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灰塵の宮廷魔術師、二度目の玉座

第2話 第2話

第2話

第2話

街道を外れ、岩肌の露出した丘陵地帯に入った頃には、日は半ば沈んでいた。

風が、乾いた土の匂いを運んでくる。帝都の鐘は、まだ背後で鳴り続けていた。音は距離とともに細くなり、やがて虫の声に紛れて消えていく。俺は岩の陰に身を寄せ、縛られていた手首を軽く回した。縄の跡は、もう消えかけている。術式が、無意識のうちに皮下の傷を舐めるように癒していたらしい。

——便利なものだ。

前世では、擦り傷ひとつ治すのに詠唱を三節費やしていた。今は、治そうと思う前に治っている。身体のほうが、記憶を先回りして追いついてきているような感覚だった。

岩に背を預け、目を閉じる。まぶたの裏で、処刑台の光景がまだちらついていた。吹き飛ばされた執行人。倒れ伏した衛兵。そして——瓦礫の中から這い出してきた、セルフィーネの唇の動き。

「逃げて」

その二文字が、耳の奥に貼りついて剥がれない。声にならなかったぶん、かえって重たい。彼女の呼気の温度までが、記憶の中では生々しく残っていた。

俺は目を開けた。考えるな、と前世の俺が囁く。考えれば、情が戻る。情が戻れば、判断が鈍る。判断が鈍れば、また同じ過ちを繰り返す。

分かっている。分かっているが——分かっているからこそ、一度だけ、確かめておかねばならないことがある。

この身体に、どれだけの力が戻ったのか。

岩陰から出て、丘の頂に立った。

眼下には、誰もいない荒野が広がっている。枯れた低木がまばらに生え、風化した岩塊が獣の骨のように点在していた。乾いた風が足元の砂を舐め、踝のあたりで細い渦を巻いては散っていく。遠くで夜鷹が一声、喉を鳴らした。練習場としては、申し分ない。人影はなく、遠くの街道からもこの窪地は死角になっている。

俺は右手を前に出した。指先が、夜気に触れて微かに冷たい。

《火花》。先ほど処刑場で石畳を抉った、あの初級魔法。

今度は、意識して出力を絞る。指先に、蝋燭一本分の灯を点す——それだけを思い描く。息を、細く長く吐く。肺の底にわだかまっていた帝都の煤の匂いが、ゆっくりと夜に溶けていった。喉の奥が、ひりつくように乾いているのを、今さらのように自覚する。

指先に、ぽ、と小さな火が灯った。

「……よし」

制御は、効く。問題は、ここからだ。

俺は火を消し、次に術式の構造そのものに意識を向けた。《術式掌握》——前世で俺自身が編み出し、そして自らに封じた固有スキル。あらゆる術式の内部構造を読み、書き換え、再構築する能力。魔法とは本来、決められた手順を決められた通りに踏むことで発動する。だがこのスキルの前では、手順そのものが可塑的な粘土と化す。

試しに、《火花》の術式を指先で展開し、その内部回路を覗き込んだ。

——見える。

術式は、無数の記号と線の連なりとして空中に浮かび上がっていた。それは俺にとって、楽譜のように読めるものだった。どの音符を強め、どの音符を抜き、どの小節を繰り返せば、何が起きるか。すべてが、計算する前から答えとして分かっている。懐かしさと薄ら寒さが、同時に背筋を撫でていった。——ああ、俺はこの感覚を知っている。知りすぎている。

試しに、火花の出力係数だけを二倍にした。

ぼ、と指先の火が、松明ほどに膨らむ。

次に、十倍。

風の渦を巻き込みながら、火は俺の腕ほどの太さに育った。熱が、頬を炙る。睫毛の先が、じり、と焦げる匂いを立てた。夜目に慣れた瞳が、火に炙られて一瞬痛む。遠くの岩肌に、俺の影が長く揺らいで焼きついた。

さらに、五十倍。

——やめておこう。

俺は術式を畳んだ。この地形を焼き焦がせば、夜の闇の中で目立つ。追討の鐘はまだ鳴っている。上空に飛竜隊が展開される前に、もう少し静かな検証に切り替えるべきだ。

代わりに、俺は足元の石ころを拾った。掌に転がすと、昼の熱を残した石は、ほのかに生温かい。指の腹に、ざらりとした砂粒の感触が残る。

《土塊操作》——土や石を握り、形を変える初歩の術。前世では子供の遊びに使われていた類のものだ。

石を掌に乗せ、意識を通す。石は即座に粘土のように柔らかくなり、俺の思考通りに形を変え始めた。球になり、立方体になり、刃になり、そして——細く、鋭い針になった。掌の上で、針はひやりとした金属の重みに変じている。

針を、指で弾く。

ひゅん、と乾いた音を立てて、針は三十メートル先の枯れ木を貫いた。幹の向こう側まで、音もなく抜けていく。幹を貫いた瞬間、枯葉が一枚、ふわりと舞い上がり、やがて地に落ちた。音は、ついに鳴らなかった。

