第3話
第3話
リフトの駆動音が、地下三層の空洞に、低く反響していた。 レンは結晶片を握ったまま、壁際の配管の影へ身を沈めた。掌の中の結晶は、体温と同じ温度を保ったまま、ただ脈を打ち続けている。0.87秒。先ほどセンサーが告げた周期と、寸分の狂いもない。呼吸を殺しても、この脈動は止まらない。むしろ、息を潜めるほどに、掌の中の小さな鼓動の方が、レン自身の心拍を上書きしていくようだった。HUDの右下では《封印解除コード:三十七%展開》の文字が、一定の間隔で点滅している。三十八。三十九。パーセンテージは、レンの意思とは無関係に、ゆっくりとせり上がっていった。 頭の奥で、銅色の大釜の湯気が、まだ消え残っていた。削ぎ落とされた薄片が水面に沈むときの、あのわずかな身じろぎ。爪の先にこびりついていた塩の硬さ。金糸の長衣の裾が床を擦る音。どれもが、今この地下の湿った空気と同じ質量で、レンの五感の棚に並び直されていく。記憶というより、再インストールに近かった。脳の内側の、使われていなかった回路に、別の人生の配線図が重ねられていく感覚。こめかみの奥で、細い針が幾本も同時に立ち上がるような、鋭い静けさがあった。 ――星舌。味覚記録AI「星舌」。 その名が、もう耳慣れた単語のように舌の上に乗った。知らないはずの固有名詞が、母音の一つ一つまで馴染んでいる。
配管の向こう、コンクリートの通路に、最初の足音が現れた。靴底は軍用の制振素材だ。工場の監査班が使うものではない。歩幅は六十八センチ、左右差ほぼゼロ。訓練された歩行。レンの頭の中で、見たこともない計測値が勝手に割り出されていく。これも星舌の副産物なのか、それとも前世の宮廷料理長が、客人の足音から階級を判じるために身につけた技なのか、区別がつかない。区別がつかないことが、レンを一番恐れさせた。自分の脳の、どこまでが自分なのか、境界が溶けはじめている。指先が、作業着の布地をぎゅっと握り込む。その布の繊維の粗さすら、今は過剰な情報量でレンの皮膚に報告されてくる。麻の目の粗さ、縫い目の糸の番手、汗が吸われて冷えていく速度――そのすべてが、頼んでもいないのに脳の奥の帳面へ書きつけられていった。 足音の主は三人。先頭の一人が、HUDのライトを前方に投げた。青白い光の筋が、コンクリートの柱を舐め、レンの潜む配管の手前で一度止まる。その光が柱の凹凸を浮かび上がらせた瞬間、レンの喉の奥で、唾液がひとりでに湧いた。恐怖のせいではない。光の先端にまとわりつく微細な粉塵が、錆と硝酸カリウムと、古い油の匂いを帯びていると、舌の付け根が勝手に告げてきたのだ。見ているはずなのに、味わっている。味わっているはずなのに、見えている。 「熱源反応、消失」 低い声だった。喉の奥を絞るような、感情を漉した声。ひと言ひと言の後に、わずかな呼気のかすれが混じる。肺の底に、古い発煙剤を吸い込んだ者特有の、硬い膜が張りついている音だ。「先刻まで確認されていた有機パターン、現在は検出不可。対象物質は移動した可能性が高い」 「回収対象は結晶片のみか」 二人目の声は、それより半音高く、語尾に事務的な乾きがあった。 「結晶片と、それに接触した個体。両方」 個体。レンの胸の奥で、その単語が硬い音を立てた。名前ではなく、番号ですらなく、個体。舌の上に、金属の薄片を噛んだような、冷たい苦味がひと筋走った。前世でも、誰かをそう呼ぶ声を聞いたことがある気がした。王の前で、罪人を「器」と呼ぶ声。料理を「供物」と呼ぶ声。呼び方が、人の輪郭を少しずつ削っていく、あの声の温度と、同じだった。 先頭の男が、襟元のマイクに短く告げた。「ヴェルダ支部、ガストロニカ特務班、地下三層侵入を完了。対象補足まで最短七分」 ガストロニカ。 その名は、工場の上位契約企業として、配給ペーストの包装にも小さく印字されている。星系規模の食品コングロマリット。合成栄養ブロックの八割を製造し、三つの自治領の食糧政策に食い込んでいる企業。その企業の「特務班」が、監査班ではなく、工場の内部規律を飛び越えて、直接ここへ降りてきている。ドロスが通報したのではない。もっと上——もっと外側の何かが、第四タンクの結晶片に反応した瞬間、遠い本社から糸を引いた。