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銀の観測者、屋根裏の令嬢

第3話 第3話

第3話

第3話

朝は、いつもより早く訪れた。  いや、正しくは──リリアーナが、夜のうちにほとんど眠れなかったのだ。屋根裏の藁布団の上で幾度も寝返りを打ち、天窓から差し込む星明かりを数え、また数え直し、それでも眠気はついに来なかった。掌の下で蠢く細い糸たちは、夜が更けるにつれ、いよいよその律動を強めていくようだった。耳を澄ませば、糸の一本一本が、遠い鈴の音に呼応して、ひそやかに撚り合わさっていく音が聞こえる気がした。撚り合わされた糸の先が、どこへ続いているのか──それを思うたび、胸の奥の灯火が、今にも言葉になりそうな熱を帯びた。  鶏が鳴く前、東の空のふちがほんのわずか灰色に染まりかけた頃、リリアーナは静かに身を起こした。継ぎの当たった麻の寝衣の上に、擦り切れた上衣をまとい、梁の陰からあの小さな木彫りの小鳥を取り出す。羽の欠けた鳥を、しばしの間、両の掌で包むように握りしめた。掌の温もりが木肌に伝わり、木肌の冷たさが掌に返ってくる。そのささやかな往復だけが、今の彼女にとって唯一の、確かな応答だった。 「……行ってまいります、母さま」  声は誰にも届かぬ小ささで、屋根裏の薄闇に溶けた。鳥をもとの梁の陰にそっと戻し、リリアーナは階段を下りはじめた。踵の傷はまだ痛んだ。けれど、その痛みが、いまの自分をこの身体に繋ぎとめてくれているようでもあった。壁に指を滑らせながら数える段数は、今日は妙にゆっくりと減っていった。

 裏庭の石畳は、夜露に濡れて鈍く光っていた。夜明け前の青い靄が、薬草畑と薔薇の茂みの輪郭をやわらかく溶かし、館の影を遠くへ押しやっている。古井戸はその靄のなかに、ひとつだけ黒い穴のように、くっきりと沈んで見えた。  井戸のほとりには、すでにセシリアが立っていた。  朝露を避けるためか、白い毛皮の肩掛けを羽織り、濃藍のドレスの裾を片手でつまみ上げている。昨日の午後とは違う、妙に落ち着いた佇まい。けれどその落ち着きは、獣が跳ぶ前のひと呼吸に似ていた。隣には、包みを抱えた小間使いのリタの姿はなかった。ただ姉ひとりが、井戸の縁に片手を置いて、こちらを待っていた。 「来たのね、リリアーナ」  呼ぶ声は、今朝はやけに優しかった。優しすぎて、耳の奥が逆にひやりとした。普段は命じるときすら斜めに投げつけられる言葉が、今日はまっすぐ、丁寧に差し出されてくる。その丁寧さが、かえって何かを覆い隠すための布のように思えた。 「お祝いを言わなくては。十の誕生日、おめでとう」  セシリアは唇の端だけで微笑み、白い指で井戸の縁を軽く叩いた。その音は、石と石のあいだにこもった空気を打ち、井戸の奥までひそやかに落ちていくように聞こえた。指先の爪は夜明けの光の下でも艶やかに磨かれ、ひとつだけ、薬指の爪の際に、ごく小さな赤い引っ掻き傷が覗いていた。誰の肌を引っ掻いた跡なのか、あるいは自分の掌を握りしめすぎたせいなのか、それはリリアーナには分からなかった。 「贈り物は、この下にあるの。……あなたにしか、受け取れないものよ」  その声の「あなたにしか」という一語だけが、ほんのわずか、掠れていた。掠れの奥に、姉自身も飲み込みかねている何かがあるような気がした。  リリアーナは黙って井戸に近づいた。石畳の冷たさが、破れた靴底ごしにじわりと踵まで這い上がってくる。近づくほどに、あの甘く腐ったような匂いが、喉の奥を撫でた。昨日よりも、ずっと濃い。花が盛りを過ぎて崩れるときの、蜜と腐敗が紙一重で混ざり合うあの匂いだった。匂いの奥から、かすかに、ごく微かに、鈴に似た音が上ってくる気がした。──音は、自分を呼んでいる。それが、贈り物の正体かもしれぬ、と一瞬だけ思った。姉がこれを知って呼んだのか、知らずに呼んだのか、そのどちらであっても、この井戸は自分に何かを差し出そうとしている。  井戸の縁に手をかけ、覗き込もうとしたそのとき。 「覗かなくていいのよ」  すぐ耳元で、セシリアの声がした。  熱くも冷たくもない、ただ、ためらいだけが綺麗に削ぎ落とされた声。肩に、細い両の手が触れた。昨日と同じ、爪の先だけが妙に強く食い込む手だった。薄い上衣ごしに伝わる姉の掌は、意外なほどに湿っていて、微かに震えていた。震えを隠そうとするかのように、指先だけがいっそう強く肩先に食い込んだ。  ──ああ。  短い、けれど澄んだ納得が、胸の奥を通り抜けていった。恐怖よりも先に来たのは、奇妙なほど静かな諦めと、それに続く、ごく小さな安堵に似た何かだった。もう、知らぬふりをしなくていい。姉の手の意味も、昨日背に触れた手のひらの冷たさの意味も、朝ごとに継母の目が自分の首筋を素通りしていった、あの視線の角度の意味も。  視線を上げ、ほんの一瞬、セシリアの瞳を真っ直ぐに見た。誰にも見るなと躾けられてきた、淡い銀灰色の目で。  セシリアが、はっと息を呑むのが分かった。その呑んだ息の奥に、ほんのわずか、幼い怯えに似たものが揺れた気がした。ずっと昔、まだ二人が庭で同じ毬を追いかけていた頃──そんな頃が本当にあったのかさえ今は曖昧だが──あの頃の姉が一度だけ見せた、雷鳴に怯える横顔が、そこに薄く重なって見えた。姉もまた、何かに追い立てられているのかもしれぬ──そんな思いが、頭の片隅をかすめる。けれど、それを確かめる時間は、もう残されていなかった。

