第3話
第3話
行灯の灯芯が、ぱちりと小さく爆ぜた。 ハジメは搔巻の上に身を起こし、枕元に積まれた三冊の背を、指の腹でそっと撫でた。『最近経済年表』『本邦金融史概説』『米穀相場要覧』——煤けた藍の布表紙が、指紋の脂を薄く吸い取っていく。三畳の隅に置かれた行灯は、芯を短く切り詰めてあるのか、畳の目に届く光の輪がひどく狭い。その狭い光の中で、ハジメは一冊目の表紙を開いた。 油墨の匂いが、鼻の奥を刺した。令和の図書館で嗅いだどの古書よりも生々しく、まだ刷りたての活字の脂が、紙の繊維にじっとりと残っている。印刷所の機械の熱を想像した。この本が「新刊」として棚に並んでいた世界に、自分は今いるのだ。ハジメは一度、大きく唾を呑んだ。 隣の部屋からは、志乃の読経がまだ細く続いていた。その細い声の合間に、吾一の寝返りの音、搔巻の衣擦れ、そして時折、深い溜息。あの溜息の重さを、ハジメは椀の底に沈んだ梅干しの種の輪郭とともに思い出した。蔵が半分、人様のものになりかけている——。 頁をめくる指が、わずかに震えていた。 『昭和六年十二月十三日 金輸出再禁止ヲ断行ス 犬養内閣・高橋蔵相』 黒い活字の連なりが、図書館の隅で読んだあの冬の午後と、音もなく重なった。続きはもう、読まずとも諳んじられる。金輸出再禁止の直後、円は暴落し、ドル建ての輸出品が跳ね上がる。綿糸、生糸、綿花——外需に繋がる先物が、春先にかけて順を追って吹き上がっていく。そして米。——米は、翌年の凶作期待と軍需の気配を受けて、夏にかけて一段高となる。 ハジメは頁を繰った。繰るほどに、頭の奥でざわめきが増していった。
『米穀相場要覧』を膝に広げ、行灯を少し引き寄せた。油の匂いが一段濃くなり、芯先の赤い珠が、わずかに首を振るようにして紙面を舐めた。 昨年末の東京深川正米市場の引け値、一石あたりの数字が、細かな活字で律義に並んでいた。小さすぎる活字は、目を凝らせば凝らすほど、墨の粒が滲んで見えた。数字の下に、小さな註解。「金輸出再禁止ノ影響顕著ニ非ズ、依然需給ノ緩ミ続ク」——そう書いてある。つまり、この本が刷られた時点では、相場はまだ動いていない。動いていないが、動く条件はすべて揃っている。薪を組み、油を注ぎ、ただ火種を待っている竈のような静けさだった。ハジメは、頁の端を指先で軽く叩いた。叩きながら、令和の図書館で読み飛ばしたある一行を、執拗に手繰り寄せようとしていた。蛍光灯の青白い光、硬いパイプ椅子、冷房の微かな唸り——あの午後の記憶が、油墨の匂いの底から、ゆらりと立ち上がってくる。 ——確か、昭和七年の春から夏にかけて、米は一割五分、あるいは二割近く。綿糸は、もっと。生糸は、凶作と外需で、秋口までに……。 数字の細部は曖昧だった。曖昧なまま、それでも輪郭は確かだった。だが、方向は間違いない。向きさえ合っていれば、梃子は効く。張れば、増える。老夫婦の蔵の、半分。——いや、半分どころか、全部を取り戻せるかもしれぬ額の、輪郭だけが行灯の光の中に浮かんだ。浮かんだ輪郭は、すぐに消え、また浮かんだ。消えるたびに、ハジメの奥歯が、知らず知らずのうちに嚙み合わされていた。 心臓が、搔巻の下で早鐘を打ち始めた。掌の内側が、じっとりと湿っていく。その湿りを、学生服の膝で一度ぬぐった。ぬぐっても、またすぐに滲んだ。 ハジメは次に『本邦金融史概説』を開き、為替欄の頁を繰った。円ドルの日次表が、墨のにじみも生々しく並んでいる。年末の一ドル二円台から、年明けにかけての緩やかな円安——これは、まだ序の口だ。記憶の底で、数字が走り出す。春には三円台、夏には四円近く、そして秋。井上準之助、団琢磨、犬養毅——頁の余白に、まだ死んでいない者たちの名が、薄く浮かび上がっては消えた。五月に何が起きるか、ハジメは知っている。知っている、という事実が、掌に嫌な汗を呼んだ。その汗の冷たさが、行灯の熱と釣り合わず、背筋を一度、小さく震わせた。 ——俺は、これを知っている。 呟いた声は、己の耳にすら届かぬほど細かった。知っている、ということの重さを、ハジメは初めて秤にかけていた。落第生で、三浪で、誰からも期待されず、SNSの内定通知を薄い膜の向こうに眺めていた己が、この時代に、たった一つだけ持ち込めた荷物。