第1話
第1話
夜中の三時。目が覚めたのは、泣き声のせいだった。 俺は布団の中で息を止める。古い木造の孤児院は、風の強い夜には梁が鳴るし、屋根裏で鼠が走ることもある。けれど今、俺の耳がとらえたのは、そういう音ではなかった。 細い、細い、子供のすすり泣き。 起き上がる。隣で眠る年下のユゥが寝返りを打ち、その向こうの寝台では、先月から眠り続けているリッカの胸が、ゆっくりと、けれど確かに上下していた。熱を出して倒れ、それきり目を覚まさない子が、この一月で三人。職員たちは「流行り病だろう」と言って笑った。薬草茶を煮出して、それでおしまいだった。笑い方が、俺はずっと引っかかっていた。病で子供が三人も倒れているのに、誰も声をひそめない。誰も、夜中にそっと様子を見に来ない。まるで、そうなることを最初から知っていたように。 俺は十六になる。この院で育った孤児で、家族と呼べるのはここの弟妹たちだけだ。だから、夜の見回りは俺が買って出ている。大人は誰も、この奇妙さに気づこうとしないから。 廊下に出る。ランプの油を絞り、必要な分だけ灯す。冷えた床板が、素足の下でかすかに鳴った。爪先から伝わる冷たさが、膝の裏まで這い上がってくる。泣き声は、まだ続いている。確かめるまでもない。聞こえてくるのは、地下倉庫のほうからだ。壁伝いに、まるで水が低いところへ流れるみたいに、その声は俺の耳に届いていた。
階段の前に立つと、匂いが違った。 昼間の倉庫は、乾いた木材と古い麻袋の匂いがする。けれど今夜は、湿った土の匂いがした。雨上がりの裏山を掘り返したような、黒く重たい匂い。鼻の奥に、苔と、錆びた鉄の味がからみつく。上がってくるはずのない場所から、それは漏れていた。 ランプを下ろす。段の一つ一つが、俺の体重でぎし、ぎし、と沈んだ。降りるほどに、空気がぬるむ。冬のはずなのに、地下だけは季節を忘れていた。頬に触れる空気は、犬の息みたいに生温かく、湿っていた。舌の上にも、うっすらと鉄の味が乗った。唾を呑むと、その味が喉を滑り落ちていって、胃の奥で小さくわだかまった。 「……誰か、いるのか」 自分の声が、思ったより細く響いた。 返事の代わりに、泣き声がやんだ。 ぴたり、と。まるで誰かがその子の口を塞いだみたいに、唐突に。 俺は息を詰める。背中をひやりと撫でたのは、汗ではなかった。自分がここで一人きりだという事実が、急に重くなった。心臓の音が、耳の奥でどくどくと跳ねている。その音に誘われるようにして、俺はもう一段、降りた。腰の高さまで降りたところで、木の扉が現れる。普段は鍵がかかっているはずの、奥倉庫への扉だ。 鍵は、かかっていなかった。 わずかに開いた隙間から、湿った土の匂いが、まるで生きもののように漏れ出していた。吸い込むと、喉の奥にざらりとしたものが残る。 脳裏に、眠り続ける弟妹たちの顔が浮かぶ。リッカ。トウマ。小さなネネ。朝、呼んでも揺すっても目を覚まさなかった、あの三人の青白い顔が。リッカの睫毛は長くて、眠っていても笑っているように見えた。ネネはいつも俺の袖をつかんで離さなかった。握ってくる指は、いつも少しだけ汗ばんでいて、爪の先に昨日のパン屑が挟まっていたりした。トウマは算術が苦手で、でも星の名前だけはたくさん覚えていた。北の空の竜座の尻尾の星の名前を、得意げに三度も俺に教えてきた夜があった。 気のせいではない。 俺は、そう確信してしまった。確信してしまえば、もう引き返せない。弟妹が喰われているなら、気づいた奴が動くしかない。大人がだめなら、俺がやるしかない。 ランプを持ち直した、そのときだった。 扉の向こうで、ぴちゃ、と水滴のような音がした。けれど水ではない。もっと粘ついた、なにかが垂れるような音。続けて、砂を擦るような、か細い息づかい。 子供の、呼吸だった。 浅く、速く、時々ひっかかるようにして途切れる。俺が知っている呼吸だった。熱を出した夜、リッカの枕元で何度も聞いた、あの呼吸だった。額に濡れた布を乗せてやると、眉の端がほんの少しだけ緩む、あの顔と一緒に覚えている呼吸だった。 「……リッカ?」 呼びかけたのは、ほとんど反射だった。俺は馬鹿だ。目を覚まさないはずの妹の名を、こんな場所で呼んでしまった。 扉の隙間が、すうっと広がった。 押したわけではない。誰かが、内側から開けたのだ。蝶番は、きしみもしなかった。油を差したばかりみたいに、滑らかに。その滑らかさが、かえって背筋を撫で上げた。この扉は、俺が知っているどの扉でもなくなっていた。
