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昭和七年、落第生の相場帳

第2話 第2話

第2話

第2話

敷石の冷たさが、膝頭から背筋へと這い上ってきた。  山辺ハジメは、両膝をついたまま、しばらく立ち上がれずにいた。拳の中で敷石の砂が鳴る音だけが、やけに律義にこの世界の実在を告げていた。顔を上げれば、橙色のガス灯が相変わらず呼吸するように揺れ、新聞の立看板に刷られた「昭和七年一月二十八日」の文字が、墨の滲みまで含めてそこにあった。眩暈は去らなかった。去らぬまま、指先だけが妙に冴えてきて、爪の間の砂の粗さや、学生服の袖口に滲んだ泥の冷たさを、一粒ずつ拾い上げていく。  ——息を吸え。吸って、吐け。  己に言い聞かせて深く息を吸い込むと、石炭と馬糞と醤油の混じった空気が胸の奥まで届き、咳が込み上げた。その咳の勢いで、堪えていたものが一度に切れた。足裏が敷石の感触を思い出し、膝が震えながらもようやく伸びた。立ち上がった途端、視界の端が黒く滲み、ハジメは路地の塀に肩からぶつかった。漆喰の壁の粗さが、肩甲骨を通してじんじんと響いた。 「兄さん、しっかりしなせえ」  背後から、しわがれた声が飛んできた。振り向こうとした刹那、ふっと腰が抜けた。敷石が跳ね上がり、橙色の光がぐるりと回り、——それからは、記憶が途切れた。

 気がつけば、天井の板目を見ていた。  節の多い、古い杉の天井だった。黒ずんだ梁が斜めに走り、その上を煤けた蜘蛛の糸が一本、わずかに揺れている。鼻先に、粥の匂いがあった。米が煮崩れる、ほのかに甘い湯気の匂い。腹の底がきゅうと鳴って、ハジメは己がひどく空腹だということに、今さらのように気づいた。  身を起こそうとすると、薄い搔巻の重みの下で身体が軋んだ。身体の節々が、屋上から落ちたあの瞬間の衝撃を、まだどこかに抱え込んでいるような鈍い痛みだった。枕元に置かれた瀬戸の湯呑みから、白い湯気がまっすぐに立ち昇っている。その湯気の向こうで、障子紙に冬の朝の光が淡く滲み、細かい埃が一粒ずつゆっくりと昇っては降りていた。耳を澄ますと、遠くで豆腐屋のラッパが間延びに鳴り、どこかの軒先で雀が短く鳴き交わしている。——ああ、世界は昭和七年のまま、律儀に朝を刻んでいるのだ。ハジメは、その当たり前の事実に、胸の奥を鈍く押された。 「ああ、目ぇ覚めたかい」  襖の向こうから、丸い背中の老婆が入ってきた。手には、湯気の立つ土鍋。藍染めの前掛けは洗い晒されて色が褪せ、袖口には継ぎが当たっている。細い目が、ハジメを見て安堵したように緩んだ。 「三日、寝とりなさったよ。うちの人が神田明神の坂下で倒れとる兄さんを見つけて、背負うてきたんだわ」  三日、と聞いてハジメは絶句した。三日も、自分はこの部屋の天井を見ずに眠っていたのか。老婆は慣れた手つきで土鍋の蓋を取り、小振りの椀に粥を移した。梅干しが一つ、沈むように添えられた。 「ほれ。腹に何も入っとらんでしょう。ゆっくり啜んなさい」  震える手で椀を受け取った。指先に熱が伝わり、その熱が、なぜか胸の奥を一突きにした。木の匙で一口啜ると、塩気の薄い米の甘みが、舌から喉へ、喉から胃の腑へと滑り落ちていく。二口目で、ハジメの目尻から勝手に涙が滲んだ。死のうとした人間が、粥の甘さで泣くとは、我ながら情けない話だった。情けないと思ううちに、嗚咽が肩を揺らした。老婆は何も言わず、ただ搔巻の裾をそっと直してくれた。その掌の、節くれ立った指の熱が、布越しに膝頭まで届いた。  襖の向こうから、ごとり、と本を置くような音がした。 「起きなすったか」  入ってきたのは、痩せた老人であった。白髪を几帳面に撫でつけ、藍木綿の着物に古びた角帯を締めている。鼻の下に短い髭を蓄え、眼鏡の奥の目は柔らかいが、どこか疲れていた。指先にはうっすらと墨の染みが残っている。神田で古書を商っているのだ、と老婆は笑いながら言い添えた。屋号を「文耕堂」といい、夫は吾一、妻は志乃というらしい。 「兄さん、名は」 「……山辺、ハジメ、と申します」  乾いた唇で、ようやくそれだけを答えた。吾一は頷き、枕元の文机に置かれていた新聞を、ハジメの目につくようにそっとずらした。東京朝日新聞、昭和七年一月三十一日。三日前の日付から、確かに三日だけ進んでいた。紙面の端に、為替相場の細かい数字が並んでいる。ハジメの目は、粥の湯気越しに、その数字の列へ吸い寄せられた。ドル円、綿花、生糸、銀塊——見覚えのある単位が、見知らぬ水準で刻まれている。活字の一粒一粒が、墨の盛り上がりまで生々しく、指先で触れれば指紋に黒が移りそうだった。

