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廃村の先生と古代魔術

第1話 第1話

第1話

第1話

雨は、骨の奥まで染みるほど冷たかった。  男はぬかるみに頬を押しつけたまま、自分がいつからそこに倒れていたのか、わからなかった。まぶたを持ち上げると、灰色の空が低く垂れ込めている。葉の落ちた枝が、風にゆっくりと揺れていた。遠くで鳥が一羽、物憂げに鳴いている。それ以外に、音はない。雨粒は細く、しかし途切れることなく、男の首筋を、耳のうしろを、こめかみを、順に撫でては滑り落ちていく。まるで誰かが指先でそっと確かめているみたいに。生きているのか、死んでいるのか。その問いを、雨の方が先に立てている気がした。  指先を動かしてみる。泥がぬるりと爪の隙間に入り込んだ。外套の裾は水を吸って重く、胸元までぐっしょりと濡れている。息を吐くと、それは白くたなびいて、雨粒の中にゆっくりと散った。喉の奥は、錆びた鉄の味がした。舌先で奥歯をなぞると、唇の端が切れているらしく、鈍い塩気がにじむ。頬に触れる土は冷たいを通り越して、もはや痛みに近かった。  ──自分は、誰だったか。  頭の中は、霧がかかったように茫洋としている。ただ一つ、名前だけはまるで石に刻まれたみたいに残っていた。薄暗い奥底で、その音だけが鈍く光っている。けれどそれを口にしようとすると、舌が重くなって、音にならない。まるで名前のほうが、まだ呼ばれたがっていないみたいだった。  そしてもう一つ。胸の、ちょうど肋骨の裏あたりに、ちりちりと燻るものがあった。怒りとも、哀しみともつかぬ感覚。形にするなら、裏切られた、という一言だろうか。どこで、誰に。それは思い出せない。ただ、古い火傷の痕のように、そこにある。触れれば疼き、放っておいても疼く。息を吸うたびに、その熱がほんの少し位置を変えるのがわかった。  やがて男はゆっくりと身を起こした。膝が笑い、手が震える。外套から雨水がぼたぼたと滴り、ぬかるみに小さな輪を描いた。立ち上がるまでに、ずいぶんと時間がかかった。一度は膝をつき、一度は肩で木の幹に縋り、それでもようやく、両足で大地を踏んだ。踏んだというより、辛うじて預けた、というほうが近かった。

 歩き出して、どれほど経ったのかもわからない。  森はしだいに痩せていき、やがて朽ちた木戸のようなものが見えた。近づくと、それは村の入口に立てられた門柱のなれの果てだった。傾いだ柱に絡みつく蔦は冬枯れて、ぱりぱりと音を立てそうなほどに乾いている。道の先には石畳が続いていた。ところどころ割れ、苔に覆われ、雑草に吞まれかけている。  ──廃村、か。  男はその言葉を、声には出さずに口の中で転がした。地図の上から消えた村というものは、世界にいくつもあるのだろう。そのうちの一つに、自分は辿り着いたらしい。偶然なのか、足が勝手に選んだのか、それさえも判然としない。ただ、ここ以外に行くべき場所を、自分が持っていないことだけは、はっきりと知れた。  石畳をゆっくりと進んでいく。靴底がぬかるみと石の境目でずるりと滑り、そのたびに膝がびくりと震えた。崩れた井戸があった。縁石は半分ほどが欠け、覗き込むと底のほうに泥と落ち葉の溜まった水が、にごった鏡のように空を映している。男はほんの一瞬、その水面に自分の顔を探そうとして、すぐにやめた。見たくないのか、見てはいけないのか、自分でもわからなかった。ただ、水面に揺れた人影のようなものが、自分のものにしては少し背が高すぎる気がして、胸の奥の燻りがまた一度、ちりりと鳴った。屋根の抜け落ちた家が、雨の中で口を開けたまま立ち尽くしていた。畑だった場所は雑草に埋もれ、どれが畝の跡なのかもわからない。錆びた鍬の柄が一本、雑草の根元から斜めに突き出していて、その先には、もう握る手もなかった。握っていた者がどこへ消えたのか、問う相手もいない。  それでも、妙に静かだった。森の静けさとは違う。かつて人の営みがあった場所が、そのぬくもりをゆっくりと手放していく途中の、やわらかな静けさ。耳を澄ますと、屋根の縁から落ちる雨垂れの音が、ぽつり、ぽつりと、等間隔で石畳を打っていた。その音は、どこか子守唄にも似ていた。急かさず、責めもせず、ただ時間だけを静かに数えている。遠くで、湿った木がみしりと軋む音がした。誰かが歩いているのではない。ただ、朽ちていくための音だった。男はその音に、自分の背骨がひそかに重なるのを感じた。  ふと、男の口元がほころんだ。自分でも意外なくらい、穏やかに。  ──ああ、ここなら、誰にも見つからない。  その一言が、胸の奥の燻りに、薄い蓋をそっと被せてくれた気がした。誰かに追われている覚えはない。けれど、追われていないと言い切れる自信もない。わからないなら、ただ隠れていればいい。雨と、苔と、雑草の中に。廃村というのは、おそらく、そういう人間のために最後まで残されている場所なのだ。忘れられた者が、忘れられたまま息をするための場所。  疲れ切った身体が、今になって軋みを上げ始めていた。男は一番まともに見える家を選び、外套の裾を絞りながら、崩れかけた戸口をくぐった。

