机の端から一枚、紙片がひらりと床へ落ちた。焦げた跡のある、細い紙——封印札の、燃え残りのような断片だった。墨の紋様は、半ばを炭に食われている。 私の視線は、その紋様を一瞥した。 一瞥した瞬間、肺の奥で、ごく微かな音がした。掠れた笛のような、遠い鐘のような。——あれは、正規の封印紋ではない。墨の走り、止め、払いの呼吸が、わずかに違う。外側の円は同じでも、内側の三画目の角度が一つぶん浅い。起筆の一点で墨溜まりが不自然に膨らみ、そこだけ紙の繊維がわずかに毛羽立っていた。筆を止めた刹那、指先が迷った跡だ。正規の紋をなぞっているつもりで、なぞりきれなかった手の癖が出ている。あれを描いたのは、正規の教育を受けた聖職者ではない。あるいは、正規に受けたあとで、わざと外した人間だ。 私は、何も言わなかった。 言わなかったが、胸の奥で、微かに、笑った。絶望すべき尋問の最中に、また笑っている自分がいる。その笑みは、もはや怯えで歪むこともなく、唇の形をはっきりと作ろうとしていた。
引き出されて廊下へ戻された私の背後で、鉄扉が重く閉じた。 松明の炎が、一度だけ大きく揺れる。先ほどの若き騎士が、数歩離れてついてきていた。鍵束の鳴る音が、私の歩調に合わせて、律儀に間を取っている。偶然ではなく、合わせてくれている——その呼吸の整え方に、私はふと、視線を上げた。騎士の横顔は、廊下の陰に半分沈んで、表情までは読み取れない。けれど首筋のあたりで、薄布の内側に隠された何かが、ごく淡い熱を帯びているのが、なぜか私の額の奥に直接、伝わってきた。 額の聖痕の跡が、その熱と呼応して、もう一度、静かに疼いた。 ——だとすれば。 胸の内で、私は一つの呟きを置く。 だとすれば、今夜の尋問は、私を罪人に仕立てるためだけの舞台ではなかった。私を「反応しない駒」かどうか試すための検分でもあった。そして、その検分を、この廊下を歩く鍵束の騎士は、たぶん、どこかで聴いていた。聴いていて、何も言わずに、私を歩かせている。 石の角を曲がる寸前、騎士の鍵束が、合図のように一度だけ短く鳴った。 その音に、私の額の奥の燐光が、ついに、静かな一線を描き始めた。