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灰塵の宮廷魔術師、二度目の玉座

第1話 第1話

第1話

第1話

──首筋に、刃の冷たさが触れた。

群衆のざわめきが、遠い。石畳に跪かされたまま、俺は薄く目を開ける。処刑台を見下ろす貴賓席。金糸の礼装。扇で口元を隠した貴族たちは、今日の見世物に退屈を紛らわせている。誰かが笑った。誰かが賭け金の話をしていた。首が落ちるまでの秒数を、酒杯を傾けながら数えている。十年仕えた宮廷魔術師の最期が、彼らにとっては午後の余興ひとつ分の価値しかない。

「反逆者、宮廷魔術師レオン。最後の言葉はあるか」

執行人の声が頭上から降ってくる。俺は答えない。答える価値がない。身に覚えのない罪、書き換えられた証言、用意された筋書き。十年、この帝国に忠誠を誓ってきた男に対する返礼がこれか。舌の根は乾き、縛られた手首には縄の跡が赤く滲んでいる。喉の奥には、昨夜の地下牢で無理やり流し込まれた自白薬の苦味がまだ残っていた。

視線を上げる。貴賓席の中央、皇女セルフィーネ。かつて俺の腕の中で笑っていた女が、今は人形のように座している。視線すら、合わせない。春の夜会で俺の袖を引いた指先、氷菓を分け合ったあの午後、耳元で囁かれた他愛ない秘密——すべてが、今日のこの距離に塗り潰されている。

——ああ、そうか。

諦めではなかった。ただ、理解した。

刃が、落ちる。

首筋に金属の重みが食い込んだ、その刹那。

脳の奥で、閂が外れる音がした。忘れていた景色が濁流となって流れ込んでくる。白亜の塔。神々と対峙した夜。自らの手で封じた扉。——前世。俺が俺でなかった頃の、神代の記憶。星を砕く術。大陸を裂いた怒り。そして、その果てに灰になった名もなき村々。記憶の一つひとつが焼印のように脳裏に刻まれていく。

「……思い出した」

呟きが、唇からこぼれた。

古代術式が、意志の介在なく自動で組み上がる。誰にも感知されぬ速度で、術陣が足元に展開した。処刑場を、白い光が呑み込む。

瓦礫の匂い。焦げた布の匂い。そして、微かに甘い——魔力が大気を焼いたあとに残る、鉄と花の入り混じったような匂い。

目を開けると、処刑台は崩れ、執行人は吹き飛ばされて壁に貼りついていた。衛兵たちは人形のように倒れ伏し、誰一人として血を流していない。術が選別した。殺すべき者は、ここにはいないと。

俺は自分の掌を見下ろす。鎖はとうに砕けていた。指の関節を一つずつ曲げてみる。痺れはない。むしろ、身体の芯から何かが湧き上がってくる感覚。十年ぶんの澱が、一息で洗い流されたような軽さ。肺に吸い込む空気さえ、昨日までとは別物だった。宮廷の香木でもなく、地下牢の黴でもない。焼けた石と、割れた結界の残り香。自由の匂い、とでも呼ぶべきか。

「……なるほど」

封印が解けた感触が、指先にある。固有スキル《術式掌握》——前世で俺自身が自分に課した封印。記憶とともに解き放たれた、俺の本領。

試しに、初級魔法を一つ。《火花》。子供でも扱える、指先に小さな灯を点す術。

詠唱はいらない。思い描くだけで、術式が完成する。

——ドン、と。

放った先の石畳が、半径三メートルにわたって抉れた。白い粉塵が舞い、剥き出しになった地脈が青く光っている。本来なら蝋燭一本分の威力しかない術が、数十倍に増幅されていた。空気が震え、遠くの窓硝子が砕ける音が連鎖していく。

「……初級で、これか」

笑いが漏れた。久しく忘れていた種類の、獰猛な笑みだった。口の端が自然と吊り上がり、頬の筋肉が軋む。十年間、宮廷で浮かべ続けた貼り付けたような微笑とは、まるで別の表情だった。顔の筋肉が、本来の形を思い出していく。仮面を剥いだあとの皮膚がひりつくように、頬の内側がじんと熱を持った。

遠くで、追討の鐘が鳴り始める。反逆者逃亡の合図。帝都全域に衛兵が展開されるだろう。上空には飛竜隊、地上には近衛。俺一人を狩るために、帝国は惜しみなく戦力を注ぐはずだ。

結構なことだ。

俺は崩れた処刑台の縁に腰を下ろし、指先で地脈の光をつついた。青い燐光が、生き物のように指に絡みつく。脈打つ光は俺の体温に反応し、記憶の底に眠っていた無数の術式を次々と浮かび上がらせていく。

