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辺境の亡霊と薪割りの朝

第2話 第2話

第2話

第2話

井戸の滑車の音は、一度きりだった。

それきり、風も、鳥も、何も鳴らなかった。俺は森の奥から目を離せないまま、膝をついた姿勢でしばらく動けずにいた。指先の土は、湿ったまま、俺の体温を少しずつ吸っていく。爪の間に入り込んだ冷たさが、骨の奥までじわりと染みてくる。 犬が、ようやく一歩、後ろへ下がった。 俺もつられて立ち上がる。膝の関節が、妙に大きな音を立てた。 「……帰るか」 声に出してみたが、犬は振り返らない。鼻先はまだ、途切れた足跡の終わりを嗅いでいる。嗅いでは後ずさり、また嗅ぐ。そのたびに、小さく身震いをした。 家までの細道を、俺はいつもより速い歩幅で戻った。速く歩けば追いつかれない、という理屈は、子供の頃から変わらない気休めだ。それでも足は勝手に動く。背後で、枯れ葉を踏む音がしたような気がした。振り返れば、犬が一匹、俺の影を踏んで歩いているだけだった。 家の前まで戻ると、滑車はもう動いていなかった。井戸の縁に置いたままの桶が、朝日を受けて静かに光っている。触れれば冷たいだろうことは、見ただけで分かった。 戸を開ける。土間の暗がりが、昨日までとは違う温度で俺を出迎えた。冷たい。それも、石と土が蓄えた夜の冷たさではない。もっと下の、さらに奥の、土の下から這い上がってくる種類の冷たさだった。 俺は沓を脱がずに、そのまま土間の中央に立った。足裏を通して、床下の気配が伝わってくる。かすかに湿り、かすかに動いている。 犬は、土間には入ってこなかった。戸口に座って、じっと俺を見ている。尻尾は地面に伏せたままだ。

昼過ぎになって、俺はようやく腹の底を落ち着けるため、畑へ出た。 村はずれの斜面に、前の住人が残していった小さな畑がある。雑草に覆われていたのを、越してきた初日からすこしずつ手を入れて、ようやく芋の畝が見えるところまで戻した。鍬を振るう音は、薪を割る音と同じくらい、俺の気持ちを落ち着かせるはずだった。 鍬の刃を土に入れる。ざく、と乾いた音がして、黒い土が裏返る。石と、細い根。普通の畑だ。俺はそう思い込もうとした。 畑の隣、細い石垣の向こうから、しゃがれた女の声がした。 「新しい人。精が出るね」 隣家の老婆だ。名前をまだ覚えていない。越してきた翌朝、軒先に塩の小袋を置いていった人だった。曲がった背を杖で支え、編んだ白髪が肩に垂れている。落ちくぼんだ目の奥に、年寄り特有の曇った優しさと、それとは別の、もっと古い何かが沈んでいた。その「古い何か」は、初対面のときに塩を置いていった手つきと、どこかで繋がっている気がした。厄払いの塩を、黙って置いていく手つきと。 「おかげさまで」 俺は鍬を止めて、軽く頭を下げた。額の汗が、顎先からぽとりと土に落ちた。落ちた場所の土だけが、妙に早く、その雫を吸い込んだ。 老婆は、石垣越しに俺の畑をじっと見ている。見ている、というより、畑の土の下を透かし見ようとしているような、奇妙な視線だった。黒目の動きが、俺の足元より、さらにその下を追っている。 「いい土だねえ。よう肥えとる」 「前の人が、手を入れてたんでしょうか」 何気なく口にした。老婆の杖が、石垣の上で小さく滑った。石と木の擦れる、乾いた音が一度だけ鳴って、すぐに止んだ。 「前の人」 老婆は、その言葉を、一度、口の中で転がした。舌の先で、飴玉の苦味を確かめるような転がし方だった。それから、口の端だけでかすかに笑った。笑い皺が、いつもより深く、目の下まで伸びた。 「前の人はねえ、──よく、畑に出とったよ。夜中にもね」 夜中に、という言葉の置き方が、奇妙に遅かった。まるで、それが冗談であるか本気であるかを、俺の顔色を見て決めようとするような間だった。 「夜中に、畑を?」 「月の明るい晩にね。腰をかがめて、ずうっと何か掘っとった」 何を、と俺が問う前に、老婆は杖の先で自分の耳たぶをひっかいた。爪の先が皮膚を擦る、小さな、けれども妙に生々しい音がした。 「聞いてはいかんよ。聞いちまうと、こっちまで掘りたくなる」 俺は、笑うべきか真に受けるべきか迷って、結局どちらもできなかった。喉の奥で、言葉にならない相槌が一度、潰れた。老婆は笑みを崩さないまま、すっと背を向けた。曲がった背中が、思っていたよりも速く、石垣の向こうへ遠ざかっていく。 「それとね」 老婆は一度だけ、振り返った。 「夜に、床下から声がしてもね、返事をしちゃならんよ。返事をするとね、──あれは、名前を覚えて帰ってくるから」 斜面を、冷たい風がひとすじ、駆け抜けた。畝の上で、芋の葉が裏返って、白い裏側を一斉にさらした。 鍬の柄を握る俺の手の甲に、鳥肌が立った。握り直した柄の木目が、急に硬く、他人の骨のように感じられた。老婆の姿はもう石垣の向こうで小さくなっていた。杖の音が、石を打つ音として二度、三度聞こえて、やがて消えた。 俺は鍬を土に立てたまま、しばらく動けなかった。夜中に畑を掘っていた前の住人。床下から聞こえる声。どちらも、笑い話として聞き流せるはずの話だった。村の老人が、新入りをからかうために言った戯れ言。そう思えばいい。そう思えば、この畑の黒い土も、ただの豊かな土だ。 思えば、いいはずだった。

