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信長の膳番──戦国料理道

第3話 第3話

第3話

第3話

熾火の赤は、息を潜めて颯太の瞳の奥に映っていた。  法螺貝の余韻が藁葺きの天井を震わせ、土間の隅に吊るされた素焼きの皿がかすかに揺れる。その揺れが止むのを待つように、颯太は稗の笊を膝元へ引き寄せた。指先は、もう震えていなかった。少年の痩せた指の関節が、前世の所作を思い出そうとしているのか、それとも初めから知っていたのか──その境目が、自分でももう判然としなかった。 「藤吉……?」  痣の少年の声が、背後で低く沈んだ。さっきまでの怒鳴り声ではない。何か、見てはならぬものを覗き見てしまった者の、掠れた戸惑いだった。他の四人も、板戸の脇に立ちすくんだまま、颯太の手元から目を離せずにいる。朝の薄い蜂蜜色の光が、彼らの肩越しに土間へ斜めに差し込み、舞い上がった塵の一粒一粒を金色に染めていた。  颯太は答えなかった。答える言葉を持たなかった。ただ、鼻の奥に微かに立ち上ってくる稗の胚芽の匂い、山菜の根元に残る土の湿り気、しなびた根菜の芯に残された僅かな甘み──それらが、脳裏で一本の糸に縒られていくのを、ただ感じていた。  そして、その瞬間が来た。  後頭部の奥で、何かがほどけるような音がした。音、と言っても耳で聞こえたわけではない。ずっと強張っていた帯が、すとん、と床に落ちるような感覚。目の前の稗、山菜、根菜、粗塩、濁った水甕、欠けた鉄鍋──そのすべてが、一つの設計図として、颯太の視界に重なって見えた。

 黒ずんだ稗は、まず笊に広げて小石と虫食いを取り除く。水甕の水は上澄みだけを静かに掬う。一度軽く煎って青臭さを飛ばしてから、水を張った鍋に入れる。火加減は、熾火を藁で呼び戻し、最初は強く、沸いたら弱く。蕨は根元の固い節を落とし、灰を一抓み揉み込んで軽く湯通しすれば、乏しい塩の代わりに土の苦味を引く。薇はぬめりを潰さぬよう、指の腹でだけ扱う。根菜の泥は爪で削ぎ、皮のすぐ下に甘みが眠っているから、削りすぎてはならない。野蒜は根をほんの少し、風味付けに。粗塩は、最後に一度だけ。鍋の縁から落とす。  ひとつの工程に迷いがなかった。それは、前世の知識でもなく、藤吉という少年の記憶でもなく、第三の何か──この身体が、この時代の食材と初めて触れ合った瞬間に、勝手に開いた扉のようなものだった。舌に味が浮かんでくる。まだ炊いてもいないのに、完成した一椀の味が、確かに口の奥に広がっていた。稗の甘み、根菜の芯、蕨のほろ苦さ、そして最後の塩が、すべての輪郭を一度だけ締める──。 「……湯だ」  かすれた声で、颯太は呟いた。 「湯を、少し。温い程度でいい。稗を浸けてから煎る」  痣の少年──あとで耳に入ってきた名は市助というらしかった──が、ぽかんと口を開けたまま、しかし足は勝手に動いていた。外の瓶から水を汲み、欠けた土瓶を熾火の脇に寄せる。他の少年たちも、命じられたわけでもないのに、一人は藁を抱え、一人は竈の灰を掻き出し、一人は板戸を半ば閉めて風を調える。五人の影が、一つの竈のまわりで、静かに形を変えていった。誰かの草鞋が土を擦る音、藁が擦れるかすかな悲鳴、灰がさらさらと崩れ落ちる音──そのどれもが、不思議と重ならぬ拍子で土間に落ち、颯太の指の動きに寄り添うように、ひとつの静かな調べを編み始めていた。  颯太は稗を選り分け、軽く煎った。ぱち、ぱち、と黒い粒が鍋底で跳ね、青くさい匂いが一瞬だけ立ち、すぐに香ばしさへと裏返った。そこへ水を注ぐ。じゅう、と低い悲鳴のような音がして、湯気が顔を撫でた。その湯気の中に、颯太は確かに、前世の厨房では一度も嗅いだことのない香りを嗅いだ。乏しさの底から立ち上る、土と穀物の、嘘のない匂いだった。胸の奥の、ずっと塞がれていた小さな穴に、その香りがすっと沁み込んでくる。前世で、油と出汁と香辛料に慣れきった鼻の粘膜が、この時代の素朴な熱気に一度だけ、ひりりと痺れた。まぶたの裏がじんわりと熱くなり、颯太は自分でも気づかぬうちに、ほんのわずか唇を噛みしめていた。  蕨を灰で揉む。指先に灰の乾いたざらつきと、蕨の青い汁のぬるみが同時に絡みつき、爪の際がじんと黒く染まる。薇を指の腹で整える。薄い繊毛が皮膚をくすぐり、触れるたびに、冷えた沢の水をそのまま握っているような涼やかさが掌に広がった。根菜は薄く、しかし皮の内側を残して切る。包丁ではない。欠けた鉈のような刃物だった。柄はぐらつき、刃先は錆びていた。それでも、颯太の手の中で、その鈍い刃は、〈瑞雲〉の柳刃と同じ従順さで動いた。刃が根菜を裂くたび、淡い乳色の切り口から、かすかな甘い香りが立ち上った。  鍋の中で、稗が踊り始める。颯太は火を落とした。藁を一本だけ抜き、熾火を細く保つ。強い火で煮立てれば、この乏しい穀物の甘みは逃げてしまう。弱い、弱い火で、じっくりと、芯まで湯を含ませる。その間に、山菜を鍋の縁に寄せ、最後に根菜を沈める。野蒜は、火を止める直前。  市助が、土間の隅から囁くように言った。 「……おまえ、昨日までの藤吉じゃ、ねえな」  颯太は顔を上げなかった。ただ、鍋の中を見つめたまま、ほんの僅か、頷いた。それが肯定なのか、否定なのか、自分でも分からなかった。胸の奥で、何かが小さく軋んだ。前世の名も、この身体に刻まれた名も、今この瞬間には等しく遠く、ただ「作っている者」という一つの輪郭だけが、熾火の明るみに照らされて残っていた。  粗塩を、最後に一度だけ、鍋の縁から落とした。

