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悪役令嬢は扇を閉じて微笑んだ

第2話 第2話

第2話

第2話

瞼の裏で、蛍光灯の光がひとつ、またひとつと灯っていく。

 それは、わたくしの知っているどの灯りとも違った。シャンデリアの揺らめきでもなく、寝室の枕元に置かれた銀燭台の、あの柔らかな蝋の炎でもない。白く、硬く、少しだけ青みを帯びて、じじ、と細い虫の羽音のような音を立てながら瞬く光。見上げているうちに、その光の下に、見知らぬ自分の輪郭がゆっくりと浮かび上がってきた。

 黒い髪を肩のあたりで無造作に束ねた、痩せた女の人。膝を抱えて、安物のラグの上に座り込んでいる。机の上には、冷めきった珈琲のマグカップ。開きっぱなしのノートパソコン。画面の中では、銀髪の令嬢が扇を握りしめて、金髪の王子を睨みつけていた。——わたくし、だ。画面の中のあの令嬢は、まぎれもなくわたくしだった。

「……クラリス、お嬢様」

 遠くで、誰かが呼んでいる。

 アンナの声だと気づくまでに、ずいぶん長い時間がかかった気がした。重たい瞼を押し上げると、天井にはいつもの臙脂色の天蓋布が垂れていて、その縁には金糸で刺された小さな蔓薔薇が、覚えのある順番で並んでいた。蛍光灯ではなく、燭台の蝋の匂い。枕元の小卓に、水差しの硝子が夜気に曇って、ほのかに光っている。

「ああ、よかった……お目覚めになられて」

 アンナの声が、涙ぐんでいる。その少し荒れた指先が、わたくしの額にあてがわれた冷たい布を、そっと取り替えた。高熱を出して寝込んだ日と同じ手つきだった。ああ、そうだ、この指先を、わたくしは覚えている。知っている。ちゃんと、知っている。

 けれど、同時に、わたくしは別のことも知ってしまった。

 瞼を伏せると、すぐに戻ってくる。白い天井と、冷めた珈琲のにおいと、駅のアナウンスと、自動ドアの電子音。ノートパソコンの画面に表示された、『選択肢:クラリスに反論する/黙って俯く』という白抜きの文字。その選択肢の向こうで、わたくしは——いや、あの痩せた女の人は、ほんの少しだけ笑ってマウスをクリックしていた。

「ごめんねクラリス。でもあなた、悪役令嬢だもの」

 自分のものではない声が、耳の奥でそう呟く。

 わたくしはしばらく、身動きひとつできなかった。

 ——

 どれくらい、そうしていたのだろう。アンナが下がる気配があり、扉の向こうに父の低い咳払いが聞こえ、やがてそれも遠ざかっていった。廊下を歩く使用人たちの足音が、いつもより慎重で、いつもより控えめだ。誰もが息をひそめて、この部屋の主の次の息遣いを待っている。そのことが、なぜだか他人事のように感じられた。

 わたくしは、ゆっくりと寝台を降りた。

 裸足のつま先に、夜更けの床の冷たさが触れる。その冷たさが、思いのほか鮮明にわたくしを現実へ繋ぎ止めてくれた。ああ、わたくしはまだ、この身体を持っているのだ。銀の髪を指先で払い、化粧台の鏡の前に立つ。硝子の中で、青灰の瞳をした見慣れた娘が、こちらをじっと見返してきた。

 昨日までの、クラリス・フォン・エーデルシュタイン。

 そして——その奥に、もうひとり、痩せた黒髪の女の人が、薄く透けて重なっている。名前は、なんといったのだったか。苗字は、ありふれたもの。下の名前は、祖母がつけてくれた古風な音。会社の机の引き出しの奥に、飴の包み紙と、去年の健康診断の結果と、返信できなかった母からのメッセージが入ったままになっていた。——残業続きで、終電を逃した夜。雨の歩道橋の階段を降りる途中で、ヒールが滑ったのだった。最後に見たのは、濡れたアスファルトに滲む赤い信号の光。

「……そう」

 自分の唇が、小さく動いた。

 泣くべきなのかもしれなかった。二つの人生のどちらにも、きちんと泣いてあげるべきだったのかもしれない。けれど、涙は不思議と湧いてこなかった。代わりにやってきたのは、長い長い旅のあとで、ようやく宿の扉の前にたどり着いたような、奇妙に静かな疲れだった。

 化粧台の抽斗に、ほんの小さな本を押し込んでいたのを思い出す。攻略本の代わりに、前世のわたくしが何度も読み返していた、あの乙女ゲームの設定資料集。今は手元にない。けれど、内容は、頁の順番まで、ありありと浮かんでくる。

