第2話
第2話
目を覚ました瞬間、男は自分がどこにいるのかを思い出せなかった。 頬の下に、湿った土の感触があった。鉄の匂いと、古い木の匂い。ゆっくりと瞼を持ち上げると、すぐ目の前に、崩れかけたかまどの煤けた石組みが迫っていた。積み上げたままの枝切れが、昨夜の姿勢をそのまま保っている。雨音は、いつの間にか止んでいた。代わりに、戸口のほうから、薄くひんやりとした朝の空気が、ひと筋、流れ込んできている。 どうやら、自分はあのまま倒れ、夜を越したらしい。 男は肘をついて上体を起こそうとして、思わず眉を寄せた。身体の芯は氷のように冷えきっているはずなのに、なぜか凍えてはいなかった。指先までがじんわりと暖かい。まるで、眠っているあいだ誰かが毛布を掛けていったかのように。けれど、掛けられているものなど何もない。外套はまだ濡れて、胸元に重く貼りついていた。濡れているのに、冷たくない。その違和感を、男はしばらく、じっと確かめていた。 記憶を手繰り寄せる。昨夜、枝を積み、指を鳴らそうとして──そこで途切れている。ただ、瞼の裏に、青白い光の残像がうっすらと焼きついている気がした。知らないはずの紋様。見たこともないはずの文字。けれど、目の奥のもっと深いところが、それを「ああ、あれか」と呟いている。その呟きの主が、誰なのかはわからない。 男はゆっくりと息を吐き、壁に手をついて立ち上がった。膝はまだ笑っていたが、昨日ほどではない。土間の隅に、朝の淡い光が差し込んでいる。その光の中に、細かい埃がゆっくりと浮いて、回っていた。誰にも急かされない、静かな回り方だった。 火を起こそう、と思った。それだけが、今の自分に残された、まともな手順のように思えた。
男はかまどの前に膝を折り、昨夜と同じ姿勢で、枝切れの山に向かった。 親指と中指を擦り合わせる。その仕草は、やはり、身体のほうが先に知っていた。まるで長年の癖のように、自然で、迷いがない。ただ昨夜と違うのは、今、男がその仕草を、少し怯えながら見つめていることだった。自分の指先が、何を引き寄せようとしているのか、自分でもわからないまま。指の腹と腹が触れ合うたび、かさついた皮膚の奥で、なにかがひっそりと目を細めている気配があった。動いてほしくない、けれど動かさずにはいられない。頭の中には、そんな矛盾した声が二つ並んで座っていた。 ちり、と小さな音がした。 指の腹に熱が宿ったと思った次の瞬間、かまどの底に、青白い光が、ぽっと灯った。炎と呼ぶには静かすぎる、けれど確かに熱を持った光。積み上げた枝が、その光に撫でられて、ぱち、と小さく弾けた。弾けた拍子に、煤の粒が一つ跳ね、男の頬に触れて、すぐに消えた。熱くはなかった。熱くないのに、触れられた場所だけが、じんわりと覚えていた。覚えている、というその感覚そのものが、ひどく他人行儀で、男は思わず頬に手をやった。指の腹に触れた皮膚は、ただの皮膚だった。けれどその下で、なにかが静かに頷いた気がした。 男は息を止めて、その光を見つめた。自分の喉仏が、ひとつ、ゆっくりと上下するのがわかった。唾を呑み込んだのに、口の中はまだ乾いていた。舌の付け根に、錆びた鉄に似た味が、ほんの微かに滲んでいた。 やがて光は、かまどの中から這い出すように、ゆっくりと広がり始めた。青白い線が、煤けた石組みの表面を滑り、床へ落ち、床から壁へとよじ登っていく。見知らぬ文字に似た何か。円と円が重なり、その接点から新しい線が伸び、また別の円を描いていく。一本の線が描かれるたびに、空気がほんの少しだけ澄んでいくような気がした。耳の奥で、細い鈴のような音が、鳴ったか鳴らなかったかわからないくらいの音量で、確かに一度、鳴った。廃屋の内壁いっぱいに、それは、静かに、けれど迷いなく、広がっていった。 ──構造式、と、頭の奥で誰かが言った。 男はその言葉を知らなかった。知らないはずなのに、意味だけが、胸の奥にすとんと落ちてきた。これは図ではない。これは、術だ。そして、ただの術ではない。ずっと昔に失われたはずの、誰も再現できなかったはずの種類の、術だ。知らない、と口に出そうとした。けれど、舌は動かなかった。知らない、と言い切ってしまうのが、どこかで怖かったのかもしれない。 光は男の身体の上にも這い上がってきた。外套の裾から、胸へ、そして腕へ。熱くはない。