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廃村の先生と古代魔術

第3話 第3話

第3話

第3話

戸口の向こうで止まった息を、男は正面から受け止めた。  逃げる気にはなれなかった。逃げるにしても、もう足腰は昨日の雨をたっぷりと吸い込んで重い。代わりに、男は膝の上にのせていた手を、ゆっくりと開いて見せた。何も持っていない、と示すその仕草すら、身体のほうが先に覚えていた気がした。かまどの奥では、朝の光より少しだけ赤い火が、ぱちり、と穏やかな音を立てている。青白い紋様の記憶はもう、袖の下に静かに眠っていて、今のこの土間には、湿った木の匂いと、薄い煙の匂いしかない。  「……朝から、すまない」  自分の声は、思っていたよりも掠れていた。誰に向けた言葉なのか、男自身にもよくわからなかった。けれどその一言が、戸口の向こうにいる二つの気配の強張りを、ほんのわずかに緩めたのがわかった。雑草を踏む音がもう一歩、こちらへ近づく。やがて、しわの深い手が、崩れかけた戸柱にそっと添えられた。日に焼けた指先が、まるで自分の家を訪ねるような、懐かしげな触れ方をしていた。  姿を現したのは、小柄な老婆だった。洗いざらしの灰色の頭巾を肩まで垂らし、痩せた背中に藁で編んだ籠を負っている。その腰のあたりから、さらに小さな影がひとつ、おずおずと顔を半分だけ覗かせた。七つか、八つくらいの少女だった。癖のある髪を一本だけ結んで、瞳だけがやけに大きい。二人とも、男の顔を正面から見ようとはせず、まずかまどの中の火を見た。火を見て、それから、ようやく火を起こした者の顔に、ほんの少しだけ視線を移した。  「生きた人の火だねえ」  老婆の声は、乾いた薪のような、けれど不思議と耳にやわらかい声だった。

 男は咄嗟に立ち上がろうとして、膝が鳴ったので、思い直して座ったまま軽く頭を下げた。老婆はそれを咎めもせず、少女の背を小さく押して、土間の縁までゆっくりと歩み寄ってくる。少女の手には、素焼きの小さな器がひとつ握られていた。縁が少し欠けていて、底には乾いた草の切れ端がくっついている。男のために、というよりは、誰かに火を分けてもらうための、昔ながらの合図のような器だった。  「嵐の翌朝に、この村で、煙が上がるのを見たのは、ほんとうに久しぶりでねえ」  老婆は籠を下ろし、しわだらけの手で腰を押さえながら、かまどの前にゆっくりと腰を落とした。膝を折るのもひと苦労らしく、土間に手をつく音がことりと響く。少女はその背に隠れたまま、男の袖のあたりをじっと見ている。袖の下の、あの線のことを見透かされているような気がして、男は思わず腕を引きかけて、けれどその仕草の途中でやめた。隠すほうが、かえって不自然に映るだろうと思った。  「お前さんが、ここに住み着くのかい」  「わからない」男は正直に答えた。「名前も、どこから来たのかも、思い出せないんだ。ただ、ここまで足が運んだ。それだけで」  老婆はしばらく黙って、男の目の奥をのぞき込むように見ていた。咎めるのでも、憐れむのでもない、ただ水面をのぞき込むような静かな視線だった。やがて、深いしわの奥で、ちいさく笑った。  「そうかい。名前なんぞ、あとでええ。朝の火を熾せる者が悪い者だったためしは、わたしの知っている限り、ないからのう」  男は何か言おうとして、結局、ありがとう、と小さく言った。礼の言葉が、自分の口から出てきたことに、自分で少し驚いた。長いこと、礼を言うという動作そのものから遠ざかっていた気がした。  老婆は籠の中から、麻布にくるんだ根の束と、乾いた葉を取り出した。薄い緑の葉は、指でこすると、どこかすっとした香りを立てた。冬を越した薬草の香りだった。そしてそれがどうしてか、男には「冬を越した薬草」だとわかった。知っているつもりもないのに、鼻の奥がまっすぐに思い出していた。  「井戸は、奥のが一番しぶとい」と老婆は言った。「上のは濁っちまったが、奥のは、掘れば今でも澄んだのが来るはずだ。孫と二人じゃ、もう桶を引き上げる力が足りなくての」  男は静かに頷いて、立ち上がった。老婆の言った奥の井戸は、廃屋の裏手にあった。

