Novelis
← 目次

黴の聖女、巻き戻る

第2話 第2話

第2話

第2話

すぐ後ろ、と気づいた瞬間、息ができなくなった。

 振り返ってはいけない。そう、誰かがうなじの産毛を撫でるようにして囁いた気がした。けれど、振り返らずにいることもできなかった。首の骨が、私の意志とは関係なく、ぎこちなく回っていく。関節のひとつひとつが、錆びた蝶番のように鈍く軋む。耳の後ろで、自分の髪が擦れる音さえ、他人のもののように遠かった。  回廊には、誰もいなかった。  ただ、床の石畳の継ぎ目に、小さな黒い珠がひとつ、ぽつんと置かれていた。さっき、祭壇の影に吸い込まれていった、私の数珠の珠だ。吸い込まれた筈のものが、吐き出されて、私の足跡を追いかけて、ここまで来ている。珠の表面には、回廊の高窓から落ちる細い光が、針の先ほどの白い点になって宿っていた。その点が、まるで瞳のように、じっと私を見上げている気がした。  拾わなかった。拾えなかった。指を伸ばしかけて、指先が珠の上の空気に触れた途端、そこだけが井戸の縁のように冷たく、慌てて引き戻した。  代わりに、私は駆け出した。礼拝堂の裏手の狭い階段を、裾を踏みそうになりながら昇る。石段のひとつひとつが、私の踵を受け止めるたびに、下から舌打ちのような乾いた音を返してきた。息が上がって、耳の奥で自分の鼓動が鐘のように響く。自室の扉に飛び込み、内側から掛け金を落とす。三度、失敗した。指が震えて、鉄の棒が金具の縁を滑る。滑るたびに、甲高い、引っ掻くような音がして、それが廊下の奥にまで届いてしまう気がして、喉の奥で小さく悲鳴を噛み殺した。四度目にようやく、鈍い音を立てて掛け金が落ちた。  壁に背を預けて、ずるずると床に座り込む。膝の間に顔を埋めても、あの湿った息遣いが、まだ耳の底に貼り付いていた。寝巻きの胸元を握りしめた指が、自分の肌の冷たさに驚いて、また震えた。

 日が暮れるまで、私は部屋から出なかった。晩課の鐘が鳴っても、出なかった。鐘の音は、いつもなら胸の奥まで染み込んでくる筈なのに、今日はただ、石壁の外側を滑って通り過ぎていくだけだった。いつもならすぐに叱責が飛んでくる筈なのに、誰も私を呼びに来なかった。それが、かえって恐ろしかった。忘れられているのではなく、最初から居なかったことにされているのではないか――そんな思いが、受付の名簿の黒い滲みと重なって、胸の奥で冷たく凝っていく。  小さな窓から差す光が、赤から紫へ、紫から藍へと沈んでいく。石壁に映る私の影が、だんだんと縁を失って、壁そのものに溶けていくようだった。指を一本、影に重ねてみる。影の指は、私の指より、ほんの少しだけ長く伸びている気がした。私は膝を抱えたまま、自分の影が完全に夜に呑まれるのを、ただ見ていた。呑まれきる最後の一瞬、影は私に別れを告げるように、ふっと薄く身じろぎしたように見えた。  卓の上の水差しから、水を一口だけ飲んだ。舌の上に、あの祭壇の奥で嗅いだ、古い井戸の底の味がした。苔と、鉄と、腐りかけた花弁の、ない交ぜになった味。喉の奥で、それがねっとりと絡みつく。吐き出そうとして、呑み込んだ。吐き出せば、何かと取り引きが成立してしまう――朝と同じ、根拠のない確信だけが、喉を無理に下らせた。呑み込んだ水が、胃の底で、もう一度、小さく跳ねた気がした。

 真夜中、私は自分の悲鳴で目を覚ました。  いや、悲鳴だったのかどうかも、定かではない。喉の奥で、声にならない何かが一度だけ、ひゅっと鳴った。それだけだ。蝋燭はとうに消えている。窓の外の月明かりが、床の上に青白い長方形を一枚、敷いていた。長方形の縁は、ひどくくっきりしていて、まるで誰かが刃物で切り抜いた紙のようだった。  起き上がろうとして、私は気づいた。  部屋の隅、扉の脇に置かれた古い姿見。朝にはただの埃をかぶった板硝子にしか見えなかったそれが、今は、月の光を集めてぼんやりと輝いている。鏡の面に、ひとつだけ、白いものが浮かんでいた。  私の顔だった。  寝巻きの襟元を緩めたまま、髪を乱して、青白い頰を晒した、私自身の顔。けれどその目が――その目だけが、私を見ていなかった。鏡の中の私は、こちらをまっすぐに見ているようでいて、その視線は私の、もう少し後ろ、うなじのあたりに据えられている。まるで、私の背後に、もうひとり、別の誰かが立っているのを確かめているかのように。  息を呑む。自分の喉が鳴る音が、部屋の闇を一瞬、強張らせた。  鏡の中の顔が、ほんのわずかに、傾いだ。  私の首は、傾いでなどいない。

