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氷の騎士と忘れた名前

第1話 第1話

第1話

第1話

白い天井が、どこまでも遠かった。

 目を開けた瞬間、まず光があった。窓から射し込む朝の光が、薄い紗のカーテン越しにやわらかく揺れている。その光の粒を見つめながら、私はしばらく、自分が誰なのかを思い出そうとしていた。光は白く、けれど縁の方だけほんのりと金を帯びていて、カーテンの織り目を通るたび、無数の小さな星屑のように天井に散った。その星屑のひとつひとつを追いかけるように視線を動かしても、どこにも着地する場所は見つからなかった。  思い出せなかった。  名前も、生まれた場所も、昨日までの記憶も、何ひとつ。ただ、喉の奥に苦い残滓のようなものが張りついていて、息をするたびに微かな痛みが胸を刺した。それは薬湯の名残にも似ていたし、長く泣いたあとの喉の荒れにも似ていた。どちらにしても、私が知らないうちに何かを飲み下し、何かを叫んだのだという証のようで、そのことがかえって心細かった。指先を動かしてみる。白い絹の敷布に、細い自分の手が置かれていた。骨ばった手首に、見知らぬ銀の腕輪がひとつ。冷たい金属の感触が、脈の裏側からじわりと体温を奪っていく。誰がつけてくれたのだろう。誰のために、この身体は生きているのだろう。  ふと、視界の端に人影を捉えた。  白い寝台の傍ら、少し離れた窓辺に、背の高い男が立っていた。銀の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。長い外套の裾が、微かな風に揺れているのかいないのか、判然としない。その瞳が、こちらを向いた。  ――氷の色、だと思った。  冬の湖の底を覗き込んだような、深く澄んだ青だった。感情というものを、どこか別の場所に置いてきたような眼差し。けれど、その目が私を見た瞬間、男の肩がわずかに動いた。息を詰めたのだ、と気づくのに少し時間がかかった。詰めた息を吐き出す音すら立てないように、彼は唇をほんの少しだけ噛んでいた。私はその所作の意味を探ろうとして、探せないまま、ただその横顔に吸い寄せられていた。  男は黙ったまま、ゆっくりと近づいてきた。足音はほとんどしない。絨毯の毛足が深いせいだけではない。彼の歩き方そのものが、誰かを驚かせまいとする配慮でできていた。枕元まで来て、少し迷うように立ち止まり、それから、私の肩までずり落ちていた毛布をそっと引き上げた。  指先が、触れるか触れないかの距離で止まった。  その一瞬、胸の奥のずっと奥、記憶の届かない場所で、何かが小さく疼いた。痛みではない。けれど、痛みにも似た、名づけようのない感覚だった。遠い日に落とした硬貨が、井戸の底で今も鈍く光っているのを覗き込んだような、そんな懐かしさと寂しさが混じり合った何か。私は思わず、息を止めた。止めた息の中に、微かに彼の匂いがあった。冷たい鋼と、乾いた草と、ほんの少しの香草。知らないはずの匂いなのに、鼻の奥がつんと痛んだ。

