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孤児院の地下に泣く子ら

第3話 第3話

第3話

第3話

ハルダさんの言葉は、やわらかな布で首を撫でられるようだった。  目を覚ます、という言葉の「め」のところで、ハルダさんの唇が、ほんの少しだけ長く引き伸ばされた気がした。俺は後ろ手で握った掌に、じわりと汗をかいた。痣が、汗の下で脈を打っている。すぐ近くにいるはずなのに、ハルダさんの足音だけが、世界から切り取られたように鳴らなかった。 「……うん。気をつけるよ、ハルダさん」  俺はそう答えた。答え方は、昨日までの俺と同じにしたつもりだった。少しだけ間の抜けた、年長の子供の声。ミラは俺の背中に隠れるようにして、顔を伏せていた。俺の袖の裾を、彼女の指先がつまんでいた。そのつまむ力が、震えているのがわかった。  ハルダさんは、満足げに頷いた。頷いて、踵を返して、裏口の中へ吸い込まれていった。戸が閉まる寸前、その横顔が、一度だけ俺のほうを振り返った。微笑みは、そのままだった。そのままなのに、口の両端が、頬の肉よりほんの少しだけ、奥まで裂けているように見えた。見間違いだ、と自分に言い聞かせた。見間違いに決まっていた。見間違いでなければ、もう、この家の中に逃げ場はない。 「……レン」  戸が閉まり切ってから、ミラが震える声で俺を呼んだ。 「あたし、ハルダさんに、もう近寄りたくない」 「近寄らなくていい。俺が、話すことがあるときだけ話す」  俺はそう言って、ミラの肩に手を置いた。置いた掌から、青白い痣の熱が、ミラの肩へ逃げていく気がした。ミラがほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

 午後の日差しは薄かった。  俺はトトを呼びに、物置の二階に上がった。トトは同い年の、痩せた体つきの少年で、いつも本を読んでいる。階段の踊り場まで上がったとき、俺は一度立ち止まって、廊下の奥を振り返った。誰もいない。誰もいないのに、板張りの床が、俺の足音と一拍ずれて、ぎしり、と鳴った気がした。足を止めても、板の軋みだけが、俺の後ろから一段階だけ遅れてついてきている。  俺は、階段を駆け上がった。  物置の扉を押し開けると、埃と古い紙の匂いが押し寄せた。舌の奥に、乾いた木屑の味がうっすらと貼りつく。窓辺の光の中で、細かな埃が、水の中の魚の群れみたいにゆっくりと渦を巻いていた。トトが本から顔を上げた。その顔を見たとき、俺はほっとした。トトの目の奥には、ちゃんと光が映っていた。朝のハルダさんの目にはなかった、生きた光だった。 「レン。顔色、悪いぞ」 「トト、物置の戸、内側から閂をかけろ」  俺の声の真剣さに、トトは一瞬だけ眉を寄せ、それから黙って立ち上がった。古い閂が、ごと、と木枠に収まる。その音に、俺はようやく小さく息を吐いた。息を吐いた拍子に、膝の裏がかすかに笑った。自分が思っていたよりもずっと、脚に力が入りすぎていたらしかった。  ミラを座らせ、トトを座らせ、俺は掌を二人の前に開いた。  青白い線は、午前よりも濃くなっていた。窓から差し込む薄い光に透かすと、線の奥のほうで、血の管ともつかない細いものが、とくり、とくり、と脈打っているのが見えた。トトが目を見開いた。本の上をなぞる指の動きで、その痣の輪郭を空中に写し取るように、何度か指先を動かした。 「……これ、教会の古い絵にあった紋様だ。『護りの印』って呼ばれてた」 「古文書か?」 「たぶん。はっきりとは覚えてないけど、見た記憶がある」  トトは、それ以上は軽々しく言わなかった。不確かなことを不確かなままにする子だった。だからこそ、俺はトトを呼んだ。  俺は、昨夜の地下のことを、もう一度話した。  白い六本指のこと。青白い膜のこと。壁に半分だけ埋まっていた弟妹たちの顔のこと。リッカの睫毛が、土の中でも微かに震えていたように見えたこと。話すあいだ、口の中がどんどん乾いて、言葉の終わりのほうで唾を飲み込む音だけがやけに大きく響いた。トトは一度だけ、本の角を強く握った。指の節が、白くなるまで握った。それきり、黙って最後まで聞いた。 「……それで、シィまで倒れたのか」 「四人目だ」 「──信じる」  トトは短く言った。言ってから、それが自分への宣言でもあるみたいに、もう一度、頷いた。頷いたあと、ほんの少しだけ、俺から目を逸らして窓のほうを見た。怖い、と顔には書いていなかったけれど、膝の上で組まれた指が、かすかに震えていた。  ミラが、俯いたまま呟いた。 「あたしね。ゆうべ、夢に出てきたのはリッカじゃなかった気がする」  俺は息を詰める。 「知らないお兄ちゃんだった。あたしよりも、年上の、たぶん。顔は、霧がかかってて見えなかったけど、声だけが、優しくて」  窓の外で、鳥が一羽、鋭く鳴いた。その鳴き声に、三人同時にびくりと肩が動いた。俺たちはお互いの顔を見て、少しだけ笑った。笑ったのに、誰の笑いも頬のところで止まっていた。

