第2話
第2話
黒衣の男がそう告げた直後、私の意識は一度、波に攫われるように沈んだ。 視界の琥珀色HUDが紅い警告色に塗り替わり、インプラントの冷却系が悲鳴を上げる微細な駆動音を立てた。走査光はとうに途絶えていたのに、左手の紋様はその残光を覚え込んだように、脈拍の倍の速さで明滅を続けている。こめかみの奥、細い針金で内側を引っ掻かれるあの痛みが戻ってきた。今度は一本ではない。何十本もの針金が、頭蓋の内壁を同時に這い回っている。 ──同期失敗。対象領域が過負荷。 ──封印領域、断片的に流入。 封印領域は空白のはずだった。空白に、何が流れ込むというのか。 ジェルに沈めた背中から、かすかに体重が戻ってくる感覚があった。重力制御の擾乱が収束しかけている。それでも頭の芯は、低軌道特有の慣性とは違う揺らぎに翻弄され続けていた。夢の縁で囁いていた古代魔術の残響が、今度はずっと近い場所で鳴っている。耳ではなく、骨の内側で。意味の解けない音韻が、名前の形をとろうとして、とれずに崩れていく。 「──呼吸を、浅く」 男の声だった。命令に近い語調の底に、ほんの一粒だけ案じる色が混じっているのが、薄れていく意識の端で妙にはっきり聞こえた。私は従順にそれに倣おうとした。けれど肺がうまく動かない。視界の四隅から、乳白色のセラミック天井が黒く蝕まれていく。 最後に見たのは、駆け込んでくるシスター・イレーネの修道服の裾が、水の中の水母のようにゆっくり広がる光景だった。
目を覚ました先は、同じ個室ではなかった。 医療隔離区画。天井のセラミックは一段階硬質な青みを帯びていて、通気スリットの数が倍に増えている。抗菌シールドの淡いオゾン臭が、舌の裏に乾いた金属の味を残していた。生体ジェルではなく、今度は薄い樹脂膜の寝台に寝かされていて、胸元と側頭部に診断パッドが張り付いている。貼り付けられた粘着面が、肌の産毛を一本一本数えるように冷たい。HUDの右下には、拒絶反応の鎮静プロトコルが走っていた。紅いフラグは消え、代わりに淡い緑のバーがゆっくりと伸び縮みしている。息を吸うたび、その緑のバーがほんのわずか縮んで、吐くと元に戻る。自分の肺と、他人が書いた制御曲線が、たどたどしく呼吸を合わせていく感触があった。 「三時間、意識が戻りませんでした」 シスター・イレーネが寝台の脇に立っていた。鳶色の目の底に、さっきまでの職業的な慈悲とは違う、もっと素朴な疲労が浮かんでいる。まぶたの縁がうっすら赤い。祈るでも嘆くでもなく、ただ長く寝台の横に立ち続けた者の赤さだった。彼女は水差しから硝子のカップに水を注ぎ、低重力下で丸く震える液面ごと、私の口元に近づけてくれた。ひとくち含むと、喉の乾いた楽器に、ようやく弓が当たる感触があった。水は微かにミネラルの苦みを残し、舌の奥の金属味を少しだけ薄めた。 「拒絶反応が……ひどかったのですね」 「ええ。あなたのインプラントは、封印領域に何かを書き込もうとして、そのたび弾かれていた。普通の人間なら三度で焼け切れる負荷を、あなたは何百回と受けていました」 焼け切れる、という言葉の手前で、彼女は一瞬息を止めた。喉仏が小さく上下したのが、襟元の白い布越しにも分かった。 「焼け切れなかった、ということは、あなたの神経系は、この宙域の標準規格で作られていないということです。私には、そう見えました」 標準規格ではない神経系。その言葉は、私の中の空白にまっすぐ降りていって、波紋も立てずに沈んだ。驚きがない。それが、なによりの答えだった。代わりに、遠い場所で誰かが静かに頷いたような感触だけが、胸の底に残った。 「あの男の人は」 「公爵家の第一使者は、下の階で待機しておられます。あなたの容体が安定するまで、搬送は保留する、と」 保留。追い返した、ではなく。私はその語尾の重さを、ほんの少しだけ測った。聖フェリシアの修道女会が、四公爵家の使者を門前で押し留められるはずがない。ここで時間を稼いでいるのは、シスター・イレーネ自身の意志だ。彼女の指先が、水差しの把手に置かれたまま、ほんのわずかに震えていることに、私はようやく気づいた。 「シスター。あなたは、私が何者か、ご存じなのですか」 問いに、彼女はすぐには答えなかった。代わりに、私の左手を上掛けの上にそっと戻し、指先の紋様にほんの少しだけ視線を落とした。さっき見てはいけないものを見るように逸らしたあの視線が、今度はまっすぐ紋に重ねられている。その眼差しは、恐れでも崇敬でもなく、古い写本の頁をめくる指のように慎重だった。 「知っている、とは言えません。ただ――修道女会の古い典礼の中に、一節だけ、あなたの紋に似た意匠を描いたものがあります。『空白の手に、宙域の記憶が宿るとき、星は一度だけ歩みを止める』」 「……さっきの、重力の歪みのことですか」 「ええ。文献は比喩だと思われてきました。今日まで」 彼女は淡く微笑んだ。救われた者への微笑ではなかった。立ち会ってしまった者の、諦めに近い微笑だった。唇の端がほんの少しだけ持ち上がって、すぐに元の薄い線に戻った。
