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悪役令嬢は扇を閉じて微笑んだ

第1話 第1話

第1話

第1話

扇の骨が、手のひらの中で小さく軋んだ。

 大広間の天井から垂れる幾百ものシャンデリアの光が、揺れる水面のようにわたくしの視界を浸している。金糸で縁取られた絨毯、磨き上げられた大理石、薔薇と白百合を活けた大ぶりの花器——いつもなら誇らしく見上げていたはずのそれらが、今夜に限って、ひどく遠い景色のように感じられた。花の香りすら、どこか甘ったるく、喉の奥に薄い膜を張るようで息苦しい。楽団の弦は、いつの間にか音を止めていた。それなのに、耳の奥では先ほどまでのワルツの旋律が、壊れかけた時計のように、ぎこちなく繰り返されている。

 目の前には、婚約者であるアルベルト殿下が立っていらっしゃる。

「クラリス・フォン・エーデルシュタイン。聖なる御身を穢した罪——もはや看過できぬ」

 声は、よく知っているはずのものだった。けれどその響きから、わたくしの名を呼ぶときの、あの少しだけ甘さを帯びた響きは、すっかり剥がれ落ちている。隣で殿下の腕に縋るように寄り添う少女——聖女ミレイユ様の、薄桃色の瞳が濡れたように光って、こちらを見上げていた。その指先が殿下の袖口を、ほんのわずかに、けれど確かに握り直したのを、わたくしの目はなぜだか見逃さなかった。

 広間のあちこちから、小さなざわめきが起こる。誰かがくすりと笑った気がした。扇の陰で。グラスの縁で。わたくしは、誰がそうしたのかを見ようとして、けれどやめた。見てしまえば、きっともう立っていられない。コルセットの紐が、呼吸のたびに肋骨を締め上げる。額のあたりに、冷たい汗の粒が一つ、ふっと浮いて、結い上げた髪の生え際へ吸い込まれていった。

「身に覚えが、ございません」

 思いのほか、自分の声はしっかりしていた。少し驚いた。震えていたのは指先だけで、喉はまだわたくしに仕えてくれている。

「見苦しい」

 殿下の声が、わたくしの言葉を薄い氷のように踏み砕いた。

「ミレイユを階段の上から突き落とそうとしたこと。庭園の井戸に香油を流したこと。侍女に命じて、彼女の祈祷書を池へ投げさせたこと——証言は、いくつも上がっている」

 証言、という言葉が耳の奥で反響する。

 ——わたくしは、階段になど行っていない。井戸の場所すら、たしか東か西かで迷ったことがある。祈祷書が池に浮いていたと聞いたあの日、わたくしは高熱を出して寝台にいた。額に冷えた手拭いを載せてくれた侍女のアンナの、あの少し荒れた指先の感触まで、わたくしはまだ覚えている。

 言いたいことは、いくつもあった。けれどそれを言うための唇が、今夜はどうしても、うまく開いてくれなかった。

 おそらく、誰も聞く気がないからだ。

 言葉というものは、聞かれてはじめて言葉になる。聞かれない言葉は、口から出た途端に、床に落ちて砕ける硝子の粒のようなものだ。拾い集めても、もう誰の耳にも届かない。わたくしは、その硝子の粒を、これ以上この絨毯の上に散らかしたくなかった。

 わたくしは、そっと扇の向こうへ視線を逃がす。広間の奥、玉座に近い柱の陰に、ひとりの青年が立っていた。殿下の従弟でいらっしゃる、第二王子ユリウス様。いつも物静かなあの方が、ひどく硬い表情でこちらを見ている。目が合ったとき、わたくしは咄嗟に睫毛を伏せた。なぜだかわからない。ただ、見られていたくなかった。憐れまれるのも、信じられるのも、今のわたくしには同じくらい、重たすぎた。

「よって、王家の名において——汝との婚約を、破棄する」

 広間の空気が、ひとつの大きな息を吸い込んだ音がした。

 誰かが、小さく歓声を上げた。「まあ」と、ご婦人の誰かが扇の陰で囁く声。「当然ですわ」と、別の誰か。「ずっとあの方、冷たい目をしておられたもの」「聖女様がお可哀想で」——嘲りとも同情ともつかない視線の束が、わたくしの背中と頬と、結い上げた髪の生え際を、じわじわと焼いていく。耳朶が熱い。けれど指先は、氷を握らされているかのように冷たい。身体の中で、熱と冷たさが別々の方向へ引き裂かれていくようだった。

 ミレイユ様が、小さな声で「殿下……」と呟いた。潤んだ瞳が殿下を見上げ、その薄い肩がかすかに震える。ああ、そう、そういうふうに泣くのだと、わたくしは妙に冷めた気持ちで思った。涙というのは、流す場所を選んで初めて意味を持つものなのだ。わたくしは、それをずっと知らずにいた。自分の部屋で、枕に顔を押し付けて泣いた涙を、誰も数えてはくれなかった。数えられない涙は、きっとこの世に落ちなかったのと同じことなのだろう。