 粥を啜り終えた頃、吾一がぽつりと言った。 「兄さん、身寄りは」  ハジメは、咄嗟に首を振った。嘘ではなかった。この時代の、この町には、誰一人としてハジメを知る者はいない。親も、兄も、同級生も、担任も、すべてが九十年以上先の、まだ生まれてもいない夜の向こうにいる。首を振ったきり言葉が続かず、搔巻の膝を握りしめた。吾一は深くは問わず、眼鏡の縁を押さえて、軽く息を吐いた。 「落ち着くまで、ここに居ったらよかろう。店の奥の三畳だがね、寝床くらいはある」 「……よろしいのですか」 「よろしいも何も」  吾一は苦笑した。その苦笑の底に、ふとした翳りがよぎるのを、ハジメは見逃さなかった。湯呑みを持ち上げる手の甲に、年相応でない筋張った力が入っていた。 「こんな時節だ。倒れとる者を見捨てるほど、神田の古本屋は薄情じゃあない。——もっとも、うちも人のことは言えぬがね」  志乃が、湯呑みに茶を注ぎ足しながら、ちらりと夫を見た。その視線の先で、吾一は少し言い淀み、それから自嘲するように口の端を歪めた。茶の湯気が、皺の深い頬の輪郭をひとしきり撫でて消えた。 「恥の話だがね。去年の暮れから、米だの生糸だので少しばかり張っておった。蔵を一つ、建て直そうと思うてな。それが……綺麗に、裏目に出た」  その一言に、ハジメの指先がぴくりと動いた。 「金解禁からこちら、相場はさっぱり読めん。去年の暮れに金輸出が再禁止になったと思えば、年明けはこの騒ぎだ。儂のような田舎者の古本屋が手を出してよい水ではなかった。——蔵を一つどころか、店の蔵も、半分、人様のものになりかけておる」  声音は穏やかだった。穏やかな分だけ、その言葉の重みが、畳の目を通して伝わってきた。志乃は何も言わず、ただ湯呑みの縁を指先でなぞっていた。その指の関節が、粉を吹いたように白かった。襖の桟の向こうで、掛け時計の振子が、ことり、ことりと間延びに時を刻み、その音のひとつひとつが、借金の利息を数える算盤玉のようにハジメの耳に刺さった。  ハジメは、椀の底に残った梅干しの種を、じっと見つめていた。赤黒い皺の寄った種は、湯気の余熱でまだかすかに湿り、椀の白磁にぽつりと影を落としている。その影の輪郭が、なぜか、崩れた蔵の石垣の断面のように見えた。  ——金輸出再禁止。昭和六年十二月十三日。犬養内閣、高橋是清蔵相。  記憶の底で、黒い活字が整然と並び始めた。屋上に立つ前の冬、図書館の隅で貪り読んだ、あの分厚い昭和金融史。綿花、生糸、米、株式——どの頁に何が書かれていたかを、ハジメの指先はまだ覚えていた。腹いせで読んだはずの文字列が、今この瞬間、老夫婦の疲れた横顔と、ぴたりと重なっていく。蔵が半分、人様のものになりかけている。その「人様」の顔までが、頁の向こうから浮かび上がってきそうだった。頁を繰る乾いた紙の音と、志乃が茶を注ぐ湯の音とが、耳の奥でひとつに溶け合った。  胸の奥で、薄い膜のようなものが、静かに破れる音がした。

 その夜、ハジメは店の奥の三畳間に寝かされた。  行灯の薄明かりの下、志乃が「どうぞ」と何冊かの古本を枕元に置いていった。煤けた背表紙の中に、『最近経済年表』『本邦金融史概説』『米穀相場要覧』——ハジメの目は、その題字の上で縫い止められたように動けなかった。指を伸ばす。表紙の布の手触りが、令和の図書館で触れたそれと、驚くほど同じだった。紙の端からは、古本特有の黴と埃と、かすかに甘い糊の匂いが立ちのぼり、鼻腔の奥で、死のうとした日の午後の図書館の匂いと、音もなく重なった。  隣の部屋から、志乃の読経が、細く低く流れてきた。観音経であろうか、同じ一節が繰り返されるたび、その声が微かに震えた。吾一の溜息が、ときおりその合間に混じる。蔵が半分、人様のものになりかけている——その事実を、老夫婦は仏前でどう呑み下しているのか。  ハジメは搔巻の中で、きつく目を閉じた。  屋上から落ちて、汽笛の向こうに流れ着いた己の命が、なぜ、よりによってこの店の敷居の向こうで拾われたのか。偶然にしては、あまりに出来すぎていた。  ——見返してやる、どころではない。  そう呟いてから、ハジメはゆっくりと目を開いた。枕元の『本邦金融史概説』の背に、行灯の光がひとすじ、細く落ちていた。

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