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黒の審問官、聖女に転生す

第1話 第1話

第1話

第1話

胸から剥ぎ取られた聖痕の跡が、夜気に触れて、じくりと疼いた。  大聖堂の石床は冷たい。祭壇の上、数千本の蝋燭に照らされて、私はつい先刻まで聖女だった。今は違う。婚約者であったはずの第二王子の指先が、私の胸元に突き立てられ、そこに灯っていたはずの紋を引き剥がした瞬間から、私はただの罪人に変わっていた。胸の中央、鎖骨の少し下。皮膚が薄く裂け、血とも湯ともつかぬ温いものが滲んで、祭服の白い布地を内側からじわりと染めていく。痛みよりも先に、空白の感覚があった。五年間、寝ても覚めてもそこにあった微かな温もりが、不意に音を立てて消え失せた——その喪失の輪郭のほうが、裂傷よりもずっと鋭く、私の骨を叩いた。 「聖痕の偽装。神を騙り、王家を欺いた罪は重い」  王子の声は、朗々と響いた。感情はなかった。用意された台詞を読むように、彼は私の五年を、一晩で塗り潰した。青玉の瞳は私を見ているようで、私の背後の誰かに向けられていた——その誰かから、台詞の続きを受け取ろうとでもするように。告発者として祭壇脇に並ぶのは三人——司祭団次席、その隣の若き司祭、そして見知らぬ白衣の審問官。若き司祭は、昼間の儀式で私の隣に立ち、香炉を支えていた男だった。その指先が、今はかすかに震えている。頬に血の気が上り、唇の端がうっすらと緩んでいる。祈りを捧げる者の貌ではない。願っていた報酬を、今まさに受け取ろうとしている者の貌だ。  だとすれば——なぜ、あの震えが、怯えではなく興奮に見えるのだろう。  祭壇から引きずり下ろされる寸前、私は一つの違和感だけを記憶に刻んだ。若き司祭の祭服の袖口に、ごく淡く、乾いた薬草の匂いが絡みついていた。聖別香ではない。もっと青く、苦い、薬湯に似た匂い。遠い夏、薬師が水に浸けていた茎の、あの青さ。儀式の場に似合わぬその匂いが、追放される身の最後の棘のように、鼻の奥に残った。兵士の籠手が私の肘を掴み、乱暴に引き起こす。床に落ちた冠の宝石が、蝋燭の光を散らして、一度だけ泣くように瞬いた。床を滑る私の爪先が、誰かの踏みしだいた薔薇の花弁を掠めた。祝祭のために撒かれたはずの花は、もはや踏み汚され、甘さの裏に鉄錆めいた匂いを滲ませている。参列者の囁きが、潮騒のように背後から押し寄せてきた。哀れみ、嘲笑、戸惑い、安堵——そのすべてが混ざり合って、けれど誰一人として、私の名を呼ぼうとはしなかった。昨日まで「聖女様」と額ずいていた貴婦人たちが、今はただ扇の陰で目を逸らす。人の信仰がいかに軽い布きれであるかを、私はこの一瞬で学んだ。

 石牢に放り込まれたのは、日が完全に落ちた後のことだ。  鉄格子の向こうで、兵士たちが距離を取って私を見ている。聖痕を失った聖女に、もはや神の庇護はない——そう信じる者の目だ。嫌悪でも憐れみでもない、神罰が伝染することを恐れる目。私は壁に背を預け、両膝を抱えた。指先が冷えている。石壁から這い上がる湿気が、祭服の裾を重くして、皮膚にぴたりと貼りついた。涙は出なかった。出そうとしても、何かが喉の手前で堰き止めていた。  ——泣くべきだ。  そう思う自分と、泣く必要はないと冷たく告げるもう一人の自分が、胸の奥で別々の呼吸をしていた。婚約破棄。聖痕剥奪。追放。どれも私の人生を粉々に砕くだけの出来事であるはずなのに、頭の芯のどこかが、ひどく冴えている。冴えすぎている、と言ってもいい。かじかむ指先とは裏腹に、思考だけが温水のように澄んで、次々と情報を整列させ始める。これは悲嘆の作法ではない。もっと別の——たとえば、死体の傍らに膝をつく者の、冷たい律儀さに似ていた。  昼の光景を、私は順に並べ直し始めた。  告発状を読み上げたのは司祭団次席。だが、最初に私の聖痕を「偽装である」と指差したのは、あの若き司祭だった。彼の証言がなければ、王子は引き金を引けなかった。次席は書面を読み、若き司祭が証言し、審問官が判決を下す——役割が、あまりにも滑らかに分担されていた。段取りされた劇のように。台詞の間合い、視線の受け渡し、沈黙の長さ。稽古を積んだ者にしか作れない呼吸だった。告発状の紙は、折り目がまだ新しかった。昨日今日で書かれたものではない。少なくとも幾日か前に巻かれ、懐のどこかで待っていた紙の匂いがした——インクが完全に乾き、羊皮紙が体温をひととき預かったあの独特の、湿った革のような匂い。誰かが、今日という日が来るのを、紙よりも長く待っていたのだ。  それから、袖口の匂い。聖別の場に青臭い薬草の匂いを持ち込む司祭は、普通ではいない。儀式の前に、彼はどこで、何に触れていたのか。誰と会い、何を調合し、その指で何の蓋を閉じたのか。舌の奥で、私はその匂いをもう一度辿ろうとした。青い茎、苦い樹液、指に残る渋み——記憶の抽斗のどこかで、名が喉元まで上がってきては、寸前で霧散する。知っているはずだ。私は、あの匂いの正体を、確かに、知っているはずなのだ。 「妙だ」  声に出して呟いてから、自分の口調に、私は一瞬だけ戸惑った。絶望すべき夜の牢で、私は観察を始めている。悲嘆ではなく、手順を踏もうとしている。まるで、かつてこういう夜を、何度も過ごしたことがあるかのように。——かつて? その二文字を、胸の中で反芻した途端、頭の奥が小さく軋んだ。私の過ごした十九年のどこにも、こんな夜はなかったはずだ。なかったはずなのに、指先は、次に何を確認すべきかをもう知っていた。

