第3話
第3話
犬の吠え声が、土間の暗がりを一瞬で押し広げた。
ただ一声、それきりだった。吠え終えた犬は、戸口に四肢を突っ張ったまま動かない。牙を剥いているわけでもない。ただ、床板の一点を見据えて、喉の奥で唸りとも呼吸ともつかない音を絞り出している。 俺は押さえつけていた掌を、ゆっくりと板から離した。離した瞬間、掌の形だけが、板の上にうっすらと汗の痕として残った。汗は、夕暮れの冷気にすぐに吸い込まれていく。吸い込まれて消えるまでの間、俺はその白っぽい輪郭を見つめていた。見つめていれば、その下で何かが動き出すのを、少しだけ遅らせられる気がした。 竈の灰の上の、一歩分の足跡。 爪先の形が、朝に森の細道で見たものと、寸分たがわない。違うのは、それが今、俺の家の中にあるということだけだった。 俺は立ち上がって、戸の閂を下ろした。木と木がかみ合う音が、やけに大きく響いた。響いてから、気づいた。この家の土間は、俺の声を吸い込むのに、閂の音だけはきちんと返すのだと。まるで、返すべき音と、返してはならない音を、家そのものが選り分けているようだった。 外に残した犬を、俺は名前のない声で呼んだ。犬は一瞬だけ俺を見上げ、それから尻尾を下げたまま、家の中には入らず、戸口の外側に丸くなった。入らないのではなく、入れないのだと、俺には分かった。夜のこの家は、犬の本能が「ここは屋外より危うい」と告げる場所になっていた。 窓の外では、東の空からゆっくりと月が昇りはじめていた。満ちている。完全に、満ちている。越してきた日に村の暦を見た記憶が、遅れて俺の頭に降りてきた。──今夜が、満月だった。
夜半、俺は眠れなかった。 寝台に横たわったまま、天井の梁の影が月明かりでゆっくり動いていくのを、目で追っていた。影は、梁の節目にさしかかるたびに、ほんのわずかに形を歪めた。歪んで、また元に戻る。その繰り返しを見ていると、自分が今、どの世の、どの夜に寝ているのかが、少しずつ分からなくなっていった。前世の天幕の中で見上げた、獣脂灯の煤で黒ずんだ天井。処刑を待つ独房の、石の天井。そして今、この、丸太を渡しただけの百姓家の天井。三つの天井が、月の動きに合わせて重なっては、ずれていく。 家の中は静かだ。静かすぎた。床下から、あの息のような冷気はもう立ちのぼってこない。立ちのぼってこない、ということが、かえって落ち着かなかった。何かが息を止めて、こちらの様子を窺っているときの静けさに似ていた。耳の奥が、しんと痺れるほどに張り詰めていた。自分の心音だけが、胸の内側で、やけにゆっくりと、他人のもののように鳴っていた。 犬が、戸の外で一度、小さく吠えた。 一声。そしてまた一声。次第に、声のあいだが短くなっていく。それは遠吠えではなく、何かに向かって警告を発する、鋭い吠え方だった。方角が、裏手の方へ移っていく。鶏小屋の方だ。 俺は寝台から跳ね起きた。 跳ね起きて、一瞬、動きを止めた。前世の癖で、腰に手が伸びていた。そこには、今はもう何もない。布しかない夜着の腰を、自分の掌が空しく撫でただけだった。掌が布の上を滑った感触が、ひどく頼りなかった。俺は短く息を吐いて、竈の脇に立てかけていた薪割りの斧を掴んだ。刃ではなく、柄のほうを握り直す。柄の木肌は、昼のあいだに握り込んだ俺の汗をまだ覚えていて、わずかに湿っていた。これは武器ではない、と自分に言い聞かせながら。言い聞かせる声が、頭の奥で、言い聞かせきれずに震えていた。 閂を外す。戸を押す。夜の空気が、刃物のように頬を撫でた。 満月の光が、庭を銀色に塗り替えていた。俺の影が、斧を持ったまま、地面にくっきりと落ちている。影の輪郭の内側だけが、やけに黒い。前世で処刑場の朝に見た、自分の影の黒さを、俺は唐突に思い出した。こめかみの奥が、鈍く疼いた。疼きは、脈打つたびに、耳の裏までじわりと広がっていった。 犬は、鶏小屋の前で低く構えていた。毛を逆立て、鼻梁に皺を寄せている。だが、吠えない。もう、吠えない。吠えることを、途中でやめた顔だった。吠え続けても無駄だと、この犬は知ってしまったのだ。犬の喉が、声にならない音を小さく鳴らした。それは、怯えというよりも、諦めに近い音だった。 鶏小屋の戸が、半分、開いていた。 俺が閉めたはずだった。夕暮れに薪を運ぶ前、俺はこの戸に木の棒を差し込んで、内側から閂の代わりにしていた。その木の棒が、戸の前の土の上に、きれいに折れて落ちている。折れた断面は、新しい。白い木肌が、月明かりの下で乾いた骨のように光っていた。折れ方に、ねじれがなかった。踏み折ったのでも、蹴り折ったのでもない。