 中は、外よりいくらか暗かった。  床板はほとんど抜け落ち、土間に土がむき出しになっている。奥にかまどが残っていた。煤けた石組みは長いこと火を入れられた気配がなく、灰の表面には蜘蛛の巣まで張っている。天井の梁から雨漏りが一筋、ゆっくりと床に染みを広げていた。空気は湿った土と、古い木の匂いと、そこに長いこと住んでいた誰かの気配の残り香のようなものが、薄く混ざっていた。  男は壁に背を預けて、ずるずると座り込む。濡れた外套がぺたりと石畳に貼りついた。膝を抱え、しばらく、ただ呼吸だけをしていた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。そのたび、胸の奥の火種が、ほんのわずかにちりちりと鳴る。鳴るたびに、名前ではない何かが、喉の奥までせり上がってきては、また沈んでいった。せり上がってくるそれは、言葉の形をとる手前でいつも崩れる。悲鳴のようでもあり、誰かへの呼びかけのようでもあった。男はそれを呑み込むたび、口の中に鉄の味が薄く戻ってくるのを感じた。  やがて、身体の芯から震えが這い上がってきた。歯の根が合わず、かち、かち、と乾いた音を立てる。このままでは、朝を待たずに冷えきってしまう。火がいる。  男は乾いた枝切れを探し、かまどの中に積み上げた。指はかじかみ、枝の一本を拾うだけでも、関節がぎこちなく軋んだ。火打ち石も、火種も、手元には何もない。ないのに──指先が、勝手に動いた。  何をしようとしているのか、自分でもわからないまま、そっと親指と中指を擦り合わせる。ごく自然な仕草だった。まるで長年そうしてきたみたいに、身体のほうが手順を覚えている。頭の奥で、誰かの低い声が、聞き覚えのない言葉をひとつ、呟いた気がした。低く、平坦で、けれど芯に熱を秘めた声だった。その響きに、男の胸の奥の燻りが、呼ばれたように一度だけ強く跳ねた。懐かしさとも怯えともつかぬものが、背筋をひやりと駆け抜ける。知っている声だ、と思った。けれど、誰の声かは思い出せなかった。  指の腹に、ちりっとした熱が宿る。  かまどの奥で、積み上げた枝がかすかに震えたように見えた。薄い青の色が、灰の表面をふわりと撫でる。息を詰めて、男はもう一度、指を鳴らそうと──  そこで、視界がぐらりと傾いだ。  全身から力が抜けていく。胸の奥の燻りが、ふいに熱を持って広がり、代わりに指先からすうっと何かが抜け落ちていく。まぶたが、鉛のように重い。耳鳴りが、雨音の上に薄く重なり、そして雨音を呑み込んでいった。  「……なんだ、これは」  呟きは、自分の耳にも届かなかった。  かまどの奥で、青白い光が、ほんの一瞬、息をするように明滅した。廃屋の壁に、見知らぬ紋様の影が揺らめき、そして消える。円と、線と、見たこともない文字に似た何か。見覚えはないはずなのに、目の奥の深いところが、それを知っていると囁いた。知っている、と同時に、知ってはいけなかった、とも。  男はそれを見届ける前に、濡れた石畳の上へゆっくりと倒れ伏した。頬に触れる土の冷たさだけが、妙にはっきりと感じられた。遠くで、雨音がまた一段、やわらかくなった気がした。  ──眠ってはいけない、と、どこかで声がした。  けれど、瞼はもう、開かなかった。

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