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封印の鍵と軌道の薔薇

第3話 第3話

第3話

第3話

銀の縦線の男が、ほんの一歩だけ私の側に踏み出した。その一歩の距離感が、背後に控える三家の使者たちにとっては、すでに宣戦布告に近い長さだったらしい。翡翠の縦線を纏った細身の女が、低重力下だというのに音もなく半歩詰め、赤銅の従者が腰の走査端末に指をかけた。鉛色の老使者だけが、動かずに目を細めていた。動かないことで、誰よりも強く牽制している。四人の呼吸が、医療隔離区画の通路の空気に、見えない格子を編んでいく。  私は右手の中で、シスター・イレーネの硝子玉をそっと握り直した。水色の微光が、掌の汗を吸って少しだけ濃くなる。HUDの右下では、鎮静プロトコルの緑のバーが、さっきより細かく震えていた。拒絶反応が戻ってきているのではない。外からの干渉を、インプラントが先回りして警戒している。 「聖フェリシアの医療プロトコルに従い、被保護者への走査は一家ごとに、一項目ずつ」  シスター・イレーネの声は低く、けれど通路の奥まで届いた。彼女の背中は、さっき寝台の横で震えていた指先の持ち主と同じ人とは思えないほど、まっすぐだった。修道女会の古い典礼を暗唱するときの、あの呼吸の使い方だった。 「四家同時の走査は、被保護者の神経系に回復不能の損傷を与える可能性があります。――お願いです。順番を、守ってください」  銀の男――第一使者は、一瞬だけ視線をシスターに移し、それから私に戻した。逆らう気配はなかった。代わりに、彼は後ろの三家に向けて、乾いた声で告げた。 「異論がなければ、先に我が家が走査を行う。――崩壊の発信源を特定したのは、我が家の観測網だ」

 翡翠の女が唇の端だけで笑った。笑みというより、鋭利に研いだ氷の縁のようだった。 「発信源を先に捕まえたのは第一家。異論はありません。ただし、今このノクス第三リングで重力擾乱を拾ったのは、我が第二家の低軌道観測アレイです。――走査の数値は、四家で共有していただきたい」 「赤銅」の従者の後ろから、主人らしき青年が進み出てきた。まだ若く、公爵の正装には肩幅が足りていない。それでも声だけは、鍛え抜かれた剣の背のようだった。 「第三家は、条件を一つ追加する。――被保護者の封印領域のログは、走査後ただちに封印する。解読は、四家合議の場でのみ」  鉛色の老使者はそれらのやり取りの間、じっと私の左手の紋様を見ていた。やがて、誰にともなく、枯れた枝を折るような声で呟いた。 「……順番の話は、もう意味を成さぬかもしれぬ」  彼が言い終わるより早く、通路の照明が、ほんの一段階だけ落ちた。  ep2の医療区画で私が倒れたときと同じ周波数変化。通気音が一拍低くなり、診断パッドの粘着面が、肌の産毛を逆撫でするように、ごく微細に震える。HUDの環境ログに、擾乱の予告ではなく、擾乱そのものの前触れが刻まれていく。銀の第一使者が、短く息を呑んだ。彼は気づいている。私の身体が、走査を始める前から、既に何かを発信しはじめていることに。 「――始めろ」  第一使者は短く命じた。従者の手が、手のひらサイズの走査端末を私の左手へ差し出す。私は自分の意思で、ゆっくりと、左手を前に出した。出したというより、紋様に導かれて、勝手に肘が伸びた。指先の青白い光が、走査光のほうへ、磁石のようにすっと寄っていく。自分の腕なのに、どこか遠い他人の腕を遠隔で動かしているような、鈍い浮遊感が肩の付け根に溜まっていた。舌の裏に金属の味がにじみ、耳の奥で、遠い鐘のような低い唸りが、ひとつ、ふたつ、と数を増やしていく。怖い、と思うより先に、懐かしい、と思ってしまったことに、私は自分で驚いた。  光が重なった瞬間だった。  ノクス第三リングの重力制御が、一拍、歪んだ。  今度は、ただ一拍ではなかった。  歪みは波紋のように通路を走り抜け、天井のセラミック板が細い悲鳴に似た共振音を立てた。診断パッドのコードが、私の側頭部からふわりと持ち上がり、宙で一度だけ円を描いた。赤銅の青年のマントの裾が、水中で泳ぐ布のように広がり、翡翠の女の髪の束がひと塊ごと、重力の抜けた空間に浮かび上がる。硝子のカップが寝台の縁を離れ、ゆっくり横倒しに流れていく。液面の水は、球形のままで宙に残り、そこに私の指先の青白い光が、小さく映り込んだ。丸まった水の内側で、紋様の光はなぜか上下が反転し、見たこともない別の文字のように屈折していた。掌に載せたシスター・イレーネの硝子玉までが、ほんのわずかに浮き上がろうとして、私の指の骨を内側から押し返す。その押し返しの圧だけが、私を今この通路に繋ぎ止めている錨のように感じられた。  全員が、動かなかった。  動けなかったのは、重力のせいではない。走査端末の表示に、今までどの標準規格にも存在しなかった種類の波形が、ゆっくりと、けれど疑いようのない形で描かれていたからだった。銀の第一使者は、その波形を覗き込んだまま、初めて――本当に初めて、半秒の剥離ではなく、まるまる一呼吸分、息を止めた。喉元の筋が、薄い皮膚の下で硬く張り詰めるのが見えた。  彼はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに私を見た。あの、探していたものを見つけた者の目ではなかった。その奥で、もう一段深い扉が開いていた。  ――畏怖、と呼ぶには、もう足りない種類の感情だった。

