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孤児院の地下に泣く子ら

第2話 第2話

第2話

第2話

夜が明けきらないうちに、俺は着替えを済ませた。  掌の痣は、朝の光の下でも消えなかった。袖の内側で、皮膚の奥にもう一枚、別の皮膚が張りついているみたいに、かすかな熱を保ったままだ。手拭いで擦ってみる。石鹸をこすりつけてみる。線はびくともしなかった。爪でなぞると、皮膚ではない、もっと内側のものが疼いた。痛みではない。呼ばれている、と言ったほうが近い。  台所へ降りると、竈の前で職員のハルダさんが湯を沸かしていた。五十近い、頬のふっくらした女の人で、俺が小さい頃は、膝の上で絵本を読んでくれた人だ。その膝の温度を、俺はまだ覚えている。 「ハルダさん」  声をかけると、振り向いた顔は、いつも通りの笑顔だった。 「おはよう、レン。早いね」 「昨日の夜、地下で泣き声が聞こえたんだ」  言葉にすると、自分でも嘘くさいと思った。けれど言わないわけにはいかない。 「見に行ったら、扉が開いていた。奥に、何かいた」  ハルダさんは、薬缶の湯気越しに、俺をじっと見た。  それから、笑った。  口角の上がり方が、頬の持ち上がり方が、目尻の皺の寄り方が──ぜんぶ昨日までと同じなのに、目の奥だけが、笑っていなかった。黒目の中に、湯気が映っていない。朝の光が映っていない。ただ二つの、乾いた穴だった。 「夢を見たんだよ、レンちゃん。最近、リッカたちのことで気を張っていたから」 「夢じゃない」 「夢だよ」  その「夢だよ」の言い方が、やけに、なめらかだった。油を差した蝶番みたいに。昨夜の扉の開き方と、同じなめらかさだった。俺の背筋に、ぞわりとした冷たさが這い上がった。  ハルダさんは薬缶を持ち上げ、俺の前を通り過ぎていく。すれ違いざま、その袖口から、ふっと、あの匂いがした。  湿った土の匂いだった。

 朝食のあいだ、俺はほとんど何も食べられなかった。  長机の向こうで、幼いシィがぐずっている。四つになったばかりの女の子で、まだ言葉が拙い。俺の隣でパンをちぎっていたミラが、シィの額に手を当てて、眉をひそめた。 「レン」  小声で呼ばれる。ミラは俺と同い年の、幼馴染だ。栗色の髪を後ろで一つに結んで、いつもは芯の強い目をしている。その目が、今朝は揺れていた。 「熱があるの。ゆうべはなんともなかったのに」  シィの頬は、確かに赤い。けれど額に触れた指先が伝えてくる熱は、風邪のそれとは違った。もっと奥からじわじわと湧いてくる、濁った熱だった。リッカが倒れた朝と、同じ熱だった。  四人目だ、と思った瞬間、匙を持つ手が震えた。  シィは俺を見て、弱々しく笑った。笑顔を作ろうとして、うまくいかなかった顔だった。その、うまくいかなさが、胸に刺さった。 「おにいちゃん、シィ、ねむい」  眠い、という言葉を、俺は今朝から怖いと思うようになっていた。 「寝ちゃだめだ」  思わず強く言ってしまった。シィがびくりと肩をすくめる。俺は慌てて声を柔らかくした。 「……あとで一緒に、外に出よう。日向で、遊ぼう。な?」  シィは、こくりと頷いた。頷いたはずなのに、その頭が、重たげに傾いで、ミラの肩に落ちた。瞼が、ゆっくりと閉じていく。ミラが息を呑む音がした。 「シィ、シィ、起きて」  揺すると、目は開く。開くけれど、焦点が合わない。シィの瞳の中に、俺たちの顔がうまく映っていない。代わりに、黒く澱んだ、小さな影のようなものが、瞳の奥をちらりと横切った気がした。  ミラがシィを抱き上げた。細い腕に、幼い体を落とさないように力を込めて、医務室のほうへ運んでいく。その背中を見送りながら、俺は卓の下で拳を握った。掌の痣が、ずくり、と疼いた。呼応している、と思った。シィの熱と、この痣と、地下の闇と。すべてが、同じ糸の先で結ばれていた。