 夕方になる前、俺は一人で廊下に出た。  トトとミラを物置に残したまま、俺はもう一度、あの扉の前を確かめておきたかった。シィの熱が進む速さを、ハルダさんの笑みの裂け方を、そして自分の掌の痣の疼きを、全部ひとまとめにして、俺の中で「もう待てない」という形に固まりつつあった。  廊下の角を曲がったところで、俺は足を止めた。  地下倉庫の扉の前に、ミラが立っていた。  さっきまで、物置で俺とトトと一緒にいたはずのミラが。  背中を向けて、両手をだらりと下げて、扉に向かって立ち尽くしていた。栗色の髪が、結んでいた紐から半分ほどこぼれて、肩に垂れていた。廊下にはまだ明るさがあるのに、ミラの立っている場所だけ、足元から薄い影が染み出していた。 「ミラ」  呼んでも、返事がなかった。 「ミラ、戻るんだ」  俺の声は、届いているはずだった。それなのに、ミラの肩は、こちらを振り返らなかった。代わりに、扉の隙間が、音もなく広がっていった。昨夜と、同じ広がり方だった。  その隙間から、細長いものが、ぬるりと伸びた。  最初は、布切れかと思った。黒い、薄い、煤けた布。それが風もないのに、ミラの肩口のほうへ、吸い寄せられるように伸びていく。伸びきった先で、布は関節のない腕の形になった。指は、六本あった。昨夜の、白い手とは違う。黒く、湿った、蛇の腹みたいな光を帯びた腕だった。  その指が、ミラの首筋に触れようとしていた。 「──ミラッ!」  俺は走った。廊下の板が、足の裏を叩く。痣が、掌の中で一気に熱を持った。昨夜の何倍もの熱だった。走りながら、俺はミラの肩を突き飛ばした。小さな体が、廊下の壁のほうへ倒れ込む。それと同時に、黒い腕は俺の喉元へ軌道を変えた。  俺は、右の掌を突き出した。  考えるより先に、心の奥が叫んでいた。──守れ。  掌から、青白い光が、夜明けの空みたいに弾けた。  光は今度、膜一枚ではなかった。幾重にも層を成した、薄氷の花のような広がり方をした。俺の前に半球の壁が立ち、黒い腕は壁に触れた瞬間、みしり、と音を立てて凍り、灰色の粉になって崩れた。粉は床に落ちる前に溶けた。昨夜と同じだ。痕跡を、この世界に残すまいとするみたいに。  膜が消える一瞬、その青白い残光が、扉の奥を舐めるように照らした。  見えた。  壁の中の顔が、昨夜より増えていた。新しく埋まりかけているのは、シィだった。まだ半分は廊下側に顔を出していて、閉じた瞼がかすかに震えていた。その隣に、リッカがいた。トウマがいた。ネネがいた。そして、彼らの頭上、暗がりの奥のほうで、もう一人、見たことのない少年の輪郭が、ぼんやりと、こちらを見ていた。  少年の唇が、動いた気がした。声は聞こえなかった。ただ、形だけが、俺の知っている言葉の形をしていた。  ──たすけて。  膜が消え、廊下は元の薄暗がりに戻る。

 ミラが、壁際にへたりこんでいた。俺はそちらへ駆け寄り、その肩を支える。ミラの瞳が、ゆっくりと焦点を取り戻した。 「……レン。あたし、歩いてた。物置にいたはずなのに、気がついたらここにいて、扉のほうに」 「わかってる」  俺はミラの震える手を、自分の掌で包んだ。痣の熱が、ミラの指先までじんわりと伝わった。ミラの唇から、小さな息が漏れた。  扉は、いつのまにか閉まっていた。閉まっているのに、俺の耳の奥には、奥のほうからの、ごく微かな呼吸の音が、まだ残っていた。シィの熱い頬を思い出した。もう、朝までは待てない。

 廊下の角から、足音が近づいてきた。  トトだった。本を胸に抱えたまま、息を切らして、俺たちのほうへ走ってくる。 「レン、ミラ、無事か……っ」  トトの足が、俺の前で止まった。その視線が、俺の掌に釘づけになる。青白い光は、もう消えている。けれど痣は、いままでで一番、深く、濃く、皮膚の下に刻まれていた。  トトが、乾いた唇でつぶやいた。 「──紋様、広がってる」  俺は、自分の右手を見下ろした。  痣は、掌の中央から、指の付け根のほうへ、細い線を伸ばし始めていた。まるで、何かの地図が、内側から書き足されていくように。  夜が、すぐそこまで来ていた。

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