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黴の聖女、巻き戻る

第1話 第1話

第1話

第1話

夜明け前の鐘が鳴らぬまま、聖堂のオルガンが、低く、長く、鳴り始めた。

 私は祭壇の前で、数珠を握ったまま凍りついていた。辺境の修道院に流されて、今日で七日目になる。オルガンに触れる者など、誰もいない。司祭は朝課の前に井戸へ水を汲みに出たきりで、同じ棟にいる筈の見習い修道女たちの気配も、まだ遠い。  音は、ひと息ぶん伸びて、途切れた。  それからまた、ひと息。  誰かの、呼吸のように。

 息を殺して振り返る。祭壇の奥、聖母像の背後には、分厚い石の壁があるきりだ。蝋燭の炎が、風もないのに一度だけ大きく揺れた。炎の縁が青く尖り、燭台の溶けた蝋が、まるで涙のように縁から一滴、石の受け皿へ落ちる。その音さえ、いやに大きく耳に届いた。黴の匂いと、蝋の匂いと、もうひとつ――湿った土のような、古い井戸の底のような匂いが、鼻の奥に貼り付く。舌の上にまで、鉄気を含んだ水の味が滲んでくる気がした。  私は聖女だった。婚約者は王太子で、民は私の祈りを空に等しいものとして崇めた。昨日までの話だ。断罪の広間で、王太子は私の手から聖印を剥ぎ取り、令嬢たちは扇の奥で笑った。あの扇の縁飾りの揺れ方まで、瞼の裏に焼き付いている。審問も弁解もなく、馬車は夜通し走り、気がつけばこの石と黴の匂いの中にいた。車輪が跳ねるたび、胸の奥で何かが少しずつ剥がれ落ちていくのを、私は黙って数えていた。  祈りなさい、と年老いた院長は言った。ここでは、祈ることだけが許されている、と。  許されている。その言い方が、今になって、奇妙に耳に残る。許す、という言葉には、裏返せば「それ以外は許されていない」という影がある。院長の乾いた唇が、あの時わずかに笑ったようにも見えたのを、私は今さらのように思い出していた。

 オルガンが、三度目に鳴った。  今度は音階の欠片にもならない、ただの唸りだった。建物の腹の底から、石畳を震わせて昇ってくる。足の裏から背骨、後頭部へと、冷たい振動が這い上がってくる。私の膝が自然に崩れ、数珠がばらけて床に散った。糸の切れる、ぷつりとした乾いた音を、私は確かに聞いた。珠のひとつが転がって、祭壇の影に吸い込まれる。続いてもう一粒、もう一粒と、まるで何かに呼ばれるように同じ方向へ吸い寄せられていった。  ――拾いに行くのは、よしなさい。  誰かの声がした気がした。院長のものでも、司祭のものでもない。私自身の声でもなかった。もっと若い、もっと細い、少女の声。耳の奥ではなく、首のうしろ、うなじのあたりで直接囁かれたような、そんな近さだった。

「……どなたか、いらっしゃいますか」

 自分の声が、思ったよりずっと掠れていた。返事はなかった。ただ、祭壇の奥の暗がりから、ひたり、ひたり、と湿った息遣いだけが聞こえる。吸って、吐いて、吸って――人のものにしては、間合いが長すぎる。水を含んだ布で口を塞がれたような、ざらりとした音。吐く息のたびに、祭壇の蝋燭の炎がほんのわずかに、こちらへ向かって傾ぐ。風の通り道などない筈の、この閉じた聖堂で。  私は立ち上がった。膝が笑った。石床を踏む音を立てないよう、爪先で後ずさる。背後の扉までの距離を、数えるでもなく数えていた。十歩。八歩。六歩。冷えた石の感触が、靴底越しにじんと沁みてくる。喉の奥がからからに渇いて、唾を飲み込む音が、自分でもぎょっとするほど大きく響いた。  オルガンが、ぴたりと止んだ。  音が消えた瞬間の静けさのほうが、よほど、こわかった。耳の奥で、自分の心臓だけが、どくり、どくり、と、さっきのオルガンの唸りと同じ拍を刻んでいる。

 回廊に出ると、朝の薄明かりが石壁に染み始めていた。安堵する暇もなく、私は受付の小卓に目を留める。巡礼や新参の修道女の名を記すための、古い羊皮紙の名簿が、開かれたまま置かれている。昨夜、院長が自ら羽根ペンを差し出した、あの名簿だ。  私の名は――昨日、自分の手で書いた。  エリィ・ヴェルフェン。かつての聖女。今はただの罪人。インクの乾きが悪く、隣の空白に小さな染みを残したのを覚えている。羽根ペンの先が少し割れていて、「ェ」の跳ねがうまく伸びず、子どもの字のようになってしまったことも。  今、その行には、黒い滲みがあるだけだった。