暗闇の奥で、小さな白いものが浮かんだ。 はじめは、子供の手だと思った。ネネくらいの、まだ頬が丸い子の手。けれど違った。それは手の形をしていたけれど、指が六本あった。しかも、指先から手首までが、同じ太さで、同じ長さで、同じように白い。蝋のような白さだった。関節のくびれがなく、爪もなく、ただのっぺりとした六本の棒が、手首から生えているだけだった。見ているだけで、喉の奥がひくりと痙攣した。人の形をしているのに、人の気配だけが、きれいに抜け落ちていた。 その指先が、ゆっくりと、俺のほうへ伸びてくる。 空気を掻き分ける音すらしない。音のなさが、かえって耳に痛かった。自分の呼吸の音だけが、やけに大きく、頭蓋の内側で反響していた。 逃げろ、と頭の奥で声がした。けれど脚が動かない。動かない代わりに、掌が、熱くなった。右の掌の真ん中、生まれつきあると思い込んでいたほくろに似た小さな痣が、灯りも当てていないのに、青白く光りはじめていた。皮膚の下で、なにかが目を覚ましていく感覚。血管をさかのぼって、心臓まで届こうとする、ひやりとした熱。 伸びてきた白い腕が、俺の喉元に触れる寸前。 掌から、光が弾けた。 それは膜だった。弧を描いて俺の前に展開した、青白い、薄氷のような膜。触れた瞬間、白い腕はぱきりと音を立てて凍り、ぼろぼろと灰になって崩れ落ちた。灰は床に落ちる前に、ふっと空気に溶けた。匂いも、痕も、残らなかった。まるで最初から、そこには何もなかったみたいに。 膜の光が、地下の奥を一瞬だけ照らす。 俺は、見てしまった。 壁一面に、子供の顔があった。十も、もっとあったかもしれない。目を閉じた子もいれば、薄く開いた子もいた。皆、壁の中に半分埋まって、胸だけをゆっくりと上下させていた。土と石が、頬を、額を、肩を、柔らかく呑み込んでいた。苦しそうではなかった。それがいちばん、恐ろしかった。 その中に――リッカの顔が、あった。 膝から力が抜ける。ランプが取り落ちそうになるのを、俺はなんとか握り直した。声が出ない。歯だけが鳴る。奥歯と奥歯が、勝手にぶつかりあって、かちかちと鳴っている。叫びたかった。泣きたかった。リッカの名を呼んで、壁から引きずり出したかった。けれどどれもできなかった。ここで俺が倒れたら、誰も弟妹を見つけられない。それだけが、俺を立たせていた。 光が、消える。 暗闇が戻る。俺は後ずさり、扉の外まで這うように出た。掌の青白い痣は、もう熱を持たなくなっていたけれど、形だけは――さっきより、濃くなっていた。線が太く、輪郭がはっきりして、まるで誰かが上からなぞったみたいに。
階段を上りきったとき、廊下の窓の外は、まだ夜明け前だった。 寝台に戻る気にはなれなかった。俺は冷たい床に膝をついて、自分の右手をじっと見つめた。指先はまだ震えていて、その震えが、痣の上で小さく波を打っていた。 守護魔術、という言葉を、昔どこかで聞いた気がする。教会の、古い物語の中でだったか。けれどそれが、俺の掌に宿る理由を、俺は知らない。なぜ俺なのか。なぜ、今夜だったのか。問いかけても、掌はただ静かに、青白い光の残滓を沈めているだけだった。 ただ一つだけ、決まったことがある。 朝になったら、ミラを呼ぼう。それから、算術の得意なトトを。二人にこの痣を見せて、地下で見たものを話すのだ。大人は信じない。それならせめて、同じ孤児の、同じ家族の二人に信じてもらわなければ。信じてもらえなければ、リッカは、あの壁の中から二度と出てこられない。 廊下の奥で、また、ぎしり、と床が鳴った。 風のせいだ、と自分に言い聞かせる。けれど掌の痣が、それに応えるように、ほんのかすかに、脈を打った。