第2話
第2話
指先が、触れる前から震えていた。 青白い光は、呼吸するように明滅を繰り返している。レンの脈拍と同じリズムで——いや、正確には、レンの脈拍の方が、光に引き寄せられて同調しつつあった。地下三層の空気は粘性を帯び、肺に入るたびに胸郭の内側をやわらかく押し広げる。規定値を超えたタンクの熱が、コンクリートの床を介して靴底に伝わってくる。摂氏三十二度、三十三度。HUDの右下に表示される外部気温が、一秒ごとに更新されていく。額に滲んだ汗が、頬を伝って顎先から落ち、床のひび割れに吸い込まれた。落ちた瞬間、青白い光が、わずかに強さを増した気がした。 ――応答している。 そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。無機物が人間に応答するはずがない。けれど、この感覚を「気のせい」で片付けてしまうには、レンの舌の根に残る熱が、あまりにも生々しかった。 タンクの外壁に手を当てる。金属は焼けつくほど熱い。掌を押しつけたまま、内部の対流を聴こうと耳を澄ました。通常、培養タンパクのタンクは静音設計で、外壁から内部音は漏れない。だが、今は違った。低い、重い、何かが回転する音。そして、その回転音の合間に、微かな、しかし確かな——気泡のはじける音。煮えている。合成食品工場のタンクが、煮えている。
レンは懐中のハンドセンサーを起動し、コンクリートの隙間から突き出す光源に向けた。波長分析が走り、HUDに結果が落ちてくる。 《物質同定:不可。標準ライブラリ該当なし》 《放射波形:有機的。周期 0.87 秒。生体パターンと類似》 有機的。生体パターン。冷えた工場の地下で、三百年前に機能を停止したはずの区画で、何かが脈打っている。レンはその「0.87秒」という数字を、舌の上で転がすように反芻した。人間の安静時心拍よりわずかに遅い、けれど眠っている者の呼吸よりは速い、絶妙に生き物めいた周期。機械の周期なら必ず割り切れる整数秒に揃うはずだった。それが揃っていない。揃っていないという事実だけで、レンの背中の産毛が、一本ずつ、順に立ち上がっていくのがわかった。 センサーの警告音が小さく鳴り、レンは反射的に口元を覆った。警告は放射線ではなかった。揮発性の芳香分子。濃度、規定大気の四千倍。工場の換気システムが検知していないのは、この物質が既存のデータベースに存在しないからだ。カタログにない匂いは、世界には存在しないことになっている。 けれど、レンの鼻は、それを知っていた。 湯気に混じる、木の皮のような苦み。乾いた海の底から引き上げた石の、塩の結晶の下に眠るうま味。火で炙られた肉の、焦げる一歩手前の甘い煙。どれも、知っているはずのない匂いだった。合成食品工場で育ち、配給栄養ブロックしか口にしたことのないレンが、なぜ「炙られた肉」の匂いを知っているのか。なぜ「海の底の石」という概念が、匂いと結びついて舌の奥に落ちてくるのか。知っているはずがないのに、舌の裏側の唾液腺が、記憶よりも先に反応していた。唾液が、ほとばしるように湧いた。口の中が、飢えた犬のそれのように、濡れて、熱くなった。 「……ばかな」 声が漏れる。自分の声なのに、自分のものではないようだった。喉の震え方が違う。普段より半音低く、母音の末尾がわずかに巻き上がる。まるで、もっと年老いた誰かが、レンの声帯を借りて呟いたかのようだった。 膝が勝手に折れた。崩れ落ちるのではなく、跪くように。まるで誰かが、そうするのが礼儀だと、体に教え込んでいるように。コンクリートの冷たさが膝頭を刺した。痛みは遠かった。青白い光は、レンの顔の高さまで迫っていた。結晶の表面に、極細の溝が走っている。溝は幾何学的に整い、規則的な間隔で分岐していた。回路だ、と頭のどこかが囁いた。しかし同時に、別の声が重ねて言った。――いや、これは刻印だ。紋様だ。星系連邦宮廷が、宝物庫の扉にだけ許した、旧約刻印だ。 二つの声が、レンの頭蓋の中でぶつかり合った。知らないはずの言葉が、知っている言葉として舌の上に転がる。「星系連邦」「旧約刻印」——義務教育でも、工員向けの補講でも、一度も耳にしたことのない単語だった。それなのに、綴りまで見える。光の中に、銀色の文字が浮かび上がって、頭の裏側で勝手に翻訳されていく。レンは息を止めた。