第1話
第1話
北の峰々の向こうから、冷たい夜風がひと息、古びた館の屋根を撫でていった。 辺境伯領の外れ、エルフェリア子爵家の領館は、いにしえの石を積み重ねた小さな城砦のような佇まいをしている。苔むした壁には大陸教の紋章が風雨に磨かれて薄く残り、正面の石階段の脇には、名も忘れられた古い神々の石像が半ば崩れたまま佇んでいた。夜半を過ぎ、館の窓という窓が黒く沈んでも、屋根裏部屋の小さな天窓だけは、細く開け放たれたままだった。 その天窓の下に、ひとりの少女が膝を抱えて座っていた。 リリアーナ・エルフェリア──十にもならぬ齢の子爵令嬢。月明かりが彼女の銀に近い淡い髪を梳き、継ぎの当たった麻の寝衣の肩を白く縁取っている。細い指先が、古びた毛布の端をぎゅっと握りしめていた。毛布は幾度も繕われ、縫い目のあちこちが色褪せた糸で段違いになっている。指先の爪は短く、薪運びで割れた部分がささくれ立っていた。 天窓の向こうには、星があった。数えきれぬほどの、冷たく澄んだ星が。星々は瞬きもせず、ただ無言で少女を見下ろしていた。 「……どうして、わたくしはここにいるのでしょう」 声は夜気に溶けて消えていく。誰に問うわけでもない、答えを期待したわけでもない。ただ、その問いだけが、もう何百夜、この屋根裏で繰り返されていた。問いを発するたび、胸の奥の小さな灯火がわずかに揺れ、それから静かに元の位置へ戻る。泣くことは、もうとうに忘れていた。涙は贅沢品だと、いつからか自分に言い聞かせるようになっていた。 屋根裏は狭く、背の高い者なら梁に頭をぶつけるほどだ。冬になれば石の隙間から雪片が舞い込み、夏には藁屋根に籠もる熱が息苦しい。鼠の足音と、階下から漏れ聞こえる母娘の笑い声。それがリリアーナの夜のすべてだった。梁の陰には、彼女が幼い頃に母の形見として隠した、小さな木彫りの小鳥がひとつ。羽の先が欠け、彩色はほとんど剥げていたが、リリアーナはそれに触れるたび、顔も覚えていない実母の声を探すような気持ちになった。
夜明け前、鶏が鳴くより先に、屋根裏の扉がぞんざいに叩かれた。 「起きなさい、のろま。井戸の水が切れているわ」 小間使いのリタの声だ。もっとも、本来ならリタはリリアーナに仕えるべき者であって、叩き起こす立場の者ではない。 リリアーナは無言で身を起こした。痩せた肩に粗い麻布の上衣をまとい、擦り切れた革紐の草鞋を履く。階段を下りるたび、踵の傷がじくりと痛んだ。昨日、裏庭の棘を踏み抜いた傷だ。石段は冷たく、裸の踝を伝って寒さが背筋まで這い上がってくる。手すりはとうに失われ、壁に指を滑らせながら、暗がりの段数を数えて下りるのが習いになっていた。壁の漆喰はところどころ剥がれ落ち、指先にざらりとした感触と、わずかに湿った黴の匂いを残していった。 厨房の裏戸を押し開けると、夜明け前の青い靄が庭を覆っていた。遠い森の方角から、湿った土と獣の匂いが流れてくる。彼女はふと足を止め、息を殺した。 ──魔物の気配。 村の老猟師たちが口にする言葉を、リリアーナは幾度となく耳にしていた。近ごろ森の奥が騒がしいと。夜半に獣ならぬ獣の咆哮が谷を渡ってくると。子爵家の薄い結界はもう長いこと補修もされず、夜風にほろほろと綻んでいる。結界石の頂に灯るはずの青い燐光も、半分以上が消えて久しい。残った燐光も、まるで息切れした蛍のように、ひとつ、またひとつと瞬きを弱めているのが、薄闇の向こうに見てとれた。 それでも館の主と夫人は、舞踏会用の絹を王都から取り寄せることに余念がなかった。 井戸に吊るした桶を引き上げる。縄は掌に食い込み、冷気で痺れた指がじんと痛んだ。水面に映った自分の顔を、リリアーナはしばし見つめた。痩せた頬、落ちくぼんだ目、けれどその瞳の色──淡く透き通った銀灰色だけが、どこか不釣り合いに澄んでいる。 「落ちこぼれの目、ね」 継母の言葉が耳の奥で蘇る。魔力測定で「視るに値せず」と断じられた日から、この目を誰も褒めはしなかった。むしろ薄気味悪がられ、視線を伏せるよう躾けられた。床を見て歩け、人の目を見るな、お前の目は人を不快にさせる──そう繰り返された幼い日々が、いまも瞼の裏に染みついている。 桶の水に、星の名残がひとつ、まだ揺れていた。その一粒の光を、リリアーナは指先でそっとすくい取ろうとして、やめた。触れてしまえば、消えてしまう気がしたから。代わりに、唇をほんの少しだけ動かして、声にならない祈りを水面に落とした。誰に宛てたものでもない、ただ「いつか」という、それだけの祈りだった。