「……初級で、これか」

俺は呟いた。声は、自分でも驚くほど平坦だった。

処刑場で石畳を抉ったのは、決して偶然の暴発ではなかった。意識を向ければ、この身体は初級の術ひとつで岩を砕き、枯れ木を貫き、そしておそらく——中級以上の術を使えば、城壁をひとつ、崩せる。

前世の最盛期に、近い。いや、身体の若さと魔力炉の未消耗ぶんだけ、前世よりも鋭いかもしれない。

笑いが、喉の奥から漏れた。乾いた、自分のものとは思えぬ笑いだった。

「帝国ごと、灰にできるな」

二度目の言葉だった。処刑場の瓦礫の上でも、同じ台詞を口にした。だがあの時は、興奮と怒りに混ざった勢いの言葉だった。今は違う。静かな荒野の夜風の中で、冷えた計算として、同じ結論に辿り着いている。

——できる。やろうと思えば、明日にでも。

そして、だからこそ、やらない。

俺は掌の針を、握り潰した。粘土に戻った土が、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。砂時計のように、無音で。

夜が、深くなってきた。

星が出始めている。前世で見上げた星と、位置が微妙に違う。大陸の形が変わったのか、時代が動いたのか——おそらく、その両方だろう。神代の記憶と今世の知識が、頭蓋の中で少しずつ座席を交換していく。違和感は、不思議と少なかった。前世の俺と今世の俺は、どうやら根っこのところで同じ性分をしていたらしい。

俺は岩の上に腰を下ろし、もう一度、掌を見下ろした。

力は、ある。

問題は、力の使いどころだ。

前世で俺は、間違えた。怒りに任せて神々と戦い、結果として守りたかった者たちを巻き込んで焼いた。名もない村が灰になり、名もない子供らの笑い声が灰に紛れて消えた。その灰を掬い上げた夜、俺は自分自身に封印をかけた。二度と、感情で術を振るわぬように。二度と、力で問題を殴り潰さぬように。

その封印が、今日、前世の記憶ごと解けた。

ならば、封印をかけた理由も、同時に思い出さねばならない。

——怒りで、焼くな。

俺は自分に言い聞かせた。セルフィーネの震えた唇も、貴族たちの賭け金の笑い声も、宮廷で味わった十年の屈辱も、すべて一度、胸の奥の棚に仕舞う。忘れるのではない。使うときのために、整理しておくのだ。

報復は、優雅でなければならない。

帝都に斬り込み、皇帝の首を叩き落とせば、一時の胸は空く。だがそれは、前世の過ちをそのままなぞる道だ。代わりに俺が選ぶべきは、帝国が拠って立つ柱——権威、経済、軍事、信仰——を、内側から順に朽ちさせていくことだ。冒険者として名を上げ、辺境に足場を作り、人脈と情報を掌握する。

三ヶ月で、古竜の一頭も狩ってみせよう。

「灰塵」——前世で俺に付けられた異名のひとつを、今世でもう一度、贈ってもらうとしよう。今度は、自分の意志で。

俺は立ち上がった。

荒野の向こう、西の地平線が、かすかに暁の気配を帯び始めている。星が、ひとつ、またひとつと薄れていく。東の空には、まだ追討の鐘の余韻が風に乗って届いていた。帝都は、俺という反逆者を探して眠れぬ夜を過ごしているのだろう。

結構なことだ。

眠れぬ夜は、これから何年も続く。

歩き出そうとした、その時だった。

遠く、背後——帝都の方角から、新しい鐘の音が重なった。追討の鐘ではない。もっと低く、もっと荘厳で、そして聞き覚えのある音色。近衛隊、出撃の鐘だ。

俺は足を止め、振り返らずに笑った。

「……早いな」

飛竜隊ではなく、近衛隊。皇帝直属、帝国最強と謳われる精鋭。あの連中が動くということは、帝都はすでに俺の「処刑失敗」を、単なる反逆者の逃亡以上の事態として認識している。

好都合だ。

辺境に辿り着く前に、一度、現在の自分の力を帝国の精鋭相手に試しておきたかった。荒野の練習では、結局、動かぬ枯れ木しか貫けない。生きた術者、生きた剣士を相手にして初めて、術の真価は測れる。

俺は岩陰を出て、あえて街道に戻った。足跡を、わざと残す。乾いた土に、踵の形がくっきりと沈み込む。

風が、背を押すように北から吹いた。近衛隊の足音は、まだ聞こえない。だが、遠からず追いつくだろう。

——来い。

俺は夜の森の入り口に身を沈め、息を整えた。指先に、再び小さな火花が灯る。今度は、蝋燭一本分ではなく——そのすべての倍率を、相手の数に合わせて調整するための、ただの目盛り合わせだった。

森の奥で、梟が一度だけ鳴いた。

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