第3話
第3話
梟の声が、合図のように森の空気を張り詰めさせた。
俺は下草の陰に片膝をつき、夜気の層に指先を差し入れる。風の流れ、土の湿り、樹冠越しに差し込む月光の角度——《術式掌握》にかかれば、森そのものが一枚の術式図だった。無数の線が枝葉を伝い、地中の水脈が青く脈打っている。この地形図の上に敵が踏み込んだ瞬間、足裏から発する微細な魔力の揺らぎが、俺の神経に直接届く寸法だ。
近衛隊の足音は、まだ聞こえない。だが気配は既に近い。先触れの斥候が二、本隊が十——いや、十二。魔力の質から察するに、宮廷魔術師団の上位連中も混じっている。俺がかつて廊下ですれ違い、軽く会釈していた顔ぶれだ。
——律儀なものだ。
十年ぶんの同僚が、俺を狩るために夜を徹して駆けてきた。胸の奥に微かな熱が兆したが、俺はそれを棚の奥へ押し込める。怒りで焼くな。前世の戒めが、梟の声に重なって耳元で鳴った。
指先に目盛り合わせの火花を一つ、ふっと消す。代わりに、思考だけで術陣を編む。詠唱はいらない。唇も、指も動かさない。必要なのは意志の輪郭だけだった。前世で百年かけて辿り着いた「無動詠唱」の領域が、今は呼吸と同じ距離にある。
森の地面に、俺を中心とする同心円が六層、音もなく展開された。誰にも見えず、誰にも感知されぬ術式。精鋭たちが円の内側に踏み込んだ瞬間、彼らの魔力炉は俺の掌に載ることになる。
梟が、もう一度鳴いた。
*
下草が、北側から割れた。
先触れの斥候、二人。黒の鎧に灰の外套、足音を殺した歩法は近衛の基礎訓練そのものだ。俺はかつて、その訓練を横目で見ながら宮廷の書庫を歩いていた。懐かしい、とは思わない。ただ、彼らの脚運びが記憶の通りであることに、妙な安堵を覚えただけだった。
斥候が、円の第一層に踏み込む。
俺は動かない。意識だけを、彼らの足元の術陣に落とす。
——眠れ。
ぱたり、と二人は同時に膝を折った。鎧が地に触れる前に、術が衝撃を吸う。音は鳴らない。二人の呼吸は規則正しく、脈拍も乱れていない。ただ、意識だけが静かに剥がされている。
本隊が、その異変に気づくまで十数秒。その間に、俺は残り十人の魔力炉を順に読み終えていた。隊長格の男——四十前後、剣術主体、魔力量は中級、心臓に古い呪印の痕あり。副長は若い女、雷属性、気性は激しいが判断は冷静。その後ろに控える魔術師四人は、いずれも俺が宮廷で見知った顔。残りは純粋な剣士。
全員、殺さずに済む。そう判断してから、俺は立ち上がった。
樹の陰から一歩、月光の下に身を出す。
「——そこまでだ」
声は、低く森に落ちた。
近衛隊が、一斉に散開する。訓練通り、見事な扇形だった。剣が鞘走り、魔術師の掌に術陣が咲く。隊長が前に出た。兜の奥で、瞳が俺を捉える。その瞳の奥に、驚愕と——それから、ごく微かな安堵に似た光が、揺らいで消えたのを俺は見逃さなかった。生きていた、という事実を確かめた者の目だ。
「……レオン殿」
声が、わずかに掠れていた。
「殿、か。反逆者相手には、過分な敬称だな」
「命令だ。捕縛、もしくは討伐。抵抗すれば、後者を選ぶ」
「抵抗はしない」
俺は両手を、軽く広げて見せた。掌に触れる夜気は、刃物のように冷たく、そして澄んでいた。
「ただ、捕縛もさせない」
隊長が、何かを叫ぶより早く。俺は、意識の端で術陣の第三層を起こした。
十二人の足元から、細い光の糸が立ち上る。糸は彼らの膝、肘、首を優しく絡めとり、鎧の隙間から体内へ滑り込んだ。魔力炉に届いた糸が、出力弁をそっと絞る。雷属性の副長が咄嗟に術を放とうとしたが、彼女の掌で編まれかけた術陣は、組み上がる前に俺の意志で解体された。楽譜の音符を一つずつ抜いていくように、静かに、丁寧に。指先に残る火花の残滓が、儚い蛍のように夜気に散って消える。
——あ、と副長が小さく声を漏らした。
それは恐怖ではなく、驚嘆に近い響きだった。まるで、子供が初めて雪の結晶を掌に受け止めた時のような、無防備な声。
魔術師四人が、ほぼ同時に膝をつく。剣士たちは剣を構えたまま、自分の腕が動かぬことに気づいて硬直する。鎧の擦れる音すら途絶え、森は一瞬、時の止まった絵画のようだった。隊長だけが、最後まで立っていた。心臓の呪印が、俺の術を弾き返そうと痙攣している。前世の誰かが仕込んだ、対術師用の古い護符だった。
「……化け物、か」
隊長が、呻くように言った。その声には憎しみも怒りもなく、ただ、遠い記憶の中の何かを確かめるような響きがあった。
「そう呼ばれる覚悟はある」