 「……ここは、どこ」  掠れた声が、自分のものとは思えなかった。舌の根が強張っていて、発した言葉の輪郭がほどけていくようだった。男は静かに目を伏せ、それから短く答えた。  「王宮の、北の棟です。三日、眠っておられました」  三日。その言葉の重さが、うまく掴めなかった。三日の前に何があったのか、私はまるで知らない。三日という時間の中で、誰が私を運び、誰が私の額を拭き、誰がこの腕輪を嵌めたのか。その空白の三日は、私の人生から切り取られたまま、もう戻ってこない予感があった。  「私は……誰、ですか」  問いを口にした瞬間、自分の愚かさに泣きたくなった。こんなことを、人に尋ねなければならないなんて。男は一瞬、言葉を失ったように見えた。氷の瞳の奥で、何かがほんの微かに揺れたのを、私は見逃さなかった。水面に落ちた一枚の花弁が、沈みもせず流れもせず、ただ震えているような揺らぎだった。  「……セレスティア様。侯爵家のご息女であられます」  セレスティア。  口の中で、その名を転がしてみた。甘くも苦くもない、ただ他人の名前のように響いた。私は自分の名すら、借り物のように感じている。発音するたびに、舌の先から逃げていく名前だった。  「あなたは」  「護衛を、務めております。ルシアンと申します」  ルシアン、と私は小さく繰り返した。その名前だけが、不思議と耳の奥に馴染んだ。まるで、忘れてしまったどこかで、何度も呼んだことがあるかのように。夜更けの回廊で、雨の庭で、灯りを落とした広間の片隅で――知らないはずの情景の断片が、名前の響きに押し出されるように、瞼の裏をよぎった気がした。けれどそれは、掴もうとした瞬間に霧のように散った。  窓の外で、鳥の声がした。庭の木々が風に揺れている。平和な朝の気配。けれどこの部屋の空気は、どこか張り詰めていた。ルシアンという男の背筋が、あまりに真っ直ぐだったからかもしれない。まるで、倒れたら自分も終わるとでもいうように、彼はそこに立っていた。その真っ直ぐさは、鍛錬の賜物というよりも、何かを必死に支えている人の姿勢に似ていた。  「あの、」  喉が渇いていた。私は視線で水差しを示した。言葉にする前に、彼はもう動いていた。陶器の杯に水を注ぎ、そっと私の唇に近づける。杯の縁が微かに震えていた。冷たい水が喉を滑り落ちた瞬間、私はようやく、自分が生きていることを実感した。水は舌の上で一度だけ甘く感じられ、それから無味になって胸の奥へ落ちていった。  杯を下げるとき、彼の指先が私の頬に触れそうになり、すっと逃げるように離れた。触れなかったことが、なぜか寂しかった。触れられていたら泣いていたかもしれない、とも思った。どちらの感情が本物なのか、私には判らなかった。

 ルシアンは杯を戻すと、寝台から一歩下がり、胸に手を当てて頭を垂れた。騎士の礼だと、本能のどこかが教えてくれる。そのまま彼は、しばらく動かなかった。祈るような姿だった。垂れた睫毛が、頬に薄い影を落としている。その影の形を、私はなぜか、ずっと前から知っているような気がした。  「ルシアン、様」  呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。  「様は、不要にございます」  「……では、ルシアン。ひとつ、聞いてもいいですか」  氷の瞳が、わずかに細められる。頷き、とも呼べないほどの小さな動きだった。  「あなたは、ずっとここに、いてくださったの」  問うた途端、彼は答えに窮したように見えた。唇が一度、言葉を探して開き、そして閉じた。代わりに彼は、窓辺に視線を逃がした。その横顔に、朝の光が斜めに差していた。銀の髪の一筋が、頬に落ちている。何かを堪えているような、けれど堪えていることすら気取られまいとしているような、そんな横顔だった。喉仏が、一度だけ静かに上下したのを、私は見た。  「……職務にございます」  絞り出された声は、低く、静かだった。  職務、という言葉が、なぜかこの部屋にそぐわない気がした。職務で人は、あんな目をするものだろうか。三日眠っていた女の枕元で、あんなふうに息を詰めるものだろうか。職務という冷たい殻の内側に、何か別のものが折り畳まれて隠されている――そんな予感だけが、確信に近い重さで胸に落ちた。  問いを重ねる勇気は、まだ私にはなかった。  代わりに私は、そっと瞼を閉じた。薄い闇の中で、先ほどの毛布の重みが、肩の上にまだ残っているような気がした。触れなかった指先の気配も。疼いた胸の奥の、名もない何かも。瞼の裏には、まだ彼の横顔の残像があって、朝の光と銀の髪と、堪えられた息とが、溶け合って一枚の絵になっていた。  私は何ひとつ覚えていない。自分の名前も、家族の顔も、昨日までの日々も。  けれど、この部屋に流れる沈黙だけは、なぜか嫌ではなかった。むしろ、この沈黙を壊したくないと思う自分がいた。沈黙の中にだけ、かろうじて、私と彼を繋ぐ細い糸のようなものが張られている気がしたから。  まどろみの縁で、扉の向こうに足音が近づいてくるのが聞こえた。幾人もの、急いた足音。革靴の底が石畳を打つ硬い音と、衣擦れと、低く交わされる男たちの声。その気配にルシアンの肩がわずかに強ばるのを、閉じた瞼の裏でも、私は確かに感じ取っていた。

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