 背中を押す力は、意外なほど軽かった。  それでも、井戸の縁に足を取られた小さな身体を、闇の底へ落とすには十分だった。靄を裂いて、朝の空気が一瞬、頬を強く打った。肩掛けの裾が翻り、継ぎの当たった上衣が風をはらみ、背に触れていた手の感触が離れた。離れた手のひらが、ほんのわずかに震えていたのを、リリアーナは落下のさなかに感じ取った。  ──ああ、姉さまも、ふるえていたのね。  その気づきは、なぜか彼女の胸にひとしずくの憐れみを落とした。憐れみは、恨みよりも、ずっと重たい感情であることを、落下の途上で初めて知った。  闇が下から迫り上がってきた。石壁のざらつきが、掌をかすめて過ぎていく。匂いはいよいよ濃くなり、鈴の音はもはや耳の奥ではなく、身体の内側から響いてくる。髪が逆立ち、寝衣の裾が花のひらくように広がった。見上げれば、井戸の口は小さな円になり、夜明け前の藍色の空と、そこに覗くセシリアの白い顔が、みるみる遠ざかっていく。姉は、落ちていく妹を見届けようともせず、すでに顔を背けていた。白い肩だけが、円の縁にかすかに覗いていた。  痛みは、意外に鈍かった。背と腰と、右の肩と──それらがほとんど同時に、苔むした石の底に打ちつけられた。呼吸が一度、完全に止まった。次に吸おうとした息は、冷たく湿った空気に変わり、胸の奥まで届く前に咳となってこぼれた。咳のたびに、右の肩の奥で鈍い熱が散った。指先を動かそうとすると、遠くのほうで応えがあった。遠く──自分の身体のはずなのに、やけに遠く。指先の感覚は、まるで長い廊下の向こうで誰かが自分の代わりに手を握ったり開いたりしているかのようで、その誰かと自分とを繋ぐ糸だけが、胸の奥からまっすぐに伸びているのが感じられた。  頭上の円は、もう針の先ほどの明るさしか残していない。その針の先に、朝の最初の光がひとしずく、きらりと宿った。そのひとしずくは、遠い日の母の指輪に嵌まっていた小さな石の輝きに、ひどくよく似ていた。  意識が薄れていく。けれど不思議と、恐ろしくはなかった。  胸の奥の灯火が、今はっきりと形を変えはじめている。小さな炎だったものが、細い銀の筋となって、身体の内側をひと巡りし、また元の場所へ戻ってくる。そのたびに、掌の下で眠っていた糸たちが、一本ずつ、静かに目を覚ましていく。目覚めた糸は、かすかな振動を伴って、肩の奥の熱をすくい取り、腰の痛みをほどき、止まりかけた呼吸のふちを、やわらかく押し広げていった。  ──鳴る。  鳴らなかったはずの鈴が、身体の奥で、確かに鳴りはじめていた。ひとつ、ふたつ、みっつ。鈴の音は、幼い日の広間の沈黙を、音のないまま裏返しにしていくようだった。遠い水晶球が鳴らなかったのは、きっと、鈴の音の種類が違ったからなのだ、と、薄れていく意識の端で、リリアーナは不意に得心した。測定士の白い口髭も、継母の安堵のため息も、この鈴の音には、はじめから届かぬものだったのだ。届かぬはずのものを、恥じる必要も、詫びる必要も、もうどこにもなかった。  苔の冷たさが、頬に触れた。  瞼が、重たく下りていく。  その最後のひと瞬き、石壁の奥から、見知らぬ誰かの声が、ひどく懐かしい響きで、彼女の名を呼んだ気がした。  ──リリアーナ。いや、もうひとつの、うんと古い名を。  その名を、彼女はまだ思い出せない。けれど、名を呼ばれたという感触だけが、銀の筋に沿って、胸の奥深くへ、ゆっくりと落ちていった。井戸の底で、十歳になったばかりの少女の唇が、答えるように、音のない一語を形作った。

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