 第一章『断罪の夜会』。

 悪役令嬢クラリス、婚約破棄を突きつけられて広間で泣き崩れる。ヒロインへの嫉妬、身勝手、高慢——そういった言葉で飾られた彼女の罪状が、プレイヤーの胸を小さく溜飲の下がる思いにさせる。その夜を境に、クラリスは修道院送り、あるいは国外追放、選択肢によっては——毒を煽って、自ら幕を引く。

 ああ、そうだった。わたくしは、あの結末を「ざまあみろ」と、笑いながら見ていた人間だった。

 胸の奥に、鈍い痛みが走る。けれどそれは、クラリスを哀れむ痛みではなかった。画面の向こうの「役」として笑い飛ばしていた少女の痛みを、今になって、皮膚の内側から知ってしまった——そのことへの、静かな恥ずかしさの痛みだった。

 あなたは、こんなに寒かったのね。

 鏡の中の娘に、わたくしは心の中だけでそう話しかけた。

 ——

 夜の窓辺に立つと、庭園の向こうに、白く霞んだ月が出ていた。

 月の光を、ずいぶん久しぶりに見た気がした。前世でも今世でも、いつも何かに追われていて、月を見上げる余裕などなかった。残業帰りの歩道橋からも、夜会帰りの馬車の小窓からも、月はいつも、誰かのための背景に過ぎなかった。

 わたくしは、窓枠にそっと手をかける。硝子の冷たさが、指先から肘へと、ひとすじの細い川のように染みてくる。その冷たさの中で、昨夜から抱えていたいくつもの問いが、ゆっくりと順序を見つけていった。

 ——この物語が、あの乙女ゲームと同じ筋書きで進むのなら。

 わたくしは、これから先も、都合よく陥れられ、都合よく誤解され、都合よく笑われて、そして最後には型通りに処分されるのだろう。聖女ミレイユの涙は、その都度きちんとヒロインらしく震え、殿下はその涙のためにしか剣を振るわない。ユリウス様の憐れみも、騎士団長レオンハルト様の正義も、本編のクラリスには決して手渡されることがない。なぜなら、「悪役令嬢」というのは、手渡されない側の名前だからだ。

 けれど、今夜のわたくしは、もう、その役を受け取る義理がなかった。

 筋書きを、わたくしは知っている。

 知っているということは、降りられる、ということだ。

 悲鳴を上げて追いかけなくてもいい。膝をついて縋らなくてもいい。聖女の涙にいちいち傷つかなくてもいい。殿下の冷たい声に、これ以上、自分の夜をあげなくていい。——そう思った瞬間、胸のあたりに灯っていたあの小さな冷たい灯が、ほんの少しだけ、ふわりと大きくなった気がした。

 たとえ、この先に追放があっても。修道院の高い塀があっても。毒の杯が差し出される夜があっても。そこへ運ばれていくわたくしが、「筋書きに怯えて泣くクラリス」でなくてもいい。せめて、自分の足で歩いて、自分の眼差しで月を見上げて、自分の呼吸で終われるクラリスでありたい。

 昨日までのわたくしが、夜ごと枕に押し付けて流していた涙の数を、今夜だけは、わたくし自身が数えてあげようと思った。誰にも数えてもらえなかったぶん、わたくしがわたくしのために。ひとつ、ふたつ、みっつ、と、指を折るように。そうして数え終えたら、もう、同じ涙は流さない。

 窓辺の小卓に、昨夜の扇が置かれていた。骨のひとつに、小さな亀裂が入っている。きっと、広間で握り締めすぎたときに軋んだあの音の正体だ。わたくしは、その扇をそっと手に取り、胸の前でゆっくりと、折りたたむようにして閉じた。

 ——かちり、と、小さな音がした。

 その音は、わたくしの耳には、どんな宣言よりも静かで、どんな誓いよりも確かに響いた。

「もう、泣いてあげる義理はないわ」

 呟いた声は、前世の女の人の声と、クラリスの声と、どちらのものでもあり、どちらのものでもないようだった。二つの人生が、ひとつの唇の上で、ほんの少しだけ触れ合った気がした。

 月の光が、閉じた扇の縁を、銀色に縁取っていく。

 ——

 廊下の奥で、遠い鐘の音が、夜明け前の時刻を告げはじめた。

 わたくしは窓を離れ、化粧台に戻って、ほどけかけた銀の髪を一本、指先で掬い上げる。鏡の中の娘は、もう昨夜の広間で震えていた令嬢ではなかった。微笑んでいるわけではない。けれど、確かに、まぶたの奥のどこかに、ほんの小さな灯がひとつ、ともっている。

 ふと、枕元の小卓に、一通の封書が置かれているのに気づいた。いつの間に届いたのだろう。アンナが置いていったのだろうか。蝋印はない。差出人の名もない。ただ、白い紙の