第1話
第1話
薪を割る音が、やけにくっきりと朝の冷気に刺さっていた。
辺境の村外れ。家の裏手に据えた古い切り株の上に、俺は楢の丸太を立てる。斧を振り下ろすたび、乾いた木の裂ける音が空へ上っていく。それ以外には、何も聞こえない。鳥の声すらない。 風はなく、吐く息だけが白く立ちのぼって、朝日に透けて消えていった。掌に伝わる斧の柄の震えも、肩にのしかかる重みも、ひとつひとつが身体の奥にしっかり届いてくる。割れた木の断面から立ちのぼる、苦みのある樹脂の匂い。それすら、俺にとっては久しぶりに嗅ぐまっとうな匂いだった。 それが、心地よかったはずだった。 前世で俺は、仲間に裏切られて処刑台に送られた男だ。首に縄をかけられる直前まで、俺は「明日になれば冤罪が晴れる」と信じていた愚か者だった。目を閉じる瞬間に見えた朝日の白さだけが、今も瞼の裏に焼きついている。 あのとき聞こえたのは、群衆のざわめきでも、鐘の音でもなかった。ただ、風に揺れる縄の、きしむ音だけだった。今こうして斧を振るうたび、その音が重なって聞こえる気がして、俺は意識して強く息を吐いた。 だから、この村に流れ着いて最初に欲しかったのは、ただの朝日だった。畑と、犬と、薪を割る音。それだけで、もう十分だと思っていた。誰にも知られず、誰も裏切らず、誰にも裏切られずに、老いて死ぬ。それだけが、俺に許された贅沢のはずだった。 足元で、拾ってきた雑種犬が耳を立てている。名前はまだない。黒い鼻先が、じっと井戸の方を向いている。茶色い被毛に、朝露が小さな粒になって散っていた。 「どうした」 声をかけると、犬は小さく鼻を鳴らして、一歩下がった。前足が、地面を掻くでもなく、ただ怯えたように揃えられている。いつもなら俺の足元にじゃれつくこの犬が、今朝に限ってその距離を保ったまま動かない。 井戸は家の東側、石を積んだだけの古いものだ。前の住人が掘ったという。──前の住人。そう言いかけて、村人は必ず話題を変える。俺はそれを、何度か確かめていた。最初は偶然かと思った。二度目は気のせいだと思った。三度目に、俺は確信した。この村の人間は、誰一人、あの家の前の住人について語ろうとしない。 水を汲もうと、俺は桶を下ろす。 縄が軋む。底の水に桶が触れた瞬間、ふっと、鼻の奥に鉄錆びの匂いが通った。 錆。古い金属の匂い。井戸の内壁に鉄の何かがあるのかもしれない──そう自分に言い聞かせたが、前世で血の匂いを嫌というほど嗅いだ俺の鼻は、それを別の名前で呼ぼうとしていた。 処刑場の石畳に染み込んで、雨に濡れても消えなかったあの匂い。牢の隅で、拷問された男の口の端から垂れていた、あの匂い。鉄と、塩気と、どこか甘ったるい腐敗の予感が混じった、あの匂い。 指先が、勝手に桶の縁を強く握っていた。
桶を引き上げて、水を覗き込む。澄んでいた。朝日を受けて、底の小石まで見えるほどに。 気のせいだろう。 自分に言い聞かせるように、俺はもう一度その言葉を胸の内で転がした。気のせい。気のせいだ。新しい土地、新しい家、新しい生活。神経が過敏になっているだけだ。 俺は桶を抱え、家の中へ戻った。土間に置いた瓶に水を移しながら、昨夜のことをまた思い出していた。 昨夜、俺は森の方角から乾いた足音を聞いた。 ぱき、ぱき、と枯れ枝を踏む音。一定の間隔ではない。歩幅も妙に長い。夜鳥でも獣でもない、そんな歩き方をする生き物を、俺は前世の旅路で一度だけ聞いたことがある。聞いたことがある、という事実だけが、記憶の奥で小さく疼いた。思い出そうとすると、こめかみの奥が鈍く痛んで、それ以上の像を結ばない。 「……気のせいだ」 声に出してみる。土間の壁に吸われて、声は反響しなかった。 本来なら、石と土でできたこの狭い土間で、声はもっと跳ね返ってくるはずだ。なのに、まるで誰かが壁の向こうで耳を澄ませていて、その分だけ音を吸い取っているかのように、俺の声は行き場をなくして消えた。 