両手で、端を軽く掴んで、ぱきりと二つに分けた──そういう、ためらいのない折れ方だった。 中に、鶏の気配がない。 三羽いたはずだった。越してきたときに村の市で買った、茶色い雌鶏が三羽。いつもなら夜は藁の上で身を寄せ合って、俺が戸を開ければ喉の奥で低くコ、コ、と鳴くはずだった。 静かだった。藁を踏む音すら、しない。 俺は斧の柄を握り直して、小屋の中を覗き込んだ。月光が、戸の隙間から細く差し込んでいる。その光の帯の中に、散らばった羽が浮かんでいた。茶色の、細かい羽。血は、なかった。血の匂いもない。鶏の羽だけが、主を失って、藁の上に静かに降り積もっていた。まるで、羽だけを残して、中身が空に吸い上げられたかのようだった。 羽の散り方が、おかしかった。 暴れた形ではない。引きずられた形でもない。中央から外側へ、ゆっくりと、手で払いのけたような放射状の散り方だった。誰かが、鶏を片手で摘み上げて、もう片方の手で邪魔な羽だけを払い落とした、そんな散り方だった。払い落とす手つきに、苛立ちはなかった。怒りもなかった。ただ、食卓の屑を掌で払う主婦のように、ごく日常の仕草で、羽だけが落とされていた。その日常めいた静けさが、かえって、俺の背筋を粟立たせた。 俺は、一歩、小屋の中に踏み込んだ。 踏み込んだ爪先が、柔らかい土に沈んだ。 沈んだ土の、すぐ横に、それはあった。
裸足の、足跡だった。 満月の光が、足跡の縁を白く縁取っていた。 朝に見たのと同じ、爪先の形がくっきりと残る深さ。前のめりの体重のかけ方。違うのは、それが一歩ではなかったことだ。小屋の中から外へ、外から井戸の横を通って、家の壁へ。ひとつ、ふたつ、みっつ。俺は斧の柄を握ったまま、足跡を辿って歩いた。歩くたびに、自分の足音が、相手の足跡の脇に並んで刻まれていく。並べてみて、気づいた。俺の足より、ひとまわり、大きい。 足跡は、家の裏手へ回り込んでいた。 裏手の壁には、俺の寝台のちょうど真裏にあたる、小さな窓が一つある。木の鎧戸で閉ざしているが、内側から見上げれば、寝台に横たわった俺の頭が、ちょうどその窓の高さにくる。 足跡は、その窓の真下で、止まっていた。 止まっていた、というのも正確ではない。止まっていたのではなく、──途切れていた。 窓の下の土の上に、四つ、足跡が並んでいた。両足をそろえ、爪先をわずかに壁の方へ向けて、立ち止まった形だった。立ち止まって、それから、次の一歩がなかった。壁の方へ踏み出した跡もない。後ろへ下がった跡もない。横へ逸れた跡もない。 ただ、そこで、立ち止まったまま、消えていた。 俺は、窓の鎧戸を見上げた。 鎧戸の木目の低い位置、ちょうど人の顔の高さに、細い筋があった。指でなぞったような、薄い土の跡だった。触れて、確かめようとして、俺は指を引いた。それは、触れた跡ではなかった。それは、──頬を、押しつけた跡だった。誰かが、この鎧戸の外側に顔を寄せて、板の隙間から、中で眠る俺を覗き込もうとした跡だった。土の筋は、頬骨のあたりから顎にかけて、ゆるやかな弧を描いていた。その弧の内側に、鼻の頭が触れたらしい、ごく小さな丸い窪みまで、はっきりと残っていた。 俺が、眠れずに天井の影を追っていた、そのあいだに。
犬が、俺の足元まで戻ってきていた。 犬の鼻先は、足跡ではなく、俺の腰のあたりを向いていた。正確には、腰の少し下、前世の俺がいつも剣を下げていた位置だった。犬は、そこに、あるはずのないものの気配を嗅ごうとしていた。犬の瞳が、月の光を吸って、底の見えない金色に光っていた。その金色は、俺を見ているのか、俺の腰の「無いもの」を見ているのか、判じがたかった。 月は、まだ落ちない。 俺は、窓の下の足跡の脇に、片膝をついた。爪先の土に、指をそっと当ててみる。まだ、温かかった。体温というほどではない。だが、夜露に冷えた庭の土の中で、そこだけが、ほんのわずかに、人肌の名残を残していた。指先に移ったそのわずかな熱を、俺は確かめるように、親指の腹で何度もこすった。こすっても、熱はすぐには消えなかった。消えないまま、指の皮膚の下に、静かに染み込んでいくようだった。 こめかみの奥で、前世の俺が、今度ははっきりと囁いた。 ──来ている。 俺は立ち上がった。斧の柄を握る指に、初めて、迷いのない力がこもった。家の中の床板の下で息をしていた何かと、鶏小屋の羽を払い落とした裸足と、窓の外から俺の寝顔を覗き込んだ頬。それらが、ひとつの輪郭に結ばれかけている。結ばれかけているのに、まだ、顔がない。 顔がないまま、それは、俺の名前を、もう知っている気がした。