第1話
第1話
鉄の匂いがした。鈍色の刃が朝陽を弾き、首筋に触れる寸前、少年レオンは凍てついた寝台の上で飛び起きた。 息が荒い。掌に残るのは縄の痕ではなく、木剣の握り胝だった。板張りの天井、藁の詰まった枕、窓の外では礼拝堂の鐘がゆるやかに朝を告げている。辺境ヴェルネ男爵領の、何の変哲もない石造りの館。十二の春を迎えたばかりの身体が、薄布の下でまだ小刻みに震えていた。肋の奥で心臓が、拳で内側を叩くように鳴っている。喉の奥にはまだ、断頭台の刃が運んでくる鉄錆の味がこびりついていて、レオンは何度も唾を飲み下した。 「――また、あの夢か」 声は幼い。だがその奥に沈む響きは、子供のものではなかった。 レオンは己の小さな掌を広げ、しばし見つめた。皺ひとつない指先。爪の形も知らぬ土の匂い。前世、宮廷魔術師としていにしえの塔で詠唱を紡いだ手は、もっと骨ばって、もっと傷が多かった。墨と硫黄と、幾夜も燭を灯し続けた蝋の匂いが染み付いた指。濡れ衣を着せられ、断頭台の朝に閉じた瞼の裏側に、この第二の生は唐突に開かれていた。気づけば一年が過ぎていた。 掌に指先で、そっと小さな術式の輪郭をなぞる。火でもない、風でもない。ただ魔力を「ここにある」と教えるだけの、最も初歩の詠唱の形。指の腹が、確かにその記憶を覚えていた。肉は忘れても、魂のどこかが術式の線を掴んで離さない。その事実が、今の彼にとって唯一の拠り所だった。 ――今度こそ、守るために。 それだけを繰り返し呟いて、少年は寝台を降りた。板敷の冷たさが素足から脛へと這い上がり、夢の残滓をようやく洗い流してゆく。指の節がかじかみ、爪先が石床の継ぎ目を探り当てるたび、現実の輪郭が少しずつ戻ってくる。夢の中で失った首の感触は、こうして冷えた床を踏みしめることでしか塗り替えられない。
裏庭に出ると、朝靄が白く膝を撫でた。草の葉先から滴る露が、踝をひやりと濡らす。納屋の陰から取り出した木剣は、先月、父から与えられたばかりの真新しいもの。まだ松脂の匂いが抜けきらず、柄には兄たちの刻んだ印のひとつもない。領主の三男として、兄たちの後を追うように稽古を続ける——それが今のレオンに許された唯一の鍛錬だった。 一閃、二閃。肩の入らぬ剣筋に、苦い笑いがこみ上げる。木剣の先が靄を裂くたび、白い渦が名残惜しげに絡みついては散っていった。前世では剣など握ったこともない痩せた学究だった。羽根ペンより重いものを持てば指がしびれる、と同僚に笑われた手だ。だが今は違う。剣も、魔も、祈りも、使えるものはすべて使う。そう決めている。掌の胝がじくりと疼き、それが決意の証のように思えた。三閃目で踏み込みが乱れ、踵が濡れた草を滑る。膝が泥に沈み、跳ね上がった雫が頬に散った。息が白く尾を引き、肩甲骨の奥に鈍い熱が広がる。それでも少年は立ち上がり、もう一度だけ、と自分に言い聞かせて木剣を構え直した。構えるたび、前世の自分が書庫の窓辺で薄く笑って見下ろしているような気がした。――子供の真似事だ、と。その幻影を振り払うように、レオンは息を吐き、剣先を靄の奥へ突き込んだ。 「坊ちゃま、また朝っぱらから」 振り向くと、厨房の下女のマリカが湯気の立つ木椀を抱えて立っていた。麦を炊いた甘い匂いが、冷たい朝気の中にふわりと広がる。濡れた前髪を払い、少年はぎこちなく笑う。 「乳母には内緒だよ、マリカ」 「はいはい。その代わり、ちゃんと粥を召し上がって下さいまし」 マリカはそう言って椀を差し出し、小さく舌を鳴らした。呆れているようでいて、その瞳の奥には姉のような柔らかさがある。そばかすの散った頬がほんのり赤らみ、粗い麻のエプロンには竈の煤がひと筋ついていた。レオンはその眼差しが、前世で失ったどんな勲章よりも胸に沁みた。宮廷では誰もが彼を「先生」と呼び、最期には誰もが彼から目を逸らした。だがこの娘は、ただ「坊ちゃま」と呼び、湯気の立つ椀を差し出すだけだ。それだけのことが、どれほど得難いことか、少年の姿をした男はよく知っていた。 麦の粥は薄く、塩と香草の匂いだけが濃い。匙を口に運びながら、レオンはふと窓の外の鐘楼を見上げた。朝の鐘はもう三度、四度と続いて、やがて不自然に短く切れた。普段の祈りの鐘ではない。