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銀の観測者、屋根裏の令嬢

第2話 第2話

第2話

第2話

小さな背中に触れたあの冷たい手のひらの感触が、いつの間にか消えていた。  気がつくと、リリアーナは古井戸のすぐ手前で立ち尽くしていた。姉セシリアは薔薇の茂みの向こうへと姿を消し、熱を帯びた瞳の残像だけが、午後の薄い陽光の中にうっすらと揺れている。背に触れた手は、ほんの戯れのつもりであったのか、それとも──その答えを、リリアーナはまだ知らぬふりをすることにした。知ってしまえば、明日の誕生日がいよいよ何か別のものに変わってしまう気がしたから。  井戸の底の闇は、ふたたび固く口を閉ざしていた。先ほど確かに見えた銀色の光の粒は、まるで幻であったかのように、どこにも残っていない。ただ、石の縁に絡む蔦の葉だけが、風もないのにかすかに震えていた。  リリアーナは薬草籠を抱え直し、ゆっくりと踵を返した。石畳の継ぎ目に、昨日の雨の残りが薄く溜まっている。足袋ならぬ素足の草鞋が、ぴちゃり、と小さな音を立てた。その音が、なぜか耳にやけに大きく響いた。振り返れば、井戸はもう、夕暮れ前の青い影の中にすっぽりと沈んでいる。  ──明日で、十になる。  胸の奥で、乾いた音が鳴った気がした。十という齢は、この大陸では大人と子の境にある小さな節目だ。貴族の子であれば、領の社に詣で、祖霊に己の名を告げ、魔力の証を神前に捧げる。けれどリリアーナには、社に連れていかれる予定も、祝いの席も、仕立ての新しい衣も、何ひとつ用意されていなかった。

 厨房の裏戸をくぐると、竈の残り火のほのかな赤が、煤けた壁をぼんやりと照らしていた。老いた薬師の婆が、薪を組み直しながらこちらを一瞥する。婆はいつもどおり、何も言わなかった。ただ、鍋の縁に削った黒パンの耳をひときれ、ことりと置いてくれた。 「……ありがとう存じます」  リリアーナは深く頭を下げ、黒パンを両手で受け取った。わずかに湿り、かすかに酸味の残るその一片を、彼女は竈の陰に屈みこみ、ゆっくりと口に運んだ。噛むたびに、こわばっていた顎の奥がじんと痺れた。空腹は、食べてはじめてそれと気づく種類のものになっていた。  竈の前で、ふと、六つの頃の記憶が瞼の裏に立ち上がった。  ──あれは、春先のことだった。王都から遣わされた魔導省の測定士が、大きな革張りの鞄を抱えてこの子爵家を訪れた日。朝から館じゅうが、妙にひりついた匂いに満ちていた。磨き上げられたばかりの大理石の床は、銀燭台の灯を映して湖のようになめらかで、召使いたちは普段の倍の速さで廊下を行き交い、厨房からは黒砂糖と丁子を煮詰めた甘い湯気が、絶え間なく立ちのぼっていた。広間の中央に据えられた水晶球は、卓ほどの高さもあり、内側に七色の脈がゆっくりと巡っていた。覗きこめば、脈の奥にさらに小さな火花が瞬き、耳を澄ませれば、遠い鐘のようなかすかな唸りが聞こえる気がした。幼いリリアーナは、その唸りを聞きたくて、無意識に爪先立ちになっていた。異母姉セシリアが真っ先に手を置くと、水晶は鈴を振るような澄んだ音を立てて青く輝き、広間の空気がほんのひと呼吸、明るく膨らんだ。立ち会った者みなが感嘆の声を漏らし、年かさの家令までがそっと目頭を押さえた。 「まことに子爵家の誉れにございます。お嬢さまの魔力は、王都の学院でも上位に数えられましょう」  測定士の白い口髭が、満足げに揺れた。継母ジゼルは頬を赤らめ、セシリアの肩を抱き寄せた。扇の陰から、ちらりと幼いリリアーナを見る視線だけが、氷のように冷たかった。その冷たさの奥に、ほんのわずか、期待に似た何かが揺れていたのを、リリアーナは今でも覚えている。──もしかしたら、この子もまた。その「もしかしたら」が、あとの落胆をいっそう深くしたことも。  やがて順が回り、小さな掌が水晶に触れた。掌はひんやりとした硝子の丸みを感じ、指先がわずかに汗ばんだ。心の臓が、耳のすぐうしろで鳴っていた。  ──水晶は、鳴らなかった。  一度も。  七色の脈は申し訳程度に揺らぎ、すぐに元の淀みへと戻っていった。広間の誰もが、息を詰めたまま次の瞬間を待ち、そして、待ったぶんだけの沈黙が床に落ちた。測定士は眉根を寄せ、何度か水晶を撫でたあげく、ぽつりと呟いた。「視るに値せず、にございますな」と。その一言が、まるで烙印のように、幼い胸のあわいに深く押し当てられた。熱さも痛みも、そのときは感じなかった。ただ、広間の蝋燭の灯りだけが、やけに遠くに見えたのを覚えている。高い天井の漆喰の模様が、ぐにゃりと歪んで滲み、耳の奥では、鳴るはずだった鈴の音を探すように、自分の鼓動だけがやけに大きく鳴り続けていた。  継母は長い沈黙のあと、ひとつ息を吐いた。憐れみではなく、むしろ安堵に似たため息だった。その吐息の温度を、リリアーナは今でも掌で触れられそうに思い出せる。──ああ、この子は脅威ではない、と、そのため息は語っていた。その日から、リリアーナの部屋は屋根裏に移され、寝衣は麻布に替わり、皿は卓から消えた。薬草摘みと水汲みと、薪割りと、黴の生えた床磨き。それが六つの齢から積み重ねられてきた、彼女の「日課」というものだった。  掌の黒パンを、リリアーナはもう一口、小さく齧った。口の中で、酸味と黴の匂いが、ふしぎと薬草の青さに似て感じられた。咀嚼のたび、記憶の中の水晶球の沈黙と、厨房の竈のぱちりという爆ぜる音とが、胸の奥でそっと重なっていく。鳴らなかったもの。鳴っているもの。その境目は、思っていたほどはっきりしていないのかもしれない、と、ふと思った。