窓の外、環状リングはいつも通りの速度で回り続けていた。 強化ガラスの向こうで、太陽光を受けた居住区の外壁が、長針のような影を漆黒に落としていく。航行灯の血流もいつも通り。けれど、視界の中でひとつだけ、流れに逆らうものがあった。 リングの外側、本来なら民間航路の通らない高度に、点のような光がひとつ。それは一秒、二秒と見ているうちに、みるみる大きくなっていった。黒塗りの輸送艇。船体の艶のない装甲に、太陽光がほとんど反射せず、ただ輪郭だけが漆黒からくり抜かれていくように浮かび上がる。船首に、四つに分かたれた環と中央を貫く縦線。――けれど、その縦線の色が違った。第一使者の男がつけていた銀ではない。深い翡翠。 「第二公爵家」 私の口が、誰に教わったわけでもなく、その名を呼んだ。声にした途端、舌の付け根にかすかな痺れが残った。知らない言葉を発したのではなく、長く伏せていた符牒をうっかり口にしてしまったような、あの後ろめたい痺れだった。 シスター・イレーネがわずかに顔色を変えた。彼女が窓辺に寄る前に、HUDの割り込みが先に鳴った。今度は施設の内部回線。管制塔からの一斉通告だった。 ──聖フェリシア保護区、第七着艦パッドへ、外交優先降下を許可。 ──送信元タグ、四公爵家第二……第三……第四。 タグは、ひとつではなかった。 私は寝台の上で、ゆっくりと上体を起こした。診断パッドのコードがぴんと張り、側頭部で短い電子音が鳴る。止めにきた看護プログラムの警告を、指先ひとつで黙らせた。こんなに滑らかにシステムを押し退けた覚えは、目覚めてからの数日でいちども、なかった。指先の動きに、私の知らない誰かの手癖が乗っている。 窓の外、第二公爵家の輸送艇の後ろに、さらに二つの航跡が連なって見えはじめていた。ひとつは赤銅色、ひとつは鈍い鉛色。四つの異なる紋章が、同じひとつの保護施設を目指して、整然と、まるで予め約束されていた軌道を辿るように、降下してくる。四つの尾が、互いに近づきすぎず、離れすぎず、見えない定規で測られたような等間隔を保っていた。 漆黒に、四本の細い尾。 知らないはずの光景だった。それなのに、胸の奥で水位を上げ続けていた名前のつけられない何かが、ここでようやく水面を破った気がした。──ああ、これは、覚えのある光景だ。覚えていないのに、覚えのある。私の中の空白が、外側から、四方向から、同時にノックされている。四つの拳が、同じ強さで、同じ拍子で、薄い扉を叩いている。 左手の紋様が、脈拍を無視して明滅しはじめた。もう呼吸にも同期していない。別の、もっと大きなリズムに引き寄せられている。それが何のリズムなのか、私には分からない。分からないまま、私はゆっくりと寝台を降りた。低重力の床が、糖蜜めいた慣性で私の足裏を受け止めた。踝の骨が、久しく聞かなかった自分の重さを思い出す。
シスター・イレーネが何か言いかけて、言葉を呑んだ。 代わりに、彼女は胸元から細い銀の鎖を外し、私の右手にそっと握らせた。鎖の先には、指先ほどの硝子玉がついていて、中で水色の微光が星のように瞬いている。修道女会の古い護符だった。掌の中で硝子玉はほのかに温かく、彼女の体温をそのまま預けられたような重さがあった。 「門前まで、お送りします。――その先は、私たちの手の届かない場所です」 通路の奥、医療隔離区画の扉が静かに開く。向こう側の廊下の果て、搬入用エアロックのハッチが既に青い待機灯を灯しはじめていた。四本の尾を引いた漆黒の艦影が、空の向こうで、ひとつに重なっていく。 扉の影から、銀の縦線の男が歩み出てきた。他の三家の使者を従えて。四つの視線が、一斉に私の左手の紋に注がれる。そのどれもが、探していたものを見つけた者の目をしていた。 そして、その四対の目の奥に、私は初めて、互いを牽制しあう静かな火を見た。