俺は彼の前まで歩み寄り、指先で兜の額当てに触れた。冷えた鉄の感触が指先に沁みる。呪印の周波数を読み、対応する解術式を編む。時間にして、半呼吸。呪印は役目を終えたかのように、ふっと熱を失った。隊長の膝が、ゆっくりと地に触れる。
十二人全員、無傷。血の一滴も流れなかった。森は、相変わらず梟の声と風だけで満たされている。
*
俺は隊長の兜を外させ、木の根元に座らせた。
月光の下で見る男の顔は、記憶の中のそれより幾分やつれていた。頬骨の影が濃く、目の下に青い疲労が沈んでいる。ここ数日、まともに寝ていないのだろう。俺の処刑と、その失敗——宮廷の空気は、さぞ荒れているに違いない。
「一つだけ、聞かせてくれ」
俺は男の前にしゃがみ、視線の高さを合わせた。
「処刑の命令書。起案は、誰だ」
男は、しばらく沈黙していた。忠誠と、恐怖と、それから——俺にはすぐには読めぬ種類の、苦々しさ。彼の魔力炉は俺の糸に絡め取られたままだが、口を割らせる術までは使っていない。自白薬の苦味を、昨夜の俺自身が嫌というほど味わったからだ。
やがて、男は低く息を吐いた。その吐息は白く夜気に浮かび、ゆっくりと掻き消えた。
「……皇女殿下だ」
梟が、鳴き止んだ。
「セルフィーネ殿下、直々の進言。宰相閣下も、陛下も、当初は難色を示しておられた。だが殿下が三日三晩、玉座の前に跪き続け——最後には、ご自身の婚約指輪を差し出して、嘆願された」
男は、俺の顔を見ていなかった。地面の一点を、見つめていた。
「『あの男を、殺してください』と。『早く、確実に、公の場で』と」
風が、樹冠を揺らした。葉擦れの音が、男の言葉の続きを覆い隠そうとするかのように長く尾を引いた。
俺の指先が、ほんの一瞬、冷たくなった。それから、熱くなった。それから——何も感じなくなった。
処刑台で俺を見つめた、あの無表情。瓦礫から這い出してきた時の、唇の震え。「逃げて」と動いた、声にならない二文字。白い手袋の甲に滲んでいた、赤黒い染み。
——どちらが、本当のお前だ。
問いは、夜の空気に溶けて消えた。答えは、ここにはない。男の知る事実は、命令書の起案者までだ。その裏でセルフィーネが何を考えていたか、何に追い詰められていたかは、男の階級では届かぬ領域にある。
俺は立ち上がった。
「……ご苦労だった」
声が、自分でも驚くほど平坦だった。男の魔力炉に絡めていた糸を、ゆっくりと解く。代わりに、別の術式を一つ、彼の額にそっと置いた。今夜の記憶の、ごく一部だけを曇らせる術。俺がどんな術を使ったか、その具体までは思い出せぬように。
「朝になれば、部下とともに目が覚める。報告は、正直にすればいい。『追いついたが、見失った』と」
男は、答えなかった。ただ、膝の上で両手を固く握り合わせていた。白い手袋——ではなく、鉄籠手の甲に、小さく影が落ちていた。その影が、ほんの一瞬、俺の記憶の中の染みと重なって見えて——俺は、視線を逸らした。
俺は背を向け、森の奥へ歩き出す。
*
百歩ほど進んだところで、足が止まった。
「セルフィーネ」
名前を、声に出してみた。
夜の森は、応えない。梟も、もう鳴かない。ただ、遠くの地平線で追討の鐘の余韻が、風に乗って届いてくるだけだった。
あの女が、俺を殺せと嘆願した。三日三晩、玉座の前で跪いて。婚約指輪を差し出して。——そして同じ口で、瓦礫の中から「逃げて」と囁いた。
矛盾ではない、と前世の俺が静かに言う。矛盾に見えるものの裏には、たいてい、見えぬ一本の筋が通っている。問題は、その筋を解きほぐすだけの時間と、情報と、そして——冷静さが、今の俺にあるかどうかだ。
俺は掌を、月光にかざした。指先は、もう震えていない。けれど掌の中心には、まだ仄かな熱が残っている。怒りの熱でも、憎しみの熱でもない。もっと静かで、もっと粘り強い、何か別の感情の温度だった。
「……なるほど」
笑いが、口の端だけで浮かんだ。怒りではない。諦めでもない。前世の封印を解いてから、三度目の、あの獰猛な笑みだった。
辺境の自由都市ヴェルド。冒険者ギルド。そこで名を上げることの意味が、今、もう一枚厚くなった。力をつけるだけではない。情報を、集めるのだ。帝国の中枢で何が起きているのか。皇女の進言の裏に、誰の影があるのか。その糸の先を、一本ずつ手繰り寄せる。
俺は歩き出した。
背後で、十二人の近衛が静かに眠っている。森の向こうでは、帝都がまだ眠れずにいる。そして、そのどこかで——白い手袋を掌に食い込ませた女が、今夜も、一人で朝を待っているのかもしれない。