 日が傾き、館の影が長く庭に伸びる頃、リリアーナは裏庭の薬草畑に屈みこんでいた。薄荷、蓬、白樺の若芽、そしていにしえの薬師たちが「夜露草」と呼んだ、月の光を浴びて初めて芽吹く銀色の葉。老婆が明朝までに揃えよと言いつけたのは、その夜露草だった。  指先で葉を摘むとき、リリアーナはふと、掌の内側に薄く走る脈のようなものを感じた。血の脈ではない。もっと細く、もっと透き通った、何か──糸のようなものが、掌の皮膚の下で、ひとすじ、またひとすじと、静かに蠢いている気がした。気のせいだと思いたかったが、気のせいにしては、その蠢きは妙にはっきりとした律動を持っていた。まるで、眠っていた何かが寝返りを打ったかのような。夜露草の葉の裏に指を添えると、糸の律動がほんのわずかに速まり、葉の銀色が、指の熱に応えるように淡くにじんだ。  顔を上げると、館の屋根の向こうに、細い月がかかっていた。昼の月だ。青白く、薄い雲に半ば隠れている。その月を見つめていたら、胸の奥のあの灯火が、昨夜よりほんの少しだけ、熱を帯びたように思えた。呼吸を深く吸いこむと、夕風に混じった土と草の匂いの奥に、ほんのかすかに、雨上がりの鉄のような香が漂っている気がした。  そのときだった。 「あら、こんなところで油を売っていたの、落ちこぼれ」  声に振り向けば、セシリアが薬草畑のあぜ道に立っていた。白絹の裾を指先でつまみ上げ、唇には夕陽を吸い込んだような赤い笑みを浮かべている。その笑みは、昼間に背に触れてきたときの熱を、そのまま唇のかたちに写し取ったかのようだった。背後には、小間使いのリタが、なにやら白い包みを抱えて控えていた。リタの目は伏せられ、包みを抱く腕には、隠しきれぬ強張りがあった。 「明日はあなたの誕生日ですものね。お母さまとわたくしで、ちゃんとお祝いを考えて差し上げましたの」  セシリアは包みをちらりと見遣り、それから、夜露草を握るリリアーナの手元へと視線を落とした。その眼差しは、銀色の葉よりも、葉を握る指の震えのほうを見ているようだった。 「明日の朝、夜明けと共に、裏庭の古井戸のところへいらっしゃい。あなたへの贈り物は、あそこに用意してあるのよ」  語尾が、ほんのわずかに甘く伸びた。優しい姉の声音を真似た、けれど真似きれぬ、硬い甘さだった。井戸、という一語が、午後に見た銀色の光の粒の残像を、瞼の裏に呼び戻した。リリアーナは俯いたまま、小さく頷いた。頷く以外に、許されたことはなかった。喉の奥に、問いたい言葉がいくつも引っかかっていたが、それらはみな、黒パンの酸味と一緒に、胃の底へ静かに落ちていった。  セシリアの足音が遠ざかったあと、彼女はもう一度、掌を開いた。夜露草の銀色の葉が、夕闇の中で、わずかに発光しているように見えた。  その微かな光の奥で、胸の灯火がひとつ、はっきりと鳴った──まるで、遠い昔に誰かが鳴らした鈴に、応えるように。  明日、自分はあの古井戸の縁に立つ。そしておそらく、もう二度と、今日と同じ自分のまま屋根裏へ帰ることはない。どうしてそう思ったのか、リリアーナには分からなかった。ただ、掌の下で蠢く細い糸たちが、夜に向かって、少しずつ撚り合わさっていく音が、かすかに聞こえた気がした。

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