朝食の席──と呼ぶにはあまりに一方的な食卓で、リリアーナの分の皿は用意されなかった。卓の向こうでは、継母ジゼルが銀のフォークでゆっくりとパイを切り分け、その隣で異母姉セシリアが高い声で笑っていた。焼きたてのパイの匂いと、煮詰めた果実の甘い香りが、空腹の胃をきりきりと締めつける。リリアーナは意識して、鼻から息を吸わぬようにした。それでも匂いは口の奥にまで忍び込み、唾液が溢れそうになる喉を、彼女はこくりと一度だけ飲み下した。 「ねえ、お母さま。来月の王都の夜会、あの銀の刺繍の服でまいりましょう。わたくしの魔力の輝きに合わせて仕立てさせたのですもの」 「ええ、ええ。あなたの魔力は子爵家の誉れよ、セシリア」 継母の声は蜜のように甘い。その蜜は、卓の端に立つリリアーナには決して注がれない。リリアーナはただ、祭壇の壁際に控え、二人の食事が終わるのを待った。手の中には、朝のうちに薬草園から摘んできた白樺の若芽。昼までに薬師の老婆に届けねばならない。若芽の香りは青く、わずかに苦く、ふしぎと心を落ち着かせてくれた。掌の中でそっと茎を撫でると、かすかに湿った樹液がにじみ、指先に透きとおった緑の匂いを残した。 ふと、壁の祭壇に目をやる。 大陸教の女神像。その膝のあたりに、薄い黒い染みのようなものが、ゆっくりと滲んでいた。昨日より、確かに広がっている。染みはまるで生き物の呼吸のように、かすかに脈打っているようにも見えた。 ──なに、あれは。 胸の奥が、ちりり、と痛んだ。気づいてはならぬものを見てしまった気がして、リリアーナは慌てて目を伏せた。けれど瞼の裏に、その黒い染みは焼きつけられて離れなかった。染みの輪郭は、なぜか、あの古井戸の底の方角を指しているように思えた。指し示す、というより、引き寄せられている、と言ったほうが近いかもしれない。女神の足元から、細く細く、見えない糸が北の庭へと伸びている──そんな幻覚を、リリアーナは一瞬だけ見た気がした。糸は彼女自身の胸のあたりにも、ひそやかに触れているような気がして、思わず空いた手で寝衣の胸元をきつく握りしめた。
その午後、異母姉セシリアは妙に機嫌が良かった。 薬草籠を抱えて戻ったリリアーナを裏庭で待ち伏せ、薔薇の茂みの陰から袖を引いた。袖を掴む指は細く白く、けれど爪の先だけが妙に強く食い込んでいた。 「ねえ、リリアーナ。いいものを見せてあげる。裏庭の古井戸の、底のほうにね」 セシリアの瞳が、普段の嘲りとは違う熱を帯びていた。リリアーナは胸の奥がひやりとするのを感じたが、口元には何も浮かべなかった。ただ黙って、姉の指す方へ足を向けた。逆らえば何倍もの罰が降ってくることを、この身体は知りすぎていた。 古井戸は、館の最も北の、忘れられた石畳の果てにあった。もう長いこと水を汲む者はなく、蓋の木も朽ち、縁の石には蔦が絡みついている。風はそこだけぴたりと止み、鳥の声も遠ざかっていた。リリアーナが覗き込むと、闇は底知れぬほど深く、乾いた冷気がひたりと頬に触れた。井戸の奥からは、古い石と、それから何か甘く腐ったような、嗅いだことのない匂いがかすかに立ちのぼってくる。喉の奥にまとわりつくようなその匂いは、嗅ぐほどに懐かしいような、けれど決して思い出してはならぬような、奇妙な二重の感覚を彼女の胸に残した。 その奥から──ごく微かに、銀色の、光の粒のようなものが、ひと筋立ち昇った気がした。 リリアーナは息を呑んだ。誰にも見えぬはずのそれが、なぜか彼女の瞳にだけ、確かに映った。光の粒は螺旋を描きながらゆるやかに昇り、彼女の睫毛のすぐ先で、ふっと溶けるように消えた。消える瞬間、耳の奥で、鈴を振るような小さな音が鳴った気がした。その音は、幼い日に一度だけ聞いた実母の子守唄の、最後の一音によく似ていた。 背後で、姉の衣擦れの音がした。そして、細い両の手が、小さな背中に触れた。手のひらは冷たく、そして、ためらいがなかった。 明日は、リリアーナの十歳の誕生日だった。