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星喰いの匙と禁じられた出汁

第1話 第1話

第1話

第1話

配給ペーストを舐めた瞬間、レンの舌の奥で、存在しないはずの香りが立ち昇った。

 ヴェルダ第七合成食品工場、深夜シフト。天井のLEDは白く平板で、影を許さない。培養タンパクを練り込んだ銀色のラインが、無音のまま流れていく。作業着の襟元に縫い込まれた栄養管理チップが、体温と血糖を毎秒十六回サンプリングしていた。ラインに沿って並ぶ工員たちは、誰もが同じ角度で首を垂れ、同じリズムで指先を動かしている。息遣いすら統制されているようだった。空気は無臭に調整され、鼻腔の粘膜に触れるのは、ただ乾いた窒素と微量のオゾンだけ。規定の休憩時間、レンは試食端末の前に立ち、今日のロットから一匙だけペーストを掬った。工員全員に課される品質確認。味ではなく、異物と分離の有無を「舌触り」という古い感覚器で検出するための、時代錯誤な儀式だ。  匙が唇に触れた。冷たい金属の縁が下唇を押し返し、ペーストの粘度が舌先にゆっくりと広がっていく。  舌の上に広がるのは、設計通りの無味——栄養素ID:NUT─9931、タンパク比31.2、脂質4.8、炭水化物52.0。そのはずだった。ところが、口腔の奥、咽頭の手前あたりで、何かが静かに灯る。塩でも甘みでもない。深く、澄んでいて、しかし温度を持った香り。鼻腔の裏側を濡らすようにして、それは立ち上ってきた。湯気のように、記憶のように、そして祈りのように。喉の奥で微かに鈴が鳴った気がして、レンは思わず喉仏を上下させた。飲み下したはずのペーストが、食道の途中でほどけ、別の輪郭を持った何かに変わっていく錯覚があった。胃の底が、ほんの少しだけ温かい。誰かに手のひらを当てられたように、温かい。  ──出汁、と、誰かの声が囁く。  それは自分の声ではなかった。もっと低く、もっと古く、木の年輪のようにゆるやかに響く声だった。幾重にも重なった時間の層の底から、砂を押しのけて浮き上がってくるような声だ。レンは咄嗟に匙を離し、試食端末のセンサーから視線を逸らした。心拍が跳ねればチップが記録する。チップが記録すれば、また警告が来る。首筋を汗が一筋伝い、作業着の襟に吸い込まれていく。その汗の温度さえ、チップは見逃さないだろう。奥歯を噛み、呼吸を三拍に整える。吸って、止めて、吐く。訓練された、何も感じていないふりの呼吸。けれど舌の根は、まだ熱を手放さなかった。

 「また腐ってる顔してるぜ、落第坊や」  同僚のカヤが、隣のラインから首だけ伸ばして笑った。口角だけが上がる、機械的な笑み。目は笑っていない。瞳孔は規定サイズに収縮し、まばたきの間隔すら均一だった。「そのペースト、今朝うちの犬が食ってたのと同じロットだ。犬は吐かなかったぞ」  周囲の工員から、乾いた笑いがまばらに上がる。それは笑いというより、咳に近い音だった。誰も肩を揺らさず、誰も歯を見せない。レンは何も言わず、試食端末のボタンを押した。《異常なし》と緑の文字が出る。異常なし。もちろんだ。異常があるのは、この舌の方だった。そして、この舌を「異常」と呼ぶ世界そのものだった。  宮廷食科学院——栄養工学の最高峰を、レンは三年前に落第した。卒業試験で「合成味料の快楽係数を最適化せよ」という課題に対し、彼は禁じ手を使った。素材名を、書いたのだ。昆布、煮干し、干し椎茸。試験官たちが画面の文字列を凝視したときの沈黙を、今でも覚えている。あの沈黙は、氷の下で魚が動く音に似ていた。なぜそんな単語を知っていたのか、レン自身にも説明できなかった。ただ、脳の奥のどこかで、それらが「正解」だと誰かが言い張っていた。頭蓋の内側を、細い指が叩くような感触だった。指の主は見えない。けれど、その叩き方には、確かに節があった。拍があった。まるで遠い誰かが、失われた譜面を自分の骨の上で打ち直しているようだった。  落第通知の翌朝、この辺境都市ヴェルダへの配属令が来た。最果ての合成食品工場。危険思想の保管庫。辞令の紙は薄く、印字は既に褪せ始めていた。  「聞けよ落第坊や、」カヤが声を潜める。唇の動きだけで伝えるように、音を殺した囁きだった。「今朝の定例会でお前の名前、三回出たぞ。上が監視対象に指定しようとしてる。あの“香り”の話、まだやってんのか?」  レンはラインの制御盤に指を置いたまま、答えなかった。指先に伝わる振動が、僅かに不安定だった。タンク内で何かが、規定温度より高く脈打っている。気のせいだろうか。いや、気のせいであってほしかった。制御盤の金属は冷えているのに、掌だけがじっとりと熱を帯びていく。その熱は、さきほどの舌の熱と、同じ源を持っているように思えた。