打ち手の腕に、明らかな焦りが混じっている。 ――招集の鐘だ。 粥の椀が音を立てて卓に戻る。前世で何度も聞いた音色だった。国境の砦で、討伐隊が呼び集められる時の、あの引き攣ったような鐘の響き。鐘の余韻が止んだあと、村の犬たちが一斉に吠え始めたのも、あの頃と同じだった。喉の奥で、まだ飲み下していない粥のぬくもりが、急速に冷えていく気がした。 階下で扉の叩かれる音。男たちの低い声。兄たちが駆け下り、父の荒い足音が廊下を揺らす。レオンは匙を握りしめたまま、ただ耳を澄ました。息を殺し、椀の湯気だけが静かに立ち昇っていく。 「領境の森に、魔物の群れだと……? それも、この時期に」 父の声が漏れ聞こえる。戸惑い、そして怒りを押し殺した声。魔物の発生期は夏だ。雪解けの残る春先に、群れで出ることなど滅多にない。 レオンの背筋を、冷たいものが這った。指先から血の気が引き、木匙がかたりと卓に落ちる。 前世の知識が勝手に頁を繰る。統率されぬ筈の魔物が群れる時、その背後には必ず「誰か」がいる。魔力の流れを歪める触媒、あるいは——闇の術式を知る者の手。彼自身が、かつて王命で討った類のそれだ。 少年は椀を置き、立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、妙に遠く響いた。
礼拝堂の前庭に、村の男たちが続々と集まっていた。錆びた槍、猟師の弓、革の胴鎧。鍛冶の息子が抱える鉈には、まだ薪を割った木屑がこびりついている。討伐隊などと呼ぶには頼りない、しかし彼らにとっては命がけの陣立てだ。妻や娘が背後から胴着の紐を結び直し、小さな子が父親の裾を掴んで泣きじゃくっていた。その隙間を縫うように、レオンは木剣を背負ったまま柱の陰に身を潜めた。 混じるつもりだった。 幼い身体で、魔力回路もまだ開ききらぬまま。無謀だと、前世の理性は冷ややかに告げる。だが、あの鐘の意味を知ってしまった以上、館の寝台で震えていることなどできない。群れの中心に何があるのか、この目で確かめねばならない。もし、前世の影が再びこの地に伸びてきているのなら——父も、兄たちも、マリカも、守れるのはまだ自分しかいない。胸の奥で、幼い鼓動と、老いた男の覚悟が二重に脈打っていた。 「坊ちゃま、そこで何を」 低い声に振り向くと、初老の従士が眉をひそめて立っていた。長年、父に仕えてきた男だ。胡桃のような皺の寄った顔に、咎めと案じが半分ずつ浮かんでいる。レオンは唇を噛み、それから深く息を吸った。声の震えを、前世の男の胆力で押さえ込む。 「爺、頼みがある。荷駄の最後尾に、俺を混ぜてくれ」 「何を馬鹿な。男爵様が——」 「父上には、森の入口までだと伝えてくれればいい。魔物の気配は、剣を握る前に感じ取る術がある」 言いながら、レオンは掌を軽く開いた。指先にほの青い光の粒が、ほんの一瞬だけ灯り、すぐに消えた。露に濡れた草の葉が、その光を映して小さく瞬く。詠唱もなしに光を呼ぶ子供など、辺境では語り草にすらならぬ奇跡だった。従士の喉が、ごくりと鳴った。 「……坊ちゃま、あなたは」 「今は問わないでくれ。いつか、必ず話す」 その声に嘘がないことだけは、老いた従士にも伝わったらしい。男はしばし口を引き結び、やがて深く、ひとつだけ頷いた。朝靄が少しずつ晴れ、礼拝堂の尖塔が赤く染まり始める。馬のいななき、革鎧の軋み、祈りの低い唱和。香炉から立つ乳香の煙が、冷えた空気の中を細く昇っていく。その只中で、レオンは背負った木剣の紐をきつく結び直した。 ――この掌は、もう一度、術式の形を覚えている。 胸の奥で、断頭台の朝に落ちたはずの男が、静かに頷いた気がした。
森への道は、まだ霧の底に沈んでいた。馬上の兄の背を遠く見送りながら、レオンは隊列の最後尾、荷駄引きの少年たちに紛れてゆっくりと歩き出す。革靴の底が濡れた落ち葉を踏むたび、くぐもった音が霧の中に吸い込まれていった。その時、森の奥から風が一度、ひどく重たく吹き抜けた。 風には、覚えのある匂いが混じっていた。前世、王宮の地下で嗅いだ、封じられた筈の禁書の墨の匂い。甘く、鉄錆に似て、嗅いだ者の喉を内側から焼く、あの匂い。少年の足が、一瞬、凍りついた。