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断頭台の宮廷魔術師、少年として再び

第2話 第2話

第2話

第2話

風が止んだあとも、レオンは霧の底で立ち尽くしていた。  喉の奥にこびりつく甘い鉄錆の匂い——それは間違いなく、前世の地下書庫で嗅いだあの墨の香だった。封印の蝋を剥がし、羊皮紙の端に指を滑らせた瞬間、鼻の奥で炙られるような熱を覚えた、あの忌まわしい頁の匂い。封じたはずのものが、この領境の森の奥から立ちのぼっている。 「……坊ちゃま、どうなされました」  前を歩く荷駄引きの少年が怪訝そうに振り返った。麻の上衣に干草屑をこびりつかせた、顔なじみの村の童だ。レオンは慌てて首を振り、濡れた前髪を掻き上げる。 「いや、なんでもない。少し、靴擦れがして」  取り繕った笑みに、相手はあっさりと納得し、また前を向いて荷縄を引き直した。霧の隙間から覗く兄の背は、もう随分と遠い。馬蹄の音は湿った落ち葉に吸われ、かすかに革鎧の軋みだけが尾を引いていた。  ——駄目だ、今ここで足を止めれば置いていかれる。  レオンは歯を食いしばり、膝の震えを気取られぬよう歩を進めた。頭の奥では、前世の書物の頁が勝手にめくれていく。魔物を統率する触媒、獣の脳髄に差し込む銀の針、血で描かれた円環。どれも、幼い魔力回路で相対してよい代物ではない。  だが、知ってしまった者は引き返せぬ。いにしえの塔でそう教えてくれたのは、ほかならぬ自分自身だった。

 行軍は、やがて枝道の辻で短い休止を取った。従士たちが馬に水をやり、男たちが革袋の水を分け合う。どこかで一人が低く笑い、別の一人が咳払いで応じる。鞍の革が鳴り、馬の鼻息が霧を白く押し出す音。そのどれもが、普段ならば心を安んじる野営の響きのはずだった。けれど今のレオンの耳には、その一つ一つが遠い水底の音のように歪んで届く。鉄錆の匂いが、鼓膜の内側まで侵してくるかのようだった。  レオンは荷駄の陰に身を潜め、誰にも見られぬ位置に膝をついた。湿った土が膝頭を冷たく刺し、下生えの苔が指の腹にひやりと貼りつく。  掌を、そっと落ち葉の上に広げる。  ——試さねばならぬ。  森の奥に潜むものの正体を探るには、幼い身体でどこまで魔力を扱えるか、先に知っておかねばならなかった。前世の感覚のまま詠唱を口にして、もしこの十二の回路が耐えきれねば、肝心の場面で腕一本、目一つを失うこともある。断頭台の記憶が、そう警告していた。あの朝、最後に掌を見下ろしたとき、指の節にまで染み込んでいた術式の線を、今度は肉の側が追いつけぬまま握り損ねるわけにはいかぬ。鋼の刃が首筋を撫でた瞬間の、あのひやりとした確信——知恵だけでは何一つ守れぬという、遅すぎた理解——が、今もこの幼い喉元に残っている。  息を細く吐き、前世で数百度と紡いだ初級の照明術の詠唱を、声にならぬ声で唱える。古語の短い一節。舌先で転がすその音韻は、懐かしさと嫌悪がないまぜになった味がした。指先から掌の中央へ、細い熱が集まってくる感覚——のはずだった。  しかし、集まってきたのは熱ではなく、制御を失った奔流だった。  幼い魔力回路は、前世の詠唱が要求する「量」を測り違えた。蛇口をひねったつもりが、堰を切った奔流になってしまったのだ。掌の上で青白い光の粒が弾け、指先の皮膚がぴりりと焼けた。光は蛍火というよりは、炉から飛び散る火の粉に近く、視界の端で残像となって踊る。濡れた落ち葉の何枚かが、ぱちぱちと小さな音を立てて縁から黒く縮れていく。 「っ——」  声を殺し、レオンは咄嗟に掌を胸元に引き寄せた。荒い息が霧に白く混じる。心の臓が、耳の奥で早鐘を打っている。喉の奥で、前世の己が鋭く舌打ちした。  ——愚か者。肉に合わせて、量を刻め。  分かっている。頭では、とうに分かっている。だが、魂に染みついた詠唱の「形」が、勝手に前世の尺度で魔力を引き出してしまう。羽根ペンより重いものを持てなかった学究の手が、今、剣を握った幼い身体を裏切っていた。身の内で二人の己が綱を引き合い、どちらも手綱を譲らぬまま、子どもの掌だけがその軋みを引き受けている。  掌の中で、青い光はじきに散り、焦げ臭さだけが残った。レオンはそれを霧で洗い流すように二度、三度と振り、指先の震えを確かめる。焼けた皮膚は、幸い水ぶくれにもなっていない。けれども、もし今しがたの暴発が、森の奥深くで、魔物に囲まれた只中で起きていたら——背筋に冷たいものが走った。父の檄と兄の剣閃のただ中で、味方の背を焼き、あるいは己の利き腕を失う光景が、脳裏を掠めてすぐに消える。想像しただけで、口の中が鉄の味に染まった。 「……ゆっくりで、いい。今、ここで良かった」  自分に言い聞かせるような呟きは、吐息と区別がつかぬほど小さく、霧に溶けた。それでも、音にしたことで胸の乱れはわずかに凪いだ。  それでも、と少年の唇はひそやかに動く。  それでも、今この裏庭めいた枝道の陰で知れたのは幸いだった。回路の許容を超えた瞬間、魔力はどう逆流するか。指の腹に伝わる焼け跡のひりつきが、何よりの教本だった。前世の書庫でも、これほど確かな一行には出会えなかった気がする。羊皮紙の上の百の注釈よりも、この一度の火傷のほうが、ずっと正直に身体へ刻まれた。 「……刻め。細く、短く、幼子の歩幅で」  己に言い聞かせるように呟き、レオンはもう一度だけ、今度はほんの一呼吸分の詠唱を試みた。古語の一節を三分の一に削り、集める魔力の輪をうんと小さく絞る。喉を通る音は、さきほどより頼りなく、けれど確かに自分の肺の深さに見合っている。掌の中央に、豆粒ほどの青い光が灯り、そしてふっと消えた。焼け跡は増えない。指の節に、ほのかな温もりだけが残る。  安堵より先に、苦い笑いがこみ上げた。前世では詠唱の無駄を削るのは弟子に任せる仕事だった。それを今、自分の肉で、一節ずつ削り直している。——いつか、これはこの身体のための新しい術式になる。そう思えたとき、掌の胝の疼きが、初めて味方のように感じられた。