 扇の骨が、もう一度、小さく鳴く。

 ——ここで、膝をついて泣かなくてはいけないのだ。

 頭のどこかで、そんな声がした。誰の声だろう。自分の声のようで、そうでないような。膝をついて、否認して、すがって、それでも許されず、みじめに引き摺られて退場する。そうすれば、この夜は型通りに終わる。みんなが安心して眠れる夜になる。殿下は聖女の肩を抱き、ご婦人たちは明日のお茶会で今夜の顛末を語り合い、わたくしの名は、数日のうちに、噂の形をした塵となって社交界の隅へ掃き出されていく。

 なのに、どうしてだろう。

 わたくしの膝は、折れなかった。

 折れるかわりに、背筋のあたりに、ひどく静かな冷たさが降りてきた。雪の降り始めの、あの最初の一粒が頬に触れたときに似た冷たさだった。その冷たさが、胸の内側をゆっくりと下へ下へと滑っていき、つま先のほうで小さく灯をともす。——冷たいのに、灯る。矛盾したその感覚を、わたくしは不思議と怖いとは思わなかった。むしろ、長いあいだ閉め切っていた窓を、誰かがそっと開けてくれたような、そんな心地さえした。

 気がつくと、わたくしはとても深く、息を吸っていた。

 顔を上げる。殿下のお顔を、今夜初めて、まっすぐに見た。

「——承りました」

 自分でも意外なほど、澄んだ声だった。

 殿下がわずかに眉をひそめる。ミレイユ様の薄桃色の瞳が、一瞬だけ、すっと細まったのを、わたくしは見た。柱の陰のユリウス様が、息を呑んだような気配も。

 わたくしは扇を閉じ、胸の前でそっと両手を重ねた。作法通りの一礼。母がまだ生きていた頃、毎朝のように鏡の前で繰り返し教えてくれた、エーデルシュタインの娘としての、もっとも丁寧な礼。背筋を伸ばし、踵を揃え、顎の角度はほんのわずかに引いて——「お前の背は、お前ひとりのものではないのよ、クラリス」。あの日の母の、紅茶のような低い声が、今になって肩甲骨のあいだに戻ってくる。

 顔を上げたとき、自分が微笑んでいるのがわかった。

 なぜ微笑えたのかは、自分でもわからない。ただ、こみ上げてくる何かを、涙以外のかたちで外へ逃がしたとき、それはたまたま微笑という形を取っただけなのかもしれなかった。

 広間のどこからか、小さな息を呑む音がいくつも重なって聞こえた。

 ——そのとき、ふと。

 頭の奥で、知らない天井が見えた。

 白くて、四角くて、安物の蛍光灯の光が一本、ちらちらと瞬いている天井。首のうしろにひんやりとしたフローリングの感触。机の上に置かれたマグカップの、冷めた珈琲のにおい。開きっぱなしのノートパソコンの画面には、見覚えのある立ち絵——金髪の王子と、薄桃色の髪の少女と、その傍らで扇を握って睨みつける、銀髪の令嬢。

 『——選択肢:クラリスに反論する/黙って俯く』

 目眩がした。

 耳の奥で、広間のざわめきがすうっと遠のいていく。殿下の声も、ミレイユ様のしゃくり上げる声も、水の底に沈めたように遠い。代わりに、別の音が近づいてくる。車のクラクション。駅のアナウンス。コンビニの自動ドアが開く、あの軽い電子音。改札を抜けるときのピ、という短い音。誰かが笑いながら通り過ぎる、聞き覚えのない言葉のイントネーション。——それらのすべてが、わたくしの知らない、けれどなぜか懐かしい街の音だった。

 扇が、指先からこぼれ落ちる。

 床にあたる音を聞くより早く、わたくしの膝は、今度こそ静かに折れた。けれどそれは、筋書き通りの涙のためではなかった。大理石の冷たさが、薄い夜会服の布越しに膝頭へ食い込んでくる。その痛みが、むしろ遠い。自分の身体が、自分のものでないみたいに遠い。

 視界の端で、柱の陰のあの青年が、弾かれたように一歩踏み出すのが見えた。その唇が、わたくしの名を呼ぼうとして、途中で止まる。靴底が大理石を鳴らす、ほんの一歩分の音。それが、この夜のなかで、唯一わたくしのために鳴ってくれた音のような気がした。

 ——ああ、と、頭のどこかで誰かが囁く。

 わたくし、この物語を、知っている。

 崩れていくまぶたの裏側で、見知らぬ天井の蛍光灯が、ゆっくりと、ひとつ、またひとつと灯っていった。

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