 ──匂いが、立った。  それは、土間の天井を越え、板戸の隙間を抜け、藁葺きの裏を這い、外の冷たい朝の空気の中へ、細く、しかし確かに、伸びていった。稗の甘み、根菜の芯、山菜のほろ苦さ、そして粗塩が引き締めた輪郭──乏しい素材の、その乏しさの底を丁寧に掘り起こした者にしか立ち上らせられぬ、一椀の湯気。颯太自身、鼻の奥で思わず息を呑んだ。これは、前世のどんな出汁の香りとも違う。土と、火と、人の手だけで生まれた、剥き出しの旨味だった。  五人の少年たちは、もう一言も発さなかった。ただ、竈のまわりに膝を落とし、鉄鍋の縁から立ち上る湯気を、まるで何か祈りでも眺めるように見つめていた。市助の喉が、こくり、と動いた。痣の下の頬が、火の明かりを受けて、少しだけ赤らんでいた。  颯太は、欠けた木椀に一杯目を掬った。市助の手に、そっと渡す。木椀が市助の掌に収まった瞬間、その細い指先がびくりと強張り、椀の縁を取り落とすまいと両手でしっかりと包み直すのが見えた。市助は受け取って、しばらく椀の湯気を見つめ、それからおそるおそる唇を寄せた。  一口。  市助の眉が、震えるように寄った。痩せた肩がぴくりと跳ね、喉仏が大きく上下した。二口目を啜った時、その目尻に、薄く、光るものが滲んだ。言葉にはならなかった。ただ、椀を両手で包み込み、湯気に顔を埋めるようにして、しゃくり上げそうになるのを堪えていた。椀を握る指の関節が白くなるほど力が籠もり、痩せた背が一度、小さく波打った。喉の奥から、「……あ」とも「……う」ともつかぬ、掠れた吐息だけが漏れた。それは言葉ではなく、ただ生きている者が熱い一口を受け止めた時の、身体そのものの返事だった。他の少年たちも、次々と椀を受け取っては、無言のまま啜り始めた。土間に、ずず、ずず、と控えめな音だけが満ちていった。誰も、何も言わなかった。言う必要が、なかった。  颯太は自分の分を掬わぬまま、竈の前で、ただその音を聞いていた。胸の奥で、前世の川村の顔が、ふと浮かんで、消えた。「先輩、俺もう限界っす」と笑ったあの日、自分が差し出せなかった一椀が、今、この時代のこの土間で、別の飢えた者たちの喉を通っている。その事実だけが、颯太の奥で、冷たい熾火のように、じっと赤く燃えていた。目の縁が熱くなりかけたが、颯太は瞬きひとつでそれを奥へ押し戻した。泣くのは、まだ早い。まだ、この一椀は始まったばかりなのだ。  ──その時だった。  土間の外、板戸のすぐ向こうで、草鞋の音が、ふと、止まった。  一人分。具足の擦れる音が、微かに、一度だけ鳴った。颯太は顔を上げた。板戸の隙間から差し込む朝日の中、立ち止まった人影の輪郭が、薄く、長く、土間の内側まで伸びていた。  その人影は、動かなかった。  ただ、湯気の匂いの行方を追うように、一度だけ、深く、鼻から息を吸う気配があった。板戸の向こうで、低い、しかしどこか抑えきれぬ響きを帯びた男の声が、短く、こう呟いた。 「……この匂いは、何じゃ」  颯太の背筋に、ぞわりと、名状しがたいものが走った。まだ顔も知らぬ。名も知らぬ。けれども、その一声の底に沈んでいる何か──焦れたような、飢えたような、そして、面白がるような、あの奇妙な熱──を、颯太の料理人の勘が、真っ先に嗅ぎ取っていた。  竈の熾火が、もう一度、赤く、大きく、息を吹き返した。

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