 縁石の苔を手で払い、男は桶の縄にそっと手をかけた。苔はしっとりと冷たく、指の腹に土のにおいと、かすかな鉄の味のような匂いを残した。引き上げてみると、縄は思っていたよりも素直で、軋む音ひとつ立てず、桶の底からは、確かに澄んだ水が揺れていた。けれどその水は、長く汲まれずにいたためか、底のほうにうっすらと濁りの尾を引いている。男はその水をしばらく見つめ、水面に映る自分の輪郭が、知らない誰かのようにぼやけているのを見て、それから、もう片方の手のひらを、そっと水面の上にかざした。  しようとしていることを、頭はまだ言葉にできていない。ただ、指の付け根のあたりで、昨夜見たあの青白い線が、ひとつ、ふたつと、静かに目を覚ます気配があった。怖い、と思った。怖い、と思ったのに、手は引っ込めなかった。胸の奥の燻りではなく、もっと手前のところに、この人たちに澄んだ一杯を飲ませたい、という、ただそれだけの温度があった。土間で小さく肩をすくめた少女の、あの細い指先と、薬草の葉を分ける老婆のしわだらけの手のひらが、まぶたの裏にゆっくりと並んだ。その温度を、男は初めて、自分の中にはっきりと見つけた気がした。  指先から、ごく薄い光が一筋だけ、水の中へ落ちていった。鈴のような音が、また、鳴ったか鳴らなかったかわからないくらいに鳴る。桶の底の濁りは、細かな砂になって、ゆっくりと縁の外側へ滑り落ちていった。水面が、硝子のように澄んでいく。男は、そっと息を吐いた。術というより、ただ、水に向かって「すまないが、もう一度だけ澄んでくれ」と頼んだような、そんな感覚だった。  土間に戻ると、老婆は、いつの間にか薬草を小さな束に分けていた。男は黙って火の上に古い鉄鍋を据え、澄んだ水を注ぎ、根と葉を落とした。湯気が立つまでのあいだ、誰もしゃべらなかった。しゃべらない時間が、少しも気まずくなかった。かまどの火が、二度、小さくはじけた。その音の合間に、少女が初めて、老婆の袖をそっと引いた。飲んでもいいの、と目で問う仕草だった。  薬湯は、朝の光の色と、草の色の中間のような色に煮出された。男は欠けた器にそれを注ぎ、両手で老婆と少女の前に差し出した。差し出しながら、自分の指先がほんの少し震えているのに気づいた。恐れではない。久しく誰かに「どうぞ」と器を差し出すことをしていなかった、その手つきを、身体が照れているだけだった。  老婆は両手で器を受け取り、湯気にひとつ、深く息を吸い込んでから、ひとくち啜った。喉がゆっくりと動く。それから、しわだらけの目尻に、小さく水が光った。  「ああ──生き返るねえ」  少女も真似をして、こくりと啜る。熱かったのか、肩を一度すくめ、それから小さな声で、おいしい、とだけ言った。その一言が、男の胸のいちばん奥の、ずっと蓋をされていた場所に、まっすぐに落ちた。胸の奥の燻りが、ちりちりではなく、じんわりと熱くなるのを、男は初めて味わった。喉の奥が勝手に狭くなって、息をするのに少しだけ時間がかかった。男は顔を火のほうへ向け、視線を隠した。火はそれを、咎めなかった。

 その夜、男は一人で戸口に腰を下ろしていた。  雲は流れ、月が、痩せた木々の向こうから廃村の石畳を青く照らしている。老婆と少女は、村外れのまだ屋根の残った小屋へ戻っていった。帰り際、老婆は振り返って、「明日も、火を絶やさんでおくれ」とだけ言った。頼むでもなく、願うでもなく、ただ明日の予定を置いていくような声音だった。  男は月明かりの中で、そっと袖をめくってみた。腕の線は、昼のあいだ眠っていたのが嘘のように、今はほんのりと青白く脈打っている。指先でなぞると、線は応えるように一度だけ熱を返した。忌まわしい力だと、昨日までは思っていた。けれど今夜は、この線に、あの澄んだ水と、おいしい、と言った少女の声が、うっすらと混ざって記憶されている気がした。  胸の奥の燻りに、男は静かに語りかけた。誰に裏切られたのか、まだ思い出せない。思い出したいとも、正直、思わない。ただ──この村を、もう一度、人が火を囲める場所に戻す。そのためだけに、この刻まれた術を使おう。過去のためではなく、明日、また誰かに「おいしい」と言わせるために。  月が、廃村の井戸の縁で静かに欠けた。遠くで、冬を越しそびれた虫が一匹だけ、短く鳴いた。男は立ち上がり、戸口を一度だけ振り返って、かまどの奥にまだ残る赤い種火を確かめた。枯れた井戸のほうから、土の下で何かがほんの少しだけ、身じろぎをした気がした。明日の朝、あの井戸にもう一度手をかざしてみよう、と男は思った。そのときはきっと、昨日までとは違う水が、湧いてくる。

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