 昼近く、俺は院の裏手にある薪置き場にミラを呼び出した。  シィを医務室に預けてきたミラは、頬の色を失っていた。朝方より、瞳の揺れが大きくなっている。髪の後れ毛が汗で首筋に貼りついていて、彼女が医務室でどれだけシィの手を握っていたかが、それだけで伝わってきた。俺は薪の山に背を預けて、掌を開いて見せた。木屑と松脂の匂いが、背中越しにふっと鼻を掠めた。 「ミラ、これを見てくれ」  青白い痣は、日の光の下でも、皮膚のうえに沈んだ小さな湖みたいに見えた。ミラは一瞬眉をひそめ、それから、その痣に指を伸ばしかけて、途中で止めた。触れたら、何か大きなものに巻き込まれると察したみたいに。止まった指先が、微かに震えていた。その震えを隠すように、ミラは拳を握り直した。 「……夜中、地下に行ったの」 「行った。扉が開いてた。中に、子供みたいな形をした、子供じゃないものがいた。俺の掌から光が出て、そいつを灰にした。奥の壁に──リッカがいた」  ミラは黙って聞いていた。言葉を遮らず、疑いもしなかった。俺が一言落とすごとに、彼女の喉がこくりと動き、睫毛が小さく震えた。話し終えたとき、彼女はただ、深く息を吐いた。長く溜めていた息だった。肩が、細く震えていた。 「……やっぱり、そうなんだ」 「やっぱり?」  ミラは、薪の木肌をじっと見つめながら言った。節くれた木目に視線を這わせ、そこに昨日の自分の影を探すみたいに、ゆっくりと、途切れ途切れに。 「昨日の夕方ね、洗濯物を取り込みに行ったとき、地下倉庫の扉の前を通ったの。そしたら──呼ばれた気がしたの」 「呼ばれた?」 「名前を。『ミラ』って。小さい、子供の声だった。リッカの声みたいでもあったし、知らない子の声みたいでもあった。扉の隙間から、声が漏れてきて、私の名前を、優しく呼ぶの。『おいで』『こっちにおいで』って」  ミラの声は、途中から震えていた。唇の端が白くなり、飲みこんだ唾が喉で鳴った。 「足が、勝手に一歩、踏み出したの。気づいたら扉のすぐ前まで行ってて、把手に手をかけようとしてた。指先に、木の冷たさが触れた瞬間──ううん、木じゃなかった。鉄みたいに冷たかった。昼間の廊下なのに、そこだけ別の季節みたいに。……怖くなって、逃げた。けど、逃げたあとも、しばらく耳の奥で、その声が続いてた。寝るときもね、枕に耳を押しつけても、まだ聞こえるの」  俺は、ぞっとした。  昨夜、俺が降りていったあの扉は、ミラのほうを先に狙っていたのかもしれない。俺が向こうから呼びかけたから、俺を相手に選び直したのかもしれない。もしミラが一人で扉を開けていたら、今朝、倒れていたのは彼女だったかもしれない。冷たくなった指先が、寝台の上で、誰の手も握れないまま固まっていたかもしれない。  その想像は、胸の奥で鉄の味がした。昨夜、地下で喉に溜まった、あの味と同じだった。舌の奥で唾が苦くなり、俺は思わず歯を食いしばった。  ミラが、自分の両腕を抱きしめた。指先が、自分の二の腕に白く食い込んでいた。 「レン、あたしね。夢を見るの、最近。知らない子が、地下の真っ暗なところで、あたしに向かって手を伸ばしてる夢。起きると、いつも掌が汗で濡れてて。枕の縁まで濡れてるの。……これ、関係ある?」 「ある」  俺は即答した。根拠はなかった。ただ、根拠が要らないくらい、確信があった。

 薪置き場の隅で、俺はもう一度、掌の痣を見下ろす。  大人は信じない。ハルダさんの、あの乾いた目を思い出すだけで、それはよくわかった。院の中に、もう味方はいないのかもしれない。いや、いないどころか──職員の誰かは、もうとっくに、あちら側の匂いをまとっている。 「ミラ」  俺は、努めて静かに言った。 「昼過ぎ、トトを呼ぶ。三人で話したい。信じてもらうのは、二人だけでいい」  ミラは、こくりと頷いた。頷きながら、怯えた目のまま、でも逃げない目で、俺を見た。 「シィを、助けたい」 「助ける。リッカも、トウマも、ネネも、全員取り戻す。四人目は、絶対に出させない」  言い切ったとたん、掌の痣が、ふっと熱を帯びた。  応えるように、ではなかった。急かすように、だった。まるで、時間がもう残っていないとでも言うように。  そのとき、裏口の戸が、きい、と開いた。振り返ると、ハルダさんが立っていた。両手に空の籠を提げて、にっこりと微笑んでいる。 「あら、レンちゃん、ミラちゃん。こんなところで何をしているの」  その声は、朝と同じくやわらかかった。  やわらかいのに、俺は反射的に、ミラの前に半歩出ていた。掌を、後ろ手に隠した。  ハルダさんは、籠を揺らしながら、ゆっくりと俺たちに近づいてくる。足音が、妙に静かだった。昼下がりの乾いた土の上を歩いているのに、草も、小石も、鳴らなかった。  その袖口から、またあの匂いが、ふわりと流れてきた。  湿った土と、鉄と、それから──今朝にはなかった、かすかに甘い、饐えた匂い。誰かの、熱の匂いだった。  シィ、と俺の喉の奥で、小さな声が引きつった。  ハルダさんは、微笑んだまま、俺の顔を覗き込んで言った。 「ねえレンちゃん。夜の見回り、もうやめたほうがいいわ。夜は、ね──いろんなものが、目を覚ますから」

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