第2話
第2話
足音は思っていたよりも早く、扉のすぐ向こうまで来ていた。
私は閉じていた瞼をうっすらと開ける。視界の端で、ルシアンの背がすっと伸びた。彼の右手が腰の剣にかかったまま、けれど抜かれることはない。扉の外にいるのが誰かを、彼は声の響きだけで判じ取っているらしかった。いくつかの低いやり取りのあと、硬い音がひとつ、扉を叩いた。 「お目覚めだそうだな。入ってよいか」 落ち着いた、けれど有無を言わさぬ調子の声だった。ルシアンは私の方を一度だけ振り返り、瞼を伏せた私を確かめてから、「どうぞ」とだけ短く答えた。 扉が開いた途端、朝の空気に薬草と羊皮紙の匂いが混じった。乾いた薬草の、少し青臭くて鼻の奥をつんと刺すような香りと、長く書架に眠っていた羊皮紙の、甘く埃っぽい匂い。その二つが混じり合って、ここが病室であり同時に誰かの執務の延長でもあることを、匂いだけで告げていた。入ってきたのは年嵩の医師らしき男と、その後ろに控える文官風の男、そして二人の衛兵だった。医師は私の枕元まで静かに歩み寄り、深く頭を下げた。 「ご気分は、いかがですか」 問われて、私は答えに詰まった。気分という言葉の座標を、私はまだ持っていない。昨日の気分と比べることができなければ、今の気分を測りようがなかった。ただ、喉の奥の苦みと、胸の底のどこかが軋むような感触だけが、言葉にならず残っていた。私が黙ったままでいると、医師は咎めるでもなく頷いて、私の手首に指を添え、瞼の下を検め、長い時間をかけて脈を数えた。指先の乾いた温もりが、銀の腕輪の冷たさを少しだけ和らげていく。その温もりは祖父のそれに似ている気がして、けれど祖父という像さえ私の中には像を結ばず、似ていると感じた感覚だけが宙に浮いて迷子になった。その間、ルシアンは窓辺に一歩退いて、微動だにしなかった。視線を落としているようで、けれど私の呼吸の一つ一つを拾っているのが、気配でわかった。 診察が終わると、医師は私に軽く会釈をし、扉の近くでルシアンと何事か小声で話し始めた。聞き取ろうと思えば聞き取れる距離だった。けれど私は、なぜか全部を聞きたくなかった。知ってしまえば、知らないでいられた時間が終わってしまう気がして。
医師の声の端が、それでも耳に届いてしまう。 「……身体の方は、もう案ずるに及びません。若さと、あとは運に恵まれました。ただ」 ただ、という接続詞の後にだけ、彼の声は低く沈んだ。まるで今まで石畳の上を転がっていた言葉が、急に井戸の縁から暗い水面へ落ちていくような、そういう沈み方だった。 「記憶の戻りにつきましては、保証いたしかねます。数日で戻る方もおられれば、半年、一年とかかる方もおられる。あるいは――」 最後の言葉は飲み込まれた。あるいは、の先を医師は口にしなかったし、ルシアンも問い返さなかった。問い返さない、ということがすでに答えだった。私は瞼の裏で、その「あるいは」を自分なりに埋めてみた。あるいは、一生戻らないかもしれない。自分の名前の響きを借り物のまま、誰かの娘であったことも、誰かを愛したことも、何を大切にしていたかも、全部わからないまま、これから先の日々を積み上げていくことになるのかもしれない。そう思ったとき、ふいに睫毛の下が熱くなった。涙のかたちにはまだ遠い、ただ熱い予感だけが目の奥に溜まっていく。瞬きをすれば零れてしまいそうで、けれど零してしまえば、それが何に対する涙なのか自分でも説明できない気がして、私はただ瞼を固く閉じた。閉じた闇の中で、聞こえるはずのない自分の鼓動が、やけにはっきりと耳の奥で鳴っていた。 医師たちが退がる気配がした。扉が閉じ、部屋に再び沈黙が戻ってくる。その沈黙が重すぎて、私は思わず肩を丸めた。窓の外の鳥の声さえ、急に遠ざかって聞こえた。絹の敷布が、ひやりと首筋に触れる。寒い、と口にする前に、身体が小さく震えた。自分の意思ではなく、芯の方から湧いてくる震えだった。怯えているのだ、と気づいたのは、震えを止めようとして止まらなかったときだった。 衣擦れの音が近づいた。ルシアンが、また枕元に戻ってきていた。 彼はしばらく、何も言わなかった。ただ私の肩の辺りをじっと見ていた。毛布がずれている、というわけでもない。