日が傾きはじめた頃、俺は薪を土間へ運び込もうとして、その手を止めた。 土間の隅、竈のすぐ脇の床板が、わずかに浮いていた。 昨日までは、気づかなかった。いや、気づいていたかもしれない。気づかないふりをしていたかもしれない。板の継ぎ目から、細い、細い筋のように、冷気が立ちのぼっている。朝から俺の背筋を這い上がっていた、あの温度の冷気だった。 薪を置く。俺は膝をついて、その板の上に手を伸ばした。指先が触れる前に、板の下の空気が、ひとりでに、俺の掌を撫でた。撫でた、というよりは、掌の形を下から確かめた、という方が近かった。 下に、空洞がある。 それは、新しい家の床下には、ない種類の気配だった。前世で、古い砦の地下牢を探ったときの、あの空気だ。長い時間、光も風も入らず、誰にも名前を呼ばれなかった場所が溜め込む、濁った沈黙。鉄と土と、ほんのわずかな、甘い匂い。舌の奥に錆の味がひろがるのと同時に、こめかみの奥で、前世の俺が「退け」と短く呟く声が聞こえた気がした。 朝、井戸の底から立ちのぼった鉄錆びの匂いと、同じ甘さだった。 俺は、指先を板の縁にかけた。かけてから、かけたことを後悔した。この板を持ち上げれば、何かが変わる。それは理屈ではなく、背骨の奥にある、前世の俺の勘だった。持ち上げた瞬間から、俺のスローライフは、別の何かに名前を書き換えられる。 それでも、指は離れなかった。離せなかった、と言う方が正しい。板の木目が、指の腹に吸いつくようにして、俺の手を下から引き留めていた。 板は、思っていたよりもずっと軽く、音もなく、数センチだけ持ち上がった。 下から、ふ、と息のような冷気が噴き出した。 ──いや。 息だった。 たしかに、息だった。ゆっくりと、長く、何かが吐き出した息の温度と湿り気が、俺の手首にかかった。脈の上に、生温い薄い膜が張りつくような感触だった。土の匂いではなかった。湿った布の匂い。長く水に浸けたあと、日の当たらない場所で乾ききらずにいた布の匂いだ。そして、その奥に、俺がよく知っているあの鉄錆びの匂いが、ひとすじ。 俺は板を、そっと元に戻した。 戻した、というより、上から押さえつけた、という方が近かった。両掌で押さえて、しばらく動けなかった。掌の下で、板はもう何の気配もない。だが、たしかに今、下で、何かが息をした。息をして、そして、俺がそれに気づいたことを、向こうも気づいた。その確信だけが、掌の奥に、熱い楔のように残っていた。 戸口の犬が、立ち上がって、低く唸った。唸りの向きは、森でもなく、井戸でもなく、俺の手の下──土間の床の、まっすぐ真下だった。

竈の火を落とす頃、俺は村の方角を振り返った。 夕暮れの空に、鍛冶屋の煙が一本だけ立ちのぼっている。ドルフの炉の煙だ。遠く、犬の吠え声がひとつ聞こえた。うちの犬ではない。どこか、村の中心の方。 俺は、土間の床板の上に、重い水瓶を移して置いた。理屈ではない。ただ、今夜、あの板の下から何かが持ち上がってくる気がしたからだ。水瓶を置いたくらいで止まるものではないことは、分かっていた。それでも、置かずにはいられなかった。 戸を閉めかけて、ふと、俺は手を止めた。 竈の灰の上に、足跡があった。 ついさっきまで、そこには何もなかったはずだった。薪を運んだとき、俺は灰をきれいにならしたばかりだった。 灰の上に残っていたのは、裸足の、爪先の形がくっきりと残る足跡だった。 一歩だけ。 朝、森の細道で見たのと、同じ深さ、同じ前のめりの体重のかけ方だった。 そしてその一歩は、竈の前から、まっすぐ、先ほど俺が押さえつけた床板の方へ向かっていた。 犬が、戸口で、初めて大きく吠えた。

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