犬が、扉の外から俺を覗き込んでいた。尻尾が、下がっている。 村の中心まで下りていくと、鍛冶屋のドルフが炉の前で汗を拭いていた。赤ら顔の、人のよさそうな大男だ。越してきた翌日、薪割り用の斧の柄を無償で直してくれた男でもある。炉から立ちのぼる熱気と、火花の弾ける匂いが、村の他のどこよりも濃く、この一角を包んでいた。 「よう、新入り。今日は何の用だ」 「いや、水瓶の金具が緩んでてな。後で見てほしい」 「持ってこい持ってこい。午後なら空いてる」 ドルフは豪快に笑った。その笑顔は、前世の俺なら無条件に信じただろうと思うほど、人懐こかった。頬の横に深く刻まれた笑い皺。太い腕にこびりついた煤。その全部が、嘘をつけそうにない男の造形をしていた。 ──だからこそ、俺は一瞬、息を詰めた。 前世で俺を裏切った男も、同じ種類の笑い方をする奴だった。同じように頬に皺を寄せ、同じように目尻を下げ、同じように「お前のためだ」と言ったのだ。 俺は軽く会釈して、井戸の話を切り出そうとした。舌の裏に、鉄錆びの匂いがまだ残っている気がした。 「なあ、うちの井戸なんだが──」 「ああ、あれか。いい井戸だろう」 言葉が、重なって落ちた。ドルフの返しは、俺の質問を待たずに用意されていたような速さだった。そのことに、俺の背筋がわずかに冷えた。質問を最後まで聞かずに答えが返ってくるとき、そこには大抵、聞かれたくない何かが控えている。 「前に住んでた人は、何でうちを出ていったんだ?」 炉の火が、ぱち、と小さく爆ぜた。 ドルフの笑みは、崩れない。崩れないまま、ほんのわずかに、目の奥だけが遅れて動いた。まるで、顔の筋肉よりも先に、奥にある何かが逃げ道を探したような動きだった。 「さあなあ。俺が来る前の話だ」 ドルフはそう言って、鉄の棒を火に差し戻した。赤熱した先端が、暗い炉の奥で脈打つように光っている。その脈動は、どこか、心臓の鼓動に似ていた。俺はそれ以上、何も聞けなかった。聞いてはいけない気がした。 鍛冶屋を出るとき、背中にドルフの視線を感じた。振り返らなかった。振り返れば、あの人懐こい笑みの下にある何かを、見てしまう気がしたからだ。
家に帰る道すがら、犬がまた立ち止まった。 村の外れ、森との境に近い細道。犬は鼻先を低くして、地面の一点を見つめている。耳は後ろに倒れ、喉の奥から、音にならないほど低い唸りを漏らしていた。 俺も屈み込んだ。膝をついた土は、思っていたよりも冷たかった。 朝露に湿った土の上に、足跡があった。 人間の、裸足の足跡だった。 爪先の形がくっきりと残るほど、深い。体重のかけ方が、どこか前のめりだ。まるで、何かを追いかけて歩いてきた者の足跡のように。足跡は森の奥から村の方へ歩いてきて、──そしてちょうど俺の家の敷地に入るあたりで、途切れていた。 跳んだわけではない。引きずった跡もない。ただ、あるべき次の一歩が、存在しなかった。 俺は、その途切れた場所の土を、指でそっと押してみた。柔らかい。踏めば、当然沈む土だ。なのに、次の一歩がない。踏み込めば必ず残るはずの痕跡が、そこだけ、まるで世界から切り取られたように、何もない。 背中を、細い冷気が這い上がった。それは家の床下から昇ってくるあの冷気と、同じ温度だった。 犬が、低く唸った。 俺は顔を上げた。森の奥、朝霧の薄まりかけた木々の間で、何かが、立っていた。 人のかたちをしていた。 だが、その輪郭の肩の高さが、木の枝より、ほんの少しだけ高かった。 目を凝らそうとすると、朝霧がまた一段濃くなって、その輪郭を飲み込んだ。瞬きをする。もう一度目を開ける。そこにはただ、ねじれた古木と、朝の光に透ける霧しかなかった。 だが、俺の足元の犬は、まだそこを見ていた。
風が止まる。 薪を割る音は、もう、どこからもしなかった。 家の方角から、井戸の滑車が、誰も触れていないのに、きい、と一度だけ、軋んだ。