 まるで墨を一滴、誰かが垂らしたように。  にじみはゆっくりと広がって、文字の形をほどき、読めなくしていく。私は羊皮紙に指先を這わせた。冷たい。乾いている。インクはとうに乾き切って、こすっても移らない。それなのに、私の名前だけが、じりじりと内側から腐っていくように、形を失っていく。指先に触れた紙の繊維は、触れた先から薄く冷気を返してきて、まるで皮膚の温もりだけを選んで吸い取っていくようだった。 「……なに、これ」  声に出した途端、回廊の奥で、ことり、と何かが落ちる音がした。木の実ほどの、小さな音。振り返る。誰もいない。ただ、さっき祭壇の影に転がっていった私の数珠の珠が、磨かれた石の上に、ぽつんと一粒、落ちていた。あるはずのない場所に、まるで私の足跡を追うように。  私は拾い上げなかった。拾ってはいけないと、喉の奥が告げていた。拾えば、何かと取り引きが成立してしまう――そんな、根拠のない確信だけが、胸の底に重く沈んだ。

 階段を昇り、自室の扉を閉める。掛け金を落とす指が震えて、二度、失敗した。三度目にようやく鉄の掛け金が鈍い音を立てて落ち、その音が扉の向こうの回廊へ、長く、長く、尾を引いて消えていった。窓の外では、鴉が一羽、羽音を立てて掠めていく。石壁に背を預け、息を整える。気のせいだ。旅の疲れだ。聖女の位を剥がされた夜から、ろくに眠れていない。祈っていれば、いつかこの心の騒ぎも静まる。そう、自分に言い聞かせる。何度も、何度も、舌の上で転がすように。  けれど、指先に染みついた黴の匂いは、祈りでは、落ちなかった。

 小さな卓の上に、昨夜院長から渡された日課表が置かれている。朝課、昼課、晩課、それから院内の掃除。そこに書かれた私の名は、まだ黒く、くっきりと残っていた。こちらは、消えていない。インクのかすれ具合も、昨夜のままだ。  消えるのは、受付の名簿だけ。外から来た者の名を、まず最初に記す場所。  ――ここに、来た者の記録だけが、順番に、消えていくのだとしたら。  ふと、そんな考えが頭をよぎって、私は自分の両腕を強く抱いた。寒いわけでもないのに、歯の根が合わない。爪が二の腕に食い込んで、そこだけがじわりと熱を持つ。私より前にこの部屋に寝起きしたはずの、名も知らぬ誰か。扉の内側に残る細い引っ掻き傷が、不意に目に飛び込んできて、私は慌てて視線を逸らした。窓の向こうで、ようやく本物の鐘が鳴り始める。朝課を告げる鐘だ。低く、鈍い、正しい音。  それを聞いて、私はかえって確信した。  さっきのオルガンは、この鐘とはまるで別のものが鳴らしていた、と。

 日が高くなっても、院長にも司祭にも、オルガンのことは話さなかった。話してはいけない気がした。口を開いた途端、まだ辛うじて残っている自分の輪郭までもが、するりと滑り落ちてしまいそうで。代わりに、昼の掃除の合間、受付の名簿をもう一度そっと覗きに行った。廊下の角を曲がるたび、自分の足音が、少し遅れてついてくるような、奇妙な気配があった。  私の名は、もう、どこにもなかった。滲みさえも乾いて、ただの古い染みに変わっている。まるで、最初からそんな名前の聖女など、この修道院には来なかったかのように。頁の縁はうっすらと黄ばみ、私が書いた一行だけが、何十年も前から存在しなかったことにされたように、綺麗に均されていた。  そのかわり、頁の下の余白に、見覚えのない細い文字で、新しい一行が書き足されていた。インクはまだ湿っていた。指先をかざすと、ほのかに、墨の匂いではなく、あの祭壇の奥で嗅いだ、古い井戸の底の匂いがした。

 ――よく、いらっしゃいました。

 私は羊皮紙を閉じた。閉じる手が、自分のものではないように、ひどく遠く感じた。指の関節が、誰か別の人間の指のように、ぎこちなく折れ曲がる。背後の暗い回廊の奥で、またひとつ、ことり、と小さな音がした。今度はそれが、祭壇の方ではなく、私のすぐ後ろから聞こえたことに、数秒遅れて気づいた。

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