それでも彼は、何かを決意したような静けさで、そっと毛布の端を持ち上げ、私の首筋のすぐ下まで引き上げ直した。指は今度も、触れそうで触れなかった。ほんの糸一本ほどの距離を、どうしても越えない。けれど毛布越しに伝わってくる彼の掌の温度は、確かに私の震えに届いていた。 「……寒く、ありませんか」 短い問いだった。氷の瞳からは想像もつかないほど、低く、柔らかかった。 「少し」 と答えるのが、やっとだった。ほんとうは、寒さよりも、心細さの方がずっと大きかった。けれどそれを伝える言葉を、私はまだ持っていない。 ルシアンは小さく頷き、寝台の足元に畳まれていたもう一枚の毛布を広げ、私の膝の上にそっと重ねた。重ねるとき、彼の外套の裾が一瞬だけ私の手の甲を掠めた。乾いた布の、ごく微かな感触。それだけのことが、胸の奥で小さな灯火のように点った。灯火は頼りなくて、すぐに消えてしまいそうで、だからこそ、私は息を浅くしてその火を守ろうとした。
毛布が二枚になって、肩から足先までが優しく包まれる。重さというより、囲われている、という感覚だった。知らない部屋の、知らない寝台で、知らない男の手で、私はいま囲われている。それなのに、怖くない。怖くない自分が、少し怖かった。 「ルシアン」 呼ぶと、彼はすぐに目を上げた。瞬きひとつ分の間もなかった。まるで、呼ばれるのを待っていたかのように。 「ええ」 「あなたは、どうして」 言いかけて、私は口を噤んだ。問いたいことは、喉のすぐ手前まで来ていた。どうしてそんなに気を遣ってくれるの。どうして、触れそうになる指を、いつも最後のところで引くの。どうして、三日も目覚めなかった女の寝台のそばに、あなたはいるの。職務と、あなたは言った。けれど職務という言葉では説明のつかない何かが、あなたの呼吸の浅さの中に折り畳まれているのを、私は知ってしまった気がする。 けれど、問えなかった。問う勇気が、まだ育っていなかった。問うて返ってくる答えが、「職務です」の一言だったら――そう想像しただけで、胸の内側のどこかが軋んだ。軋むに値する何かを、私はまだ持っていないはずなのに。失っている記憶の底に、きっと私は、この人に関わる何かを沈めている。その沈められた何かを、性急に引き上げてはいけないのだと、心のどこかが、私を引き止めた。 代わりに私は、別のことを口にした。 「毛布を、ありがとう」 ルシアンはわずかに目を伏せ、胸の前で片手を軽く握った。礼を受け取るときの、とても小さな仕草だった。返事はなかった。けれど、その沈黙の形は、さっきの「職務にございます」とは別の沈黙だった。何かを飲み込むときの沈黙ではなく、何かを、どうにか壊さないように抱えている沈黙だった。 「もう少し、眠ってもいいですか」 「どうぞ。――ここに、おります」 ここに、おります。 その言葉の簡潔さが、かえって私の目の奥を熱くした。彼は「お傍に」とは言わなかった。「お側で見守ります」とも。ただ、ここに、おります、と。だからこそ、その言葉は余計なものを削ぎ落として、ひとつの誓いのように私の胸に落ちてきた。私は瞼を閉じた。閉じた瞼の裏で、二枚の毛布の重みを数えた。一枚は医師が来る前に、もう一枚は震えた私のために。数えているうちに、震えは少しずつ治まっていった。
遠くで、鐘が鳴った。王宮のどこかの時計塔だろうか。低く、長く、三度。その響きが部屋の空気を微かに震わせて、また沈黙に溶けていく。うとうととまどろみに落ちていく境目で、私はそっと指先を動かしてみた。毛布の縁のすぐ外に、きっと彼の手もある。触れない距離を、今はまだ越えられなくていいと思った。いつか、越えられる日が来るのかどうかも、わからないままでいい。 ただ、眠りに落ちる最後の意識の端で、私はひとつだけ、誓いのようなものを自分に結んだ。 ――明日になったら、彼の名をもう一度、呼んでみよう。 それだけの、ささやかな決意だった。けれど、記憶を失った私にとって、それは今朝生まれた世界で初めての、自分の意思だった。 まどろみの奥で、扉の外を歩き去る衛兵の足音が遠ざかっていく。入れ替わるように、別の、もっと重い足音が回廊のずっと向こうから近づいてくる気配があった。革の長靴の、格式ばった響き。誰かが、この部屋の主の父を名乗る人が、ここへ向かっているのだと――眠りに沈む私は、まだ知らなかった。