監視カメラの映像が、誰かの机の上で、赤く点滅した。 そこまでの推論を、レンは自分の思考速度で追えなかった。思考が、二本のレーンを同時に走っている。一本は落第料理人レンの、怯えと混乱で湿ったレーン。もう一本は、冷たく整然とした、戦略家のレーンだ。後者は、先頭の男の呼吸の周期から疲労度を割り出し、隊列の死角を数え、この配管の影から最寄りの搬送ダクトまでの距離を十七メートルと即座に弾き出していた。前世の料理長が、なぜそんな計算をできるのか。宮廷の厨房は、戦場でもあったのか。問いは、答えが返ってくる前に次の問いに押し流された。湿ったレーンの端で、十六歳の自分の声が小さく震えていた。「逃げたい」「でも、どこへ」。戦略家のレーンは、その声を無視しなかった。無視せず、ただ淡々と「十七メートル先、左手奥」と応えた。叱らず、慰めず、経路だけを差し出してくる、その距離感が、奇妙にあたたかかった。前世の誰かが、泣いている見習いに対して、そうやって接していたのかもしれない、と、ふと思った。
掌の中で、結晶片が、一段強く脈を打った。 同時に、HUDの表示が跳ねた。《旧主認証:本承認》《星舌:限定起動》。視界の縁に、見たことのない計器が幾つも浮かび上がる。温度分布、気流方向、湿度、そして——「呈味成分マップ」。地下三層の空気中に漂う微量分子が、色で塗り分けられて空間に重なって見えた。赤は塩基性、青は酸、黄は糖、紫はうま味の前駆体。配管の上層に沿って、ごく薄い紫の層が、煙のように漂っている。それは、第四タンクから漏れ続けている、あの「出汁」の残響だった。 レンは息を呑んだ。自分が今、世界を「味」で見ている。視覚ではなく、味覚の地図として、地下空間そのものを読んでいる。鼻の奥が、しんと痺れた。涙腺の手前で、熱いものが一度せり上がり、また引いた。美しい、と、最初に浮かんだ言葉がそれだった。逃げ場のないこの地下で、追われている最中に、美しいと感じてしまった自分に、レンは少しだけ怯えた。 ――前世の俺は、こうやって、宮廷の厨房を見ていたのか。 レーンが一本になった。怯えも、計算も、同じ舌の上で融け合った。落第坊やの震える指と、料理長の節くれだった掌が、結晶片の上で、ひとつの輪郭に重なる。
レンは配管の影から、わずかに顔を出した。三人の特務班は、ちょうど第四タンクの根元に辿り着いたところだった。先頭の男が、床のひび割れに金属製の採取器を差し込む。結晶片を回収するつもりだ。あそこに結晶はもう無い。けれど、残された紋様の痕跡から、男たちは何を読み取るだろう。そして、その痕跡の延長線上に、レンの逃げた方向が、味の地図として残っていないだろうか。紫の層は、確かに、配管の影へ向かって、薄く、しかし確実に、尾を引いていた。 上層、工場本部の監視室。そこでは今、誰かが同じマップを別の角度から睨んでいるはずだ。ガストロニカの端末に接続された、もっと洗練された呈味センサーが、地下三層の空気を、秒単位で解析している。その画面の中で、紫の尾は、逃走経路そのものとして描かれているだろう。 レンは、掌の中の結晶片を、胸のポケットにゆっくりと滑り込ませた。作業着の合成繊維が、一瞬、脈動の周期に合わせて波打ったように見えた。 呼吸を、三拍に整える。吸って、止めて、吐く。けれど、今度の三拍は、訓練された無感情の呼吸ではなかった。銅の大釜の前で、湯気の立ち具合を見極めるときの、料理人の呼吸だった。 搬送ダクトまで、十七メートル。特務班の死角は、左手奥、第六支柱の裏。所要、およそ十二秒。足音を消すには、靴底の外縁だけで床を舐めるように歩く。前世の料理長が、夜更けの回廊を、眠る王を起こさぬように歩いた、あの歩き方で。
踏み出す直前、レンは一度だけ、天井を見上げた。 地下三層の天井、監視カメラの赤いレンズが、ちょうどレンの位置でわずかに向きを変えた。機械の首が、油圧の微音を立てて、数度、回転した。カメラの視線が、結晶片を抱くレンの胸のあたりで、止まる。そのレンズの奥で、遥か遠い軌道上の何かが、今まさに、この辺境都市の座標を、自らのリストの最上段に書き加えた気配があった。 ――見つかった。 確信が、舌の根の熱と一緒に、喉元までせり上がった。落第坊やは、もう、ただの落第坊やではいられない。