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昭和七年、落第生の相場帳

第1話 第1話

第1話

第1話

手すりの冷たさが、掌の汗を吸い取っていった。  山辺ハジメは、予備校の屋上から夜の街を見下ろしていた。眼下では、塾帰りの高校生たちが笑いながらコンビニへ吸い込まれていく。自動ドアの向こうから漏れる蛍光灯の白い光が、彼らの制服のブレザーをやけに鮮やかに浮かび上がらせていた。遠くの高層ビルの赤い航空障害灯が、心臓の鼓動のように点滅していた。令和七年、三月。大学受験に三度敗れた二十一歳の冬の終わりである。風が、校舎の縁を鋭く削りながら吹き上げてきて、ハジメの学生服の裾を鞭のように打った。 「もう、いいか」  口の中で呟いた声は、自分のものとは思えぬほど乾いていた。母の溜息、兄の嘲笑、同級生のSNSに並ぶ内定通知と桜の写真——それらはすべて薄い膜の向こう側の出来事で、ハジメの指先はもう何にも届かなかった。参考書を積み上げた部屋も、模試の判定Eの紙束も、受験に落ちた腹いせで図書館に籠もって読み漁った昭和金融史の分厚い背表紙も、いまはただ遠い。掌の感覚が次第に失われ、手すりを握っているのか、もう握っていないのか、それすら曖昧であった。耳の奥で、遠くの電車が踏切を渡る金属音が、やけに甘やかに響いた。最後に聞く音がこれか、と思った。思った瞬間、笑いたくなった。笑いはしなかった。  手すりに体重を預ける。革靴の底が、濡れた鉄板の上をわずかに滑った。  ——あ。  声にならぬ短い音が、喉の奥で弾けた。身体が傾ぐ。視界の中で、夜の街の光が斜めに流れていく。コンビニの青、信号の赤、自販機の白——それらが一本の帯になって、ハジメの眼球を裏側から炙った。落ちるのだ、と頭のどこかで思った瞬間、耳をつんざく音が鼓膜を叩いた。

 汽笛、であった。  低く、長く、腹の底を揺さぶるような音。それは現代の電車の走行音でも、救急車のサイレンでもなく、遠い蒸気機関車のくぐもった咆哮だった。音は一度では終わらず、尾を引きながら二度、三度と重なり、そのたびに耳の奥の骨が小さく痺れた。ハジメはきつく閉じていた瞼を、おそるおそる開けた。瞼の裏に残っていた赤い残像が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。  土と煤の匂いが、真っ先に鼻を突いた。喉の奥にざらりとした微粒子が張りつき、思わず咳き込んだ。吐いた息が、ありえぬほど白く、濃かった。咳をするたび、胸の奥で何か薄い膜が破れるような痛みが走り、その痛みがかえってハジメに「自分はまだ肉体を持っている」ということを突きつけた。死のうとした者が、最初に感じるのが喉の痛みだというのは、奇妙な冗談のようでもあった。  次いで、下駄の音。乾いた拍子木のような音が、幾重にも重なって耳の中を駆け抜けていく。カラン、コロン、カラコロ、と大小さまざまの拍が不規則に刻まれ、耳慣れぬそのリズムが、かえってハジメの眩暈を深くした。ハジメはよろめきながら膝をつき、両の手で地面を押さえた。掌に触れたのは、濡れたアスファルトではなく、冷たい敷石と湿った土であった。指先に、馬の毛らしき細い一本が貼りついていた。指でつまんで目の前に翳すと、それは確かに獣の毛で、根元にわずかな脂のぬめりを残していた。 「——嘘、だろ」  顔を上げた彼の目に、まず映ったのはガス灯であった。ぼんやりと橙色の火を灯した鉄の柱が、細い路地の両側に連なっている。火は揺らぎ、時おりふっと細くなっては、また膨らんだ。電気の照明とは違う、呼吸するような光であった。光の輪は地面に淡い楕円を描き、その縁では闇が濃く固まって、まるで光と影が互いの領分を譲り合っているかのようだった。軒の低い町家がびっしりと肩を寄せ合い、どの店先にも縦書きの木札が垂れていた。「古書」「煙草」「しる粉」——読める字と読めぬ字が、すすけた墨色で並んでいる。木札の縁には、長年の雨風で細かいひびが入り、下端が黒く腐っていた。  人の波が、ハジメの両脇を流れていく。角帯を締めた男、銘仙の羽織を肩に掛けた娘、白い割烹着の女将、束髪に櫛を挿した老婆。誰も彼も、下駄か草履を履いていた。靴の男はほんの一握りで、その靴もまた、革の艶がハジメの知るそれとはまるで違う。娘の首筋からは椿油の甘い匂いが立ち、老婆の袂からは乾いた沢庵の香りが漏れていた。すれ違う誰もが、ハジメの学生服に一瞬だけ目を留め、そして目を逸らした。奇異の視線が、針のように肌に刺さった。その視線は嘲りでも憐れみでもなく、ただ「見てはならぬもの」を避けるような、無言の拒絶であった。ハジメは肩をすくめ、襟元をかき合わせた。指先が、自分の喉仏の震えを拾った。 「……ここ、どこだ」  呟いた声が、白い息となって宙に溶けた。三月にしては寒い。そのくせ、空気の質が奇妙に重い。石炭を焚く匂い、醤油を煮詰める匂い、馬糞のような獣の臭い——嗅いだことのない匂いが幾重にも混ざり合い、ハジメの胸を圧した。頭上を見上げれば、電線は一本も見えなかった。その代わりに、細い月が、煤けた瓦屋根の稜線に引っかかるように浮いていた。星が、東京の夜空とは思えぬほど、くっきりと冴えていた。星の光は冷たく、しかし不思議と優しく、ハジメの濡れた頬をひとしずく撫でた気がした。  夢だ。夢に違いない。落ちた衝撃で頭を打って、病院のベッドで見ている長い夢。そう己に言い聞かせながら、ハジメはよろよろと立ち上がった。学生服の裾が、泥で汚れていた。指先で泥を払おうとして、その泥の粒の粗さに、また指が止まった。夢の中の泥は、こんなに冷たくはないはずだった。爪の間に食い込んだ砂粒の一つ一つに、確かな重さがあった。  通りがかった職人風の男が、胡乱な目を向けてきた。前掛けに鉋屑をいくつもくっつけ、首には手拭いを巻いている。 「兄さん、どうしたえ。顔が真っ青だ」  言葉は聞き取れる。だが、抑揚が妙に古めかしい。芝居小屋の弁士のような、あるいは祖父の遺したレコードで聞いたような、そんな調子であった。男の口の端から、煙管の煙がほそく立ち昇っていた。その煙草の匂いすら、ハジメの知るどの銘柄とも違う、乾いた藁のような香りだった。ハジメは何も答えられず、ただ首を振った。男は肩をすくめて、下駄を鳴らして去っていった。その背中が、ガス灯の橙色にひととき染まり、やがて闇に溶けた。