むしろ、触れられているという感覚すら薄い。けれど光が通り過ぎたあとには、薄い線の跡が、皮膚の上に残像のように浮かび上がっていた。手の甲。手首の内側。肘の裏。鎖骨のあたり。男はおそるおそる袖をめくり、自分の腕を見下ろした。めくる指先が、かすかに震えていた。自分の腕なのに、自分のものではないものを覗き込もうとしている、そういう種類の震えだった。 そこには、紋様があった。 青白く、細く、けれど確かに。まるで何年も前に刻み込まれ、ずっと皮膚の奥で眠っていたものが、今、呼ばれて目を覚ましたみたいに。男は指先でその線をなぞった。痛みはない。ただ、なぞった指の下で、線が、ほんのわずかに熱を返してきた。熱は、肌の表面ではなく、もっと内側──血の流れている場所のさらに奥から、こん、こん、と、控えめに戸を叩くように返ってきた。 ──これは、俺の身体に刻まれている。 ぞくりと、背筋を何かが駆け抜けた。恐れ、とも違う。懐かしさ、とも違う。もっと深い、もっと古い感覚。鍵穴に、ずっと合わなかった鍵が、かちりと噛み合ったときのような。男は息を詰めて、自分の胸に手を当てた。心臓が、やけにゆっくりと打っている。その鼓動の一つ一つに合わせて、皮膚の下の線が、ごく微かに脈打っているのがわかった。打つ、返す。打つ、返す。まるで、ずっと前から二人で一つの拍子を刻んできた者同士のように、息が合っていた。それが、何より不気味だった。
どれほどそうしていただろう。 青白い光は、やがて潮が引くように、少しずつ薄れていった。壁の紋様は、インクが水に溶けるように輪郭を失い、最後には、かまどの奥にほんの小さな火だけが残った。枝切れに本物の炎が移り、ぱち、と健やかな音を立てる。普通の、ただの火だった。 男はその火を、しばらくじっと見つめた。 何が起きたのか、頭では整理しきれない。ただ、一つだけ、確かなことがある。自分は、古代の術を使える。それも、身体に刻まれるほど深く、それを扱ってきた人間らしい。名前も、顔も、誰に裏切られたのかも思い出せない。けれど、指の動きと、この紋様だけは、忘れずにいた。 忘れずにいた、のではない。忘れさせてもらえなかった、のかもしれない。 胸の奥の燻りが、また一度、ちりりと鳴った。祭壇のようなもの。低く呟く声。そして、青白く光る誰かの手。断片が一瞬だけ瞼の裏をよぎって、すぐに霧散した。つかもうとすると逃げていく。逃げていくのに、確かにそこにあったのだと、皮膚の下の線が教えてくる。 男は、ゆっくりと袖を下ろした。袖口の布が紋様の上を滑っていくとき、線はまるで眠りにつく生き物のように、ふっと光を落とした。おやすみ、とでも言うように。あるいは、また呼んでくれ、とでも言うように。 この力のことを、思い出そうとするのはやめよう、と思った。少なくとも、今日は。今はただ、この廃村の朝の空気と、かまどの中の小さな火と、湿った土の匂いとに、身体を預けていたかった。雨は上がっている。土間には朝の光が差し込んでいる。それだけで、今は十分だった。 火の前に手をかざす。本物の熱が、ようやく指先に戻ってきた。じんわりと、血の巡りが戻ってくる。熱は指先から手のひらへ、手のひらから手首へと、ゆっくりと順番に染み込んでいった。そのたびに、男は小さく息を吐いた。吐いた息が、火に触れる前に、空気の中に溶けて消えた。 ──ここで、しばらく、息をしていよう。 そう決めた途端、胸の奥の燻りが、不思議と静かになった。燻りは消えはしない。けれど、蓋をされたように、少しだけおとなしくなっていた。男はほんのわずかに口元をほころばせた。笑った、というよりは、強張っていたものがひとつ緩んだ、という程度の表情だった。それでも、昨日から今日にかけて、自分にできた一番穏やかな顔だったかもしれない。
そのときだった。 戸口のほうで、かさ、と、雑草を踏む音がした。 男の肩が、小さく跳ねた。風ではない。風は、あんなふうに、遠慮がちには歩かない。もう一歩、かさ、と音がして、それからぴたりと止まる。誰かが、戸口の手前で、息を潜めているのがわかった。 男はゆっくりと振り返った。 朝の淡い光を背に、崩れかけた戸口の向こうに、小さな人影と、その後ろにもう一つ、少し背の高い影が立っていた。こちらを覗き込むように、けれど踏み込むことはできずに。細い白い息が、二つ、ふわりと朝の空気に流れて、消えた。