第2話
第2話
具足の擦れる音は、次第に形を持ち始めていた。
ガチャリ、ガチャリ──その音に混じって、ぼそぼそと交わされる男たちの訛りのきつい話し声、土を引きずるような草鞋の摩擦音、どこか遠くで拍子木に似た木鉦の響き。颯太の鼻先には、先ほどの獣脂の匂いに加えて、厩の藁と馬糞、汗ばんだ男の体臭、そして煮炊きの煙が薄く漂い込んでいた。煙の中には、米の匂いはなかった。稗か、粟か──穀物の香ばしさとは言い難い、もっと青くさく、土に近い匂い。
頬に触れているのは、もはや銀座の冷たいタイルではなかった。
ざらり、とした感触。固く踏み固められた土に、藁屑が混じっている。湿り気は少なく、代わりに細かな砂粒が唇の端に貼り付いていた。颯太はその違和感に、ようやく瞼を開いた。
目に入ったのは、黒く煤けた梁だった。
蛍光灯ではない。木だ。太い松の梁が、低い天井を斜めに横切り、その上に藁葺きの裏側が覗いている。節穴から漏れ入る光は、白ではなく、薄い蜂蜜のような色をしていた。朝日、と気づくまでに数瞬かかった。梁の端には煤けた縄が吊るされ、その先に欠けた素焼きの皿が一枚、頼りなく揺れている。
颯太は半身を起こそうとして、その手の大きさに息を呑んだ。
小さい。指が、細い。爪の間には黒い土が食い込み、手の甲には赤く腫れた霜焼けの跡があった。手首は子供のように頼りなく、骨が皮膚を押し上げている。前世で二十六年間包丁を握り続けてきた、あの節くれ立った太い指ではない。二十五本の骨切りを正確に刻んできた、あの指ではない。
息が浅くなる。颯太は自分の胸元に視線を落とした。垢染みた麻の襤褸が、痩せた肋骨に貼り付いている。帯代わりの縄は腰骨に食い込み、裾からは棒のように細い臑が突き出ていた。
──これは、俺の体では、ない。
土間の隅に置かれた水桶を見つけ、颯太は這うようにしてそこに近づいた。膝が震えた。足の裏の皮膚は厚くひび割れ、親指の爪は半分剥がれかけていた。桶の水面は濁っていたが、それでも、顔の輪郭は映った。
十二、三の少年の顔だった。
頬はこけ、目は落ち窪み、唇はひび割れて白く粉を吹いている。髪は短く、前髪を藁で結わえたような不格好な切り方。目だけが──その落ち窪んだ瞳だけが、颯太自身のものだった。闇の底で最後に見た、あの枯れた眼差しが、今、まるで違う少年の顔の奥からこちらを見返している。
水面に向かって、颯太は声にならぬ声で呟いた。
「……嘘、だろう」
声は、少年のそれだった。まだ変声期前の、かすれた少年の。
その時、板戸の向こうから、けたたましい物音が響いた。
「起きとるかァ、藤吉!」
藤吉──その名が、自分に向けられたものだと気づくまでに、また数瞬かかった。颯太は慌てて桶から顔を離す。水面に滴が落ち、映った少年の顔が歪んだ。
板戸が蹴り開けられた。
吹き込んできたのは、冷たい朝の風と、饐えた汗の匂い、そして数人分の荒い息遣いだった。土間に踏み込んできたのは、自分より少し年嵩の、しかし同じように痩せこけた少年たちだった。四人。いや、五人。一番前の少年は、右の頬に古い痣を残し、片手に欠けた木椀を握っている。皆、腰に布を巻いただけの粗末な身なりで、足には縄で縛っただけの藁沓。背丈は自分より頭ひとつ高いが、骨の浮き方はどの顔も同じだった。
「昨日からずっと寝腐っとるやろが。昨夜の粥も食わんで、どうした。病か」
頬に痣のある少年が、椀を突き出してくる。木肌は煤け、縁は欠け、内側には前に啜った粥の跡が白く乾いていた。
「今朝の分、おまえの番やろ。早う炊け。皆、腹ァ減って死にそうじゃ」
炊け、と言われても──颯太の頭は、白く軋んだ。
目の前の土間の奥には、粗末な竈が一つ。黒く煤けた鉄鍋。その脇には、欠けた笊に盛られた稗と、しなびた根菜が数本、そして藁で縛られた山菜の束。水甕は半分ほど、底の方で濁っている。塩壺らしき小さな素焼きの器には、灰色がかった粗塩が指二本分ほど。
それが、全てだった。
五人分の、朝餉。
颯太の前世の記憶は、この光景の前で、呆然と立ちすくんでいた。〈瑞雲〉の厨房には、真空パックされた明石の鯛があり、北海道の昆布があり、石臼で挽きたての山葵があった。冷蔵庫を開ければ、世界中の食材が眠っていた。ここには、何もない。稗と、山菜と、粗塩と──それだけ。
「聞いとるんか、藤吉」