「帝国ごと、灰にできるな」

冷静な算段として、そう思った。皇城の防御術式は記憶にある。皇帝の護符の弱点も、皇女の使う魔導具の系統も。今の俺なら、半日で帝都を焦土に変えられる。城壁の要石がどこに埋まっているか、結界の綻びがどの刻限に広がるか、すべてが手に取るように分かる。

——だが。

視界の端で、貴賓席だった場所の瓦礫が崩れる。そこから這い出してきたのは、礼装を埃で白く染めた、あの女だった。

セルフィーネ。皇女は、俺と目が合った瞬間、初めて表情を動かした。恐怖でも、驚きでもない。その瞳の奥に宿っていたのは、もっと別の——追い詰められた者だけが浮かべる、切実な何かだった。

「……逃げて」

唇が、そう動いた。声にならない声で、確かにそう告げた。

俺は動きを止めた。

処刑台の上、散々浴びせられた無表情。貴賓席の沈黙。あの時間が、嘘だったと言わんばかりの二文字。奴は俺を見つめ、一度だけ、ゆっくりと首を横に振った。まるで、何かを詫びるように。指先が、ほんのわずかに震えていた。その震えを隠すように、彼女は両手を膝の上で固く握り合わせる。白い手袋の甲に、赤黒い染みが滲んでいた。自分の爪で、掌を裂いていたのだと気づいたのは、一拍置いてからだった。

——何があった、お前に。

問い質したい衝動を、理性が押さえつけた。前世の記憶が、警鐘のように脳裏で鳴っている。かつて俺は、怒りに任せて神代の戦場を焼き払った。その結果、失ったもの。取り返しのつかなかった犠牲。守りたかった者の名前さえ、灰の中に紛れて二度と呼べなくなった。力任せの復讐は、必ず自分自身を滅ぼす道だ。

俺は立ち上がる。埃を払い、処刑台に背を向けた。

皇女の姿は、もう振り返らない。振り返れば、きっと問い詰めてしまう。問い詰めれば、きっとまた同じ過ちを繰り返す。

崩れた市壁の隙間から、外へ抜け出る。下水道を伝い、貴族街を迂回し、日が傾く頃には帝都の郊外に出ていた。追っ手の気配は、術で常時ぼかしている。俺の姿は、今の衛兵たちには風景の一部にしか見えない。すれ違った巡回兵が、俺の肩をかすめながらも何も気づかず通り過ぎていく。

街道沿いの岩陰に腰を下ろし、俺は石ころを一つ拾い上げた。《術式掌握》で、その石の内部構造を読む。鉱物組成、微細な魔力の流れ、結晶の歪み。全てが、手のひらの上で図面のように展開される。

「……やれやれ」

前世でこの境地に至るのに、俺は何百年かけただろうか。今はただ、石を握っただけで答えが出る。時間という概念が、ひどく安っぽく感じられた。

力は、十分すぎるほどにある。だからこそ、使い方を間違えてはならない。

帝都へ直接斬り込む——最も愚かな選択だ。皇帝の首を取ったところで、帝国という怪物は死なない。権威、経済、軍事、信仰。奴らが拠って立つ柱は幾重にも張り巡らされ、一本折っても別の柱が支える。首をすげ替えるだけでは、明日には新しい無実の男が同じ処刑台に引き出されるだけだ。

ならば、下から喰い破るしかない。

辺境で名を上げる。冒険者として、誰にも文句を言わせぬ実績を積み上げる。人脈を作り、資金を集め、情報を掌握する。そして、いずれ——玉座の前に立つとき、俺は皇帝自身に跪かせる。

位を奪うのではない。権威そのものを、内側から崩す。

それが、理不尽への最も優雅な報復だ。

俺は石を放り、立ち上がった。街道の先、地平線に霞む山脈。その向こうに、帝国の支配がまだ薄い自由都市ヴェルドがある。辺境の冒険者ギルド——そこが、俺の戦場の入口だ。夕陽が山の稜線を赤く縁取り、風は乾いた土と遠い海の気配を運んできた。

「……さて、何と名乗るか」

歩き出しながら、独りごちる。レオンの名は、今日で一度死んだ。次に大陸がこの名を聞くときは、別の冠を被っていなければならない。

背後で、帝都の鐘がまだ鳴っている。逃げた反逆者を捜す、焦りの鐘。

俺は振り返らず、唇の端だけで笑った。

——三ヶ月だ。

それだけあれば、十分。

その夜、帝都の執務室で、一人の老宰相が処刑場の被害報告を読み上げていた。死者ゼロ、負傷者多数、処刑囚の遺体は発見されず。皇帝は応えず、ただ机の引き出しから、漆黒の鍵をゆっくりと取り出した。

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