 遠くで、鐘が鳴った。定刻の鐘ではない。三度、短く、急かすように打たれる異変の鐘だ。  兵士の一人が廊下を駆けていく音がした。革の靴底が石を叩き、松明の炎が走り抜ける気配。もう一人が、鉄格子の前で足を止める。その顔が強ばっているのが、松明の揺れでわかった。喉仏が一度上下し、乾いた音を立てて唾を飲み込む。 「……懺悔室だ」と、兵士は同僚に向かって言った。私に言ったわけではない。だが石牢の反響が、その声を律儀に私の耳まで運んだ。「懺悔室で、若いほうの司祭が死んでいる。扉は内側から閂、窓は封印札。誰も、出入りしていない」  内側から閂。封印札。誰も出入りしていない。  三つの単語が、順に私の胸の奥へ沈んでいった。沈みながら、それぞれがかすかに熱を帯びた。既視感、という言葉では追いつかない感覚だった。私はそれらの単語の形を、前にも確かに見たことがある。文字ではなく、現場として。扉の木目の具合も、封印札の墨の乾き方も、閂に残る指の脂の位置さえ、私の掌は覚えている気がした。 「……それだけじゃねえ」兵士は声を落とした。喉の奥で、恐怖と好奇心が綯い交ぜになった声だった。「仏さんの手に、聖印が握られていた。昼間、聖女から剥ぎ取ったはずの、あの聖印だ」  私は、ゆっくりと顔を上げた。  剥がされたはずの私の聖痕。それを握った遺体。密室の懺悔室。告発者の一人である若き司祭。袖口の青い薬草の匂い。——あまりにも、揃いすぎている。誰かが、この場面を作った。誰かが、私を犯人として立てるために、盤面を最後まで並べてから駒を動かした。私という駒を、祭壇から牢へ、牢から処刑台へ——いや、処刑台よりもっと遠い場所へ運ぶために。  違和感は、もう違和感ではなかった。設計図の輪郭だ。線と線が繋がり、余白に人影が浮かぶ。まだ顔はない。けれど、その人影が立っていた位置は、はっきりと見える。祭壇の右手、審問官の一歩後ろ。告発の台詞を最も聞き取りやすく、けれど自分の顔には松明の光が届かない場所。劇の演出家が、自ら舞台に上がるときに選ぶ角度だ。私はその一点を、瞼の裏で静かに釘付けにした。忘れないために、ではない。いずれそこへ、私自身の手で刃を届かせるために。  鉄格子の向こうで、別の足音が近づいてくる。早足ではあるが、乱れてはいない。兵士たちが一斉に背筋を正した気配でわかる。私を告発する側の足音ではない。金属の擦れる音が規則正しく間を取り、石畳の上を拍子のように打っている。  額の、聖痕のあったあたりが、静かに熱を持ち始めた。剥がされた傷ではない。もっと奥——皮膚の下の、記憶の底のほうから。熱は細い光の線となって、こめかみへ、瞼の裏へと流れ込んでくる。呼吸が深くなり、冷えていた指先に、じんわりと血が戻ってくる。そのぬくもりは、救いの形ではなかった。もっと古い、もっと鋭利な、手に馴染んだ刃物のような温度だった。  闇の中で、私は、ひどくゆっくりと微笑んでいた。  だとすれば——なぜ、私は、この期に及んで笑っていられるのだろう。  答えが、額の奥で燐光となってほどけかけた瞬間、鉄格子の手前に、一人の騎士が立ち止まった。腰に下げた鍵束が、松明の光を受けて、低く揺れた。

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