 胸の奥で、ちりり、と小さな熱が灯った。最初はそれが何か、わからなかった。寝冷えだろうか、心の臓が早鐘を打ちすぎて痺れたのだろうか。けれど熱は、瞬くうちに広がった。左の鎖骨の下、肋のくぼみの奥。かつて聖女の儀で聖痕を授けられた、あの場所。あの日、老司祭の乾いた指が、冷たい油とともに押し当てられた、その一点。  焼けた鉄を、皮膚の内側から押し当てられているようだった。熱は、内側から外へ滲みるのではなく、外から内へ、深く、深く、押し込まれていく。骨の髄が、蝋のように柔らかくなっていく感覚があった。  私は思わず、自分の胸に手を当てる。寝巻きの布越しに、指が何かに触れる。熱い。熱い、と思うよりも先に、指先のほうが火傷しそうな温度で、びくりと跳ねた。胸の奥の肉が、脈に合わせて、どくり、どくり、と、灯ろうの炎のように膨らんでは縮んでいる。祈りの器だった場所が、今は、何か別のものの灯心に変えられているようだった。  「……いや」と、喉の奥で、自分の声が言った。いや、やめて。そう言いたかったのに、言葉は口の手前で崩れて、ただの息になって散った。  視線を、鏡に戻す。  そして私は、見た。

 鏡の中の、私の顔が、もう私の顔ではなかった。  頰の輪郭が、少しだけ細い。眉の形が、私のものより、もう少し無邪気に跳ねている。唇の色が、血を失った者のそれでいて、けれど、笑みの形に、かすかに持ち上がっていた。私より、たぶん、いくつか年下の――まだ十三か十四の、少女の顔。見たこともない顔だった。けれど、初めて見た顔だとは、どうしても思えなかった。どこか遠い夢の、ずっと奥の方で、この少女と並んで同じ空を見上げたことがある――そんな、言葉にする端から崩れていく記憶の切れ端が、胸のどこかで疼いた。  少女の黒い瞳が、ゆっくりと動いて、今度こそ、私を見た。  瞳の奥には、光が一点もなかった。月明かりを集めているのに、そこだけが、光を拒んで闇を抱え込んでいた。  胸の聖痕が、悲鳴のように熱を放った。 「――あ、」  私は膝をつく。ついた膝が、床の青白い月の光を割る。胸を掻き毟りたいのに、腕が上がらない。息が吸えない。吐けない。喉の奥で、あの祭壇の湿った息遣いが、今度は私自身の中から漏れていた。吸って、吐いて、吸って――人のものにしては、間合いが長すぎる、あの呼吸。私の肺が、私のものでない誰かの肺と、ひとつの鞴を分け合っているような、嫌な同調だった。  鏡の中の少女の唇が、ゆっくりと動いた。  声は、聞こえなかった。けれど、その口の形を、私の耳の奥に、誰かが当てはめた。骨を内側から叩くようにして、言葉が形になっていく。

 ――エリィ。

 私の名だった。もうどこにも記されていない、受付の名簿から消えてしまった、あの名だった。少女の唇は、もう一度、同じ形を結ぶ。今度は、ほんの少しだけ、嬉しそうに。  ――エリィ。こちらへ。  月明かりが、ぐらりと傾いだ。いや、傾いだのは私のほうだ。胸の奥の熱が、背骨を昇り、後頭部の内側で白く弾けた。視界の縁から、墨を垂らしたように黒が染み出してくる。床の石が、頰に触れた冷たさだけが、やけにはっきりと伝わってきて、それからそれも、遠くなった。

 落ちていく。  深い、深い、古い井戸のような闇の底へ。落ちながら、私は聞いていた。水音のしない水の中を、沈んでいく自分の衣擦れの音を。黴と、蝋と、湿った土の匂いを。遠くで、誰かが数珠をひと粒ずつ数えている音を。数える指は、急いでも、焦ってもいなかった。ただ、ひと粒、ひと粒、確かめるように、丁寧に、私の落下の速度と、ぴたりと同じ拍子で数えていた。  ――エリィ。  声が、ようやく、耳に届いた。少女の声ではなかった。もっと低い、けれど、少女の声とどこかで同じ喉を使っている、そんな声。私の名を呼ぶ、その呼び方には、奇妙な馴染みがあった。何度も、何度も、この呼び方で呼ばれたことがある気がした。忘れている筈のない声を、忘れていた。忘れていたことすら、今の今まで、忘れていた。  闇の底で、誰かの手が、私の頰に触れた。  冷たくも、熱くもなかった。ただ、確かに――覚えのある、手だった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