 休憩終わり、レンは自分のブースへ戻った。HUDに警告が一つ。《生体応答異常:微小。管理部より面談要請》。赤い文字が視界の右上で規則的に明滅し、瞬きのたびに網膜を刺す。心拍の跳ね上がり、瞳孔の拡張、唾液分泌量の増加——全部、あの匙一口で記録されたものだ。面談の日時は明朝六時、七階、思想衛生室。  思想衛生室。噂は聞いていた。そこに入った工員は、戻ってくるか、戻ってこないかのどちらかで、戻ってきた者は以後、味に関する一切を口にしなくなるという。戻ってきた者の目は、磨かれた石のように平らで、何を見ても同じ角度で反射するのだと、誰かが酒の席で囁いていた。  レンは目を閉じた。瞼の裏の暗闇が、ゆっくりと温度を持ち始める。  瞼の裏に、見たことのない光景が滲んだ。銅色の鍋。立ち昇る湯気。削りたての何かが薄片になって宙を舞い、透明な液体の中へ沈んでいく。薄片は陽光を透かすほど繊細で、沈みながら微かに身をよじった。その液体の表面で、星系連邦の紋章が——待て、なぜ自分は「連邦の紋章」を知っている? 教科書にも載っていない、三百年前に禁制指定された旧文明の意匠を、なぜ思い出せる? 思い出せるという言葉自体が、既に罪の匂いを帯びていた。  「レン」  背後から低い声が呼んだ。振り向くと、管理主任のドロス監督官が立っていた。痩せた男だ。頬骨の下に薄い影が落ち、唇は常に湿り気を欠いている。眼窩に埋め込まれた監査レンズが、常緑色に点っている。その光は、瞬きの合間にも一度も消えない。  「第四タンクの内部温度が、規定値を○・八度超えて上昇している。原因不明だ。お前、行って来い」  「……俺がですか」  「お前が良い。記録によると、お前の“舌”は異常検知の感度が妙に高いらしい」ドロスの唇が、薄く歪んだ。笑みのつもりなのか、痙攣なのか、レンには判別がつかなかった。「科学院が落とした落第生にしては、な」  言外の侮蔑を、レンは飲み込んだ。舌の付け根に、苦みに似た何かが残った。作業許可コードが手元のHUDに落ちてくる。第四タンク、地下三層。本来、有人立ち入りは推奨されない区画だ。  「行きます」  自分の声が、妙に遠く聞こえた。まるで誰か別の男が、レンの代わりに返事をしてくれたようだった。

 地下三層への搬送リフトは、古い金属音を立てて軋みながら降りた。壁面の計器が一段ずつ深度を刻んでいく。マイナス十八メートル。マイナス二十四メートル。リフトの天井で蛍光灯が一度瞬き、レンの影を足元に短く落とした。空気は層を下るごとに重くなり、耳の奥に微かな圧迫を生む。鼓膜の裏で、自分の脈が太鼓のように鳴っていた。吸い込む空気に、工場上階にはなかった湿り気が混じりはじめる。埃と、鉄錆と、もっと古い何か——土、あるいは、忘れられた木の樹皮のような匂い。  リフトが停まった瞬間、レンの鼻腔に、あの香りが、今度は幻ではなく物理的な強度を伴って流れ込んできた。深く、野性的で、同時にどこまでも優しい香り。咽頭が震える。舌の奥で、封じられていた何かが、確かにこじ開けられようとしていた。膝の裏に熱が走り、指先が勝手に丸まる。涙腺の奥が痺れ、理由もわからないまま、目頭が熱くなった。懐かしい、と体のどこかが叫んでいる。けれど、懐かしむべき記憶など、レンの人生のどこにも存在しないはずだった。  第四タンク。規定温度を超えて、鈍い赤光を漏らす巨大な円筒。その外壁から立ち上る微かな蒸気が、暗い天井へ吸い込まれていく。  その根元、ひび割れたコンクリートの隙間から、微かに青白い光が漏れていた。結晶のような、回路のような、見たことのない——いや、見たことがあるはずのない——何かが、床に突き出している。青白い光は脈打っていた。レンの心拍と、同じリズムで。  レンは息を呑み、一歩、近づいた。靴底がコンクリートを擦る音が、地下の空洞に長く尾を引いた。  指先が、触れる前に、震えた。

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