 重力はやがて戻った。  宙に浮いていた水球がゆっくり下降し、倒れかけたカップの縁で弾けて、樹脂膜の寝台に小さな星形のしみを作る。髪の束が肩に戻り、マントの裾が床を掃く。診断パッドがふたたび私の側頭部に貼り付き、粘着面が元の位置を探し当てる微かな気配があった。それでも、通路の空気は戻らなかった。  翡翠の女が、低く、ほとんど独り言のように呟いた。 「……重力定数が、局所で、書き換わった」  書き換わった。書き込まれた、でも、揺らいだ、でもなく。彼女はその単語を選んだ。彼女の選んだ単語の重さを、他の三家も受け取っていた。赤銅の青年の肩幅が、正装の内側で一段小さくなった気がした。鉛色の老使者は、ただ一度だけ、深く目を伏せた。祈りに似た所作だった。  銀の第一使者は、端末の波形と私の左手の紋を、何度も往復して見比べていた。やがて彼は、従者ではなく、私に向けて言った。ここに来てから、初めて、私に向けて言葉を投げた。 「聞かせてほしい。――君は、自分が何を書き換えたか、分かっているか」  私は首を横に振った。振りながら、けれど、喉の奥の乾いた楽器に、さっきよりもずっと自然な弓が当たるのを感じていた。 「分かりません。ただ……紋様が、何かに応えようとしています。呼ばれている、という感覚だけが、ずっとあります。夢の縁で」  銀の男は、私の答えを吟味するように、しばし黙った。それから、他の三家に視線を巡らせ、低い声で告げた。 「四家の合議を、ここで開く。――搬送の優先順位ではない。被保護者の扱いそのものの合議だ」  翡翠の女が、鋭く眉を上げた。 「この場で、ですか」 「この場で。――ノクスの重力定数を、たった今、我々の前で書き換えた相手を、我が家の庭園邸だけで預かるのは、もはや一家の手に余る」  第一使者のその一言で、通路の空気の編み目が、組み替わった。競い合っていた四つの視線が、初めて互いに目礼を交わす。牽制の静かな火は消えていない。ただ、その火の上に、もう一枚、共通の天井が架けられた。私はその天井の下にいる。四人の公爵家使者と、ひとりの修道女と、ひとりの記憶喪失の「私」と、その左手の紋様と、さきほど局所的に書き換わった重力定数。  シスター・イレーネが、そっと私の右手に触れた。硝子玉の護符を握った掌の上から、彼女は自分の手を重ねた。体温を分ける、というよりは、体温の行き先を確かめる仕草だった。彼女の指先は、もう震えてはいなかった。ただ、わずかに冷たかった。その冷たさが、「あなたは私の手の届く範囲から、もう出ていく」と、言葉より先に告げていた。 「――最後までお供はできません。でも、門前の空までは、お祈りを添えます」  私は頷いた。頷くしかなかった。けれど、その頷きは、目覚めてから初めて、誰かに強いられたものではなかった気がした。私の中の空白が、さっき重力定数と一緒に、ほんの一筋だけ書き換わった。その一筋に沿って、私は自分の足で頷いていた。

 搬入用エアロックの青い待機灯が、緑に変わる。  扉の向こう、四つの輸送艇がドッキングアームで互いの軌道位置を微調整している影が、強化ガラス越しに見えた。銀、翡翠、赤銅、鉛。四色の縦線が、見えない一本の線上に並ぼうとしている。HUDの右下で、緑のバーが初めて、呼吸と完全に同期した。肺と、他人が書いた制御曲線と、左手の紋様と、遠い夢の縁の囁きが、一瞬だけ、ひとつのリズムで重なった。  重なった、その奥で。  私は初めて、はっきりとした単語を聴き取った。幾重にも重なった声の中から、たった一語だけが、私に向けて差し出された。  ――鍵。  銀の第一使者が、私を振り返った。彼の唇が、ほとんど音にならない声で、同じ一語を形作っていた。まるで、同じ声に、同じ瞬間、呼ばれていたかのように。

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