 辻の休止が解かれ、隊列はふたたび動き出した。  レオンは荷駄の縄を掴み、泥濘に足を取られぬよう歩幅を合わせる。指先に残るひりつきを、上衣の裾でそっと隠した。前を行く従士の背が、霧の中で一度だけ振り返り、こちらを確かめる。例の初老の男だ。目が合うと、皺に埋もれた眦がわずかに動き、それから前へ戻った。何も言わぬことが、この老いた従者の返事だった。  ——森の入口まで、と約束した。  けれども、入口で引き返す気など、もう最初からなかった。指先の焼け跡が、引き返すなと囁いている。あの鉄錆の匂いを、もう一度確かめねばならぬ。もし、それが本当に前世で封じた禁書の香なら、父も兄もマリカも、知らぬままに呑まれる。群れの魔物は、ただの前触れにすぎぬ。  胸の奥で、少年の鼓動と、塔で果てた男の覚悟が、ふたたび二重に脈打った。幼い脚はまだ短く、革靴は泥にすぐ沈む。だが、歩幅を「幼子のそれ」に刻むと決めたのは、つい今しがたの己自身だ。術も、歩みも、覚悟も——この身体のために、削り直していけばよい。  道の先で、枝葉の向こうに松明の赤が揺れはじめた。森の入口だ。苔むした石標の脇に、兄と従士たちが馬を止め、隊を再編している。荷駄引きの少年たちはそこで役目を終え、村へ引き返す段取りだった。レオンの出番は、本来ここまで——のはずだった。  少年はそっと荷縄を放し、列の最後尾からさらに一歩、森側へと踏み出した。濡れた下生えが脛を舐め、冷気が膝の裏をなぞる。誰も、まだ気づかない。前世の書庫で、深夜に禁書の頁を繰るときの足運びを、幼い踵が覚えていた。音を殺し、重心を落とし、草の根を踏まぬように。  松明の輪から一人分ずれた闇の中で、レオンは胸の前に掌を重ね、ごく短い一節を口の中で転がした。さきほど削り直したばかりの、幼子の歩幅の詠唱。掌の狭間に、針の先ほどの青い光が灯り、まるで道案内の蛍のように、森の奥を指してすうと揺れた。  ——行こう。今度こそ、守るために。  光は一呼吸で消え、少年の姿は下生えの霧の中へ紛れていった。背後では兄の号令が響き、討伐隊が隊列を組み直し始める。その声に紛れて、もうひとつの小さな足音が森の奥へ進んでいることに、誰も気づかぬままだった。

 風が、また重たく吹き抜けた。  鉄錆と墨の匂いは、今度はさきほどよりも濃い。甘さの奥に、腐肉と樹脂の焦げた臭気が混じり始めている。前世の指が覚えている——これは、触媒の円環が描かれ、既にひと度、魔力を吸い上げ終えた者の匂いだ。  レオンは幼い掌を握りしめ、焼け跡のひりつきを唇に押し当てた。木剣の柄が、背で小さく鳴る。霧の奥、枝の切れ間から、ちらりと何かが動いた。獣の目ではない。もっと冷たく、もっと人に近いもの。  ——誰かが、魔物の群れを見ている。  少年の背筋を、前世の朝と同じ冷たさがひと筋、流れ落ちていった。

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