それが、腹いせで読んだ昭和金融史の、黒い活字の記憶だった。腹いせの読書が、今、三畳間の行灯の下で、にわかに重みを増していた。 頁の上で、指先がぴたりと止まった。 「綿花先物、大阪三品取引所、二月中旬より騰勢ニ転ズ」——註解の一行。令和の本で読めば、ただの歴史記述だ。だが、今日は一月末。二月中旬は、来月の半ばだ。来月の半ば、という言葉が、ハジメの腹の底で、初めて「未来」という輪郭を持った。未来は、頁の中ではなく、障子紙の向こうで、明日の朝餉の支度とともに、律儀に明けてくる。その朝の数だけ、相場は動く。動く方向を、自分は知っている。 ——知っているだけでは、何にもならぬ。 ハジメは、きつく唇を噛んだ。血の味が、舌の先にわずかに滲んだ。知識は、身銭を切って初めて、数字になる。身銭とは、金である。ハジメには一文もない。学生服のポケットには、令和の硬貨が数枚あるきりで、それはこの時代では紙屑にもならぬ。 残る道は、一つだった。
行灯の光の中で、ハジメは長いこと動けなかった。 畳の目を見つめていた。目の粗い古い畳で、縁の藍が擦り切れ、ところどころに煙草の焦げ跡が黒い点を残している。その点の一つ一つが、吾一が文机の前で煙管を吹かしながら、相場表と睨み合った夜の数を数えているように見えた。去年の暮れから、少しばかり張っておった——穏やかな声の底に沈んでいた翳を、ハジメは今、畳の焦げ跡の中に読み取っていた。 助けたい、という言葉は、おこがましい気がした。助けるのは自分ではない。歴史が、勝手に動いていく。自分はただ、動く方向を知っているだけの、頁の読者に過ぎぬ。だが、読者であることを武器にできるのは、この部屋では、自分ひとりだった。老夫婦は、読者ではない。彼らは、頁の中に、名前も出ぬまま書き込まれる側の人間だった。崩れた蔵、取り立ての手形、仏前の読経——そういう一行で、ひっそりと済まされる側の。 ハジメは、搔巻を押しのけて、立ち上がった。 足裏が畳の冷たさを拾う。その冷たさが、屋上の手すりの冷たさと、一瞬だけ重なった。あの夜、掌の汗を吸い取った鉄の冷たさ。今は違う。今、足裏が拾っているのは、誰かの暮らしの冷たさだ。 襖に手をかけた。指先が、紙の破れをかすめた。破れの縁に、古い糊の跡が、爪先ほど残っている。志乃が、いつかの日に繕おうとして、繕いきれずに置いた跡だった。その爪先ほどの糊の跡が、ハジメの喉を詰まらせた。 襖を、細く開けた。 行灯のさらに細い光の下、吾一が文机の前に胡座をかいていた。眠れなかったのだろう。手元には、丸めた新聞と、古い算盤と、墨の薄くなった帳面。帳面の上で、指先が、同じ欄を何度もなぞっていた。志乃の読経は、いつの間にか止んでいた。襖の向こうの闇に、吾一の溜息だけが、ぽつり、と落ちた。 ハジメは敷居の手前で、両膝をついた。畳に額がつきそうなほど、深く頭を下げた。学生服の裾が、三畳の縁に擦れてかすかな音を立てた。吾一が顔を上げる気配があった。眼鏡の奥の目が、行灯の揺れに合わせて、ゆっくりと瞬いた。 「何かね、兄さん。——こんな時分に」 声は、穏やかだった。穏やかすぎるほどだった。ハジメは一度、深く息を吸った。石炭と、古本の黴と、行灯の油の匂いが、胸の奥で一つに混ざった。 「ご主人。——不躾を承知で、お願い申し上げます」 自分の声とは思えぬほど、低く、震えていた。畳についた両の掌が、汗で薄く跡を残した。額の下で、古びた藺草の匂いが、やけに青々と立ちのぼった。その青さが、かえって己の不遜を責め立てるようで、ハジメは一度、喉の奥で小さく呻いた。 「御店の、蔵のこと。——半分を、取り戻す算段が、一つだけ、ございます」 吾一の指先が、帳面の上で止まった。 「見ず知らずの書生の申すことと、お笑いくださって構いません。ただ、どうか——」 ハジメは頭を下げたまま、続けた。喉の奥がひりついた。言葉を選ぶ余裕は、もうなかった。 「拙者に、ほんの少しで構いませぬ。相場に張る金を、貸してくださいませぬか」 言い終えた瞬間、行灯の灯が、ふっと細く揺れた。 襖の紙の破れを通して、冬の朝のまだ来ぬ冷気が、三畳間に細く流れ込んでくる。吾一は、何も言わなかった。算盤の玉を、指先で一つだけ、そろりと弾いた。その、ことり、という一音が、ハジメの耳の奥で、やけに長く、尾を引いて響いた。