止めなければ、自分が自分でなくなる気がした。止めた息の下で、心臓だけが、光と同じ周期で、勝手に鼓動を刻み続けていた。 タンク上部で、何かが砕ける音がした。高圧センサーが一つ、破裂したのだ。熱膨張に耐えきれず、計器が内側から爆ぜた。破片がコンクリートの床に散る音が、地下空洞の奥まで長く尾を引いた。レンは咄嗟に身を低くした。その動きで、伸ばしていた右手が、あと十センチのところまで結晶に近づいた。 「触れるな」 自分の中の誰かが叫んだ。工員として生きてきた十九年分の、保身と規律の声だった。 「触れろ」 別の誰かが、それより強く囁いた。もっと古く、もっと深く、もっと疲れ切って、それでも待ち続けてきた声だった。
指先が、青白い結晶の表面に触れた。 接触した瞬間、世界の音が消えた。タンクの唸りも、計器の警告音も、自分の心拍さえも。真空の中に放り込まれたような無音が、コンマ数秒だけ続き——そして、堰が切れた。 脳内に、砂が逆流するように、記憶が押し寄せてきた。レンのものではない記憶が。 銅色の大釜が、視界一面に広がる。湯気の柱が天井のドーム状の硝子を突き上げ、ドームの外では、三つの月が異なる速度で軌道を巡っていた。大理石の床。金糸の刺繍が施された長衣の裾。自分の手——皺の刻まれた、節の太い、料理人の手。その掌に、薄く削がれた何かの乾物がのせられている。指先が慣れた動作でそれを鍋の縁に添え、湯面に滑らせる。薄片は水面で一瞬身をよじり、やがて沈んだ。沈みながら、旨味を、水へ、世界へ、解き放っていく。湯気が睫毛を濡らし、鼻腔の奥で十数種の香が幾層にも折り重なって立ち昇る。掌に残る乾物の繊維のざらつき、爪の先にこびりついた塩の粒の硬さ、舌の裏にじわりと滲み出す期待——そのどれもが、レンの知らない「職人」の五感として、寸分の狂いもなく整列していた。 味覚記録AI「星舌」起動。全感覚同期。配合係数、第七層まで展開。 耳の奥で、合成音声がそう告げた。機械的で、しかし優しい声だった。母親の声に似ていた——レンは母親の声を知らないはずなのに。 視界が切り替わる。長い回廊。大理石の柱が連なり、その奥に玉座がある。玉座の上の人物の顔は、靄がかかって見えない。だが、その人物がレンに——いや、「前世の自分」に——微笑みかけたのがわかった。そして、言った。 「お前の一皿で、この星系は救われるのだ」 救う。何を。何から。問いは音にならなかった。問う前に、場面が剥がれ落ちた。 次の光景は、炎だった。大釜が割れ、銅が溶け、金糸の長衣が燃え上がっている。熱は映像の中のはずなのに、レンの頬の皮膚まで届いた。焦げた絹のにおいが、鼻腔の奥で生々しく弾けた。自分の手が、震える指で、小さな結晶片を握りしめていた。結晶の中に、何かを封じている。封じなければならない。封じなければ、「これ」は世界を食い尽くす。手の甲に浮いた血管が、恐怖と決意で黒く膨れ上がっていた。爪の間に、銅の煤と、赤黒い何かが詰まっていた。血だ、と遅れて理解した。自分の血か、誰かの血か、それすらもう、判別がつかなかった。遠くで、誰かが自分の名を呼んでいた。知らない名のはずなのに、その響きの一音一音が、胸の奥を裂くように痛んだ。返事をしたくても、喉は煙で焼けただれ、声の代わりに鉄の味だけが、舌の根まで迫り上がってきた。 ――封じる。お前を、ここに封じる。
記憶の奔流が、急に途切れた。 レンは膝をついたまま、肩で息をしていた。涙が止まらない。理由のわからない涙が、頬を伝い、顎先から、青白い光を放つ結晶の上に落ちた。涙の粒が結晶に触れた瞬間、光はもう一段、強く脈動した。タンクの内部音が、また一段、低く唸った。 HUDに、見たこともない警告が重なって表示されはじめる。《同期確認》《旧主認証:仮承認》《封印解除コード:三十七%展開》。言葉の意味はわからない。だが、体の奥、胸骨の裏側で、何かが確かに、蓋を押し上げようとしていた。三百年分の埃をかぶった蓋を、内側から、ゆっくりと。 遠くで、リフトの駆動音が聞こえた。誰かが、地下三層へ降りてくる。足音は一人分ではない。複数。規則的で、訓練された歩幅。ドロスの差し向けた監査班か、それとも—— レンは震える指で、結晶片を掌に握りしめた。熱くはなかった。むしろ、体温と同じだった。まるで、長い間この手のひらを待っていたかのように。