別の少年が、颯太の肩を小突いた。細い指先だったが、痩せた肩にはそれでも衝撃がずしりと響いた。颯太はよろめき、竈の脇の柱に手をついた。その柱の木肌は、長年の煙に燻されて黒飴のように艶を帯びていた。指先に伝わる木目の凹凸が、奇妙に生々しかった。掌の下で、柱はひんやりと、しかしどこか人肌のような温もりを残していた。幾人もの手が、同じように縋ってきたのだろう──そう思わせる、磨り減った窪みがそこにはあった。
頭の中で、いくつもの問いが渦を巻いていた。ここは、どこだ。いつの、時代だ。藤吉とは、誰だ。俺は、なぜ、この少年の体に。
だが、問いを口にしたところで、答える者は誰もいないと、颯太は本能的に悟っていた。下手に「俺は結城颯太だ」などと口走れば、どうなるか──発狂したと見做されるか、物の怪憑きとして打ち殺されるか。前世の知識が、その程度の見当はつけさせてくれた。時代劇でしか知らぬ世界だが、それでも、ここが現代でないことだけは、肌が理解していた。
板戸の隙間から、更に遠くの音が滑り込んでくる。
法螺貝。微かな、しかし確かに腹の底を突くような、低い音。それに続いて、馬のいななき、鉄砲ならぬ──槍か、具足か、金属のぶつかる音。どこかの館から、陣触れのような男の怒鳴り声。
ここは、戦の世だ。
颯太の背筋を、冷たいものが走った。
「藤吉! おい!」
痣の少年が、ついに椀を土間に叩きつけた。乾いた音が響き、粥の残滓が飛び散る。
「おまえがやらんなら、わしがやる。じゃが、そん時ァ、おまえの分の椀はないぞ。昨日みたように、雪駄頭の衆が戻ってきたら、真っ先にどやされるんはおまえじゃ。わしらまで巻き添えは御免じゃ」
その言葉の背後には、明らかに、彼ら自身の切実な空腹があった。怒鳴ってはいるが、目は怒っていない。ただ、疲れ、飢え、怯えていた。昨日、自分が粥を炊かなかったせいで、この少年たちは空きっ腹のまま寝たのだ──颯太は、藤吉という少年の体に残された微かな記憶の残り香から、そう察した。
喉の奥が、きゅっと締まった。
前世で、自分は、後輩の川村に「あと一年、耐えろ」としか言えなかった。ロッカーの隙間から漏れていた、あの安物のデオドラントの匂いが、不意に鼻の奥に蘇る。あの時、自分は、同じように疲れた仲間に、何もしてやれなかった。言葉を飲み込んだまま、背を向けて持ち場に戻った自分の、あの重い足音までが、今この土間の静けさの底から立ちのぼってくるようだった。
今、目の前にいるのは、名も知らぬ戦国の少年たちだ。だが、その落ち窪んだ目は、川村と同じ目をしていた。
颯太は、竈の前に膝をついた。
膝頭が土間にめり込むように痛んだが、構わなかった。笊の中の稗を指ですくい上げる。黒ずみ、虫食いの跡があり、ところどころに小石が混じっている。しなびた根菜は、大根らしき何かと、野蒜、それから見覚えのない根茎。山菜の束は、蕨と、薇と──薄く泥のついた、ぬめりのある葉。
指先が、震えた。
前世の知識で言えば、これらは下処理の前に捨てられる屑に近い。だが、ここでは、これが全てだ。これで、五人の腹を満たさねばならない。塩は指二本分。火は、藁で熾す。鍋は、一つ。
炊け、と少年は言った。
──炊く以外に、道は、ない。
颯太は、ゆっくりと息を吸った。土間に満ちる煙と汗と土の匂いが、肺の奥まで染み込んでくる。その匂いの中に、微かに、本当に微かにだが、稗の胚芽の甘さが混じっていることに、彼の鼻は気づいていた。前世の、あの過労で潰れかけた鼻が、今、この痩せた少年の体の中で、むしろ鋭敏に研ぎ澄まされている。
笊を引き寄せ、稗を指先で選り分け始める。小石を弾き、虫食いを除け、黒ずみの酷いものを脇に寄せる。その手つきは、少年・藤吉のものではなかった。二十六年間、まな板の前に立ち続けた料理人の、染み付いた所作だった。
痣の少年が、息を呑むのが分かった。
「……おまえ、その手つき、どこで覚えた」
颯太は答えなかった。答えられなかった。
ただ、指先が、独りでに動いていた。稗の一粒一粒の固さを、指の腹が読み取っていく。山菜の束に手を伸ばし、蕨の根元の固い部分を爪で弾いて確かめる。根菜を一本取り上げ、その泥の匂いを嗅ぐ。脳裏で、何かが──前世の全ての経験と、この時代の乏しい素材が、音もなく重なり合おうとしていた。
竈の奥で、消えかけた熾火が、一つ、赤く息を吹き返した。
その小さな赤を、颯太は、じっと見つめた。
遠くで、再び法螺貝が鳴った。