 ハジメは路地の辻まで歩き、そこに立てられた新聞の立看板の前で凍りついた。  墨汁で刷られた大見出しが、目の中に飛び込んできたのである。紙は粗く、端がわずかに波打ち、刷りむらで一部の活字が滲んでいた。インクの匂いがまだ微かに残っており、それは鼻の奥で鉄錆のような後味に変わった。  『満洲事変後の景気 いまだ戻らず 失業者銀座に溢る』  その下に、小さく日付が印字されていた。  ——昭和七年、一月二十八日。  昭和、七年。  口の中で、その四文字を何度も転がした。舌が痺れていた。昭和七年といえば、ハジメが受験の年に腹いせで読み漁った金融史の、ちょうど一番の地獄である。世界恐慌の余波、金輸出再禁止の直後、翌月には血盟団事件、五月には五・一五事件、そして秋には満洲国の建国宣言——黒い活字の連なりが、記憶の底から次々と浮かび上がった。井上準之助、団琢磨、犬養毅——すでに死んだ者、まだ死んでいない者、その名前たちが頭の中で順番に並び、そしてぐるぐると回り始めた。頁の匂い、図書館の蛍光灯、指先に残ったインクの黒——あの退屈で無目的だった読書のひとつひとつが、いま突然、己の命綱のように思えた。  膝が、がくりと折れた。敷石の冷たさが、膝頭を通して骨まで染みた。 「戦前、だ……」  呻くように呟いた刹那、通りの向こうから、一段と重い足音が近づいてきた。  ハジメは顔を上げた。  カーキ色の軍服。腰には長い剣。鍔の広い軍帽を目深にかぶり、肩章に光る階級章は知らぬ形をしていた。憲兵である、と直感した。男はハジメの脇を、一顧だにせず通り過ぎていく。その肩のいからせ方、革長靴の踏みしめる重み、すれ違いざまに鼻を掠めた煙草の残り香——すべてが、令和の街で嗅いだどの匂いとも違っていた。長靴の鋲が敷石を打つたび、硬質な音が路地の壁に跳ね返り、ハジメの背骨を真っ直ぐに貫いた。軍帽の庇の下から一瞬だけ覗いた眼は、感情を差し挟む隙のない、鉱物のような色をしていた。ハジメは息を殺した。息を殺したまま、その背中が角を曲がって消えるまで、瞬きひとつできなかった。  背筋を、氷のような汗が伝い落ちた。  落第生の山辺ハジメが三度の受験に敗れ、屋上から身を投げた夜。彼が落ちた先は、病院のベッドでも、あの世でもなかった。  下駄の響き、ガス灯の火、煤けた瓦屋根、そして肩をいからせて去っていく憲兵の背中。  ——この町は、歴史の教科書の中にある。  ハジメは、敷石の上に両膝をついたまま、ゆっくりと拳を握りしめた。拳の中で、敷石の砂がじゃり、と鳴った。その小さな音だけが、やけに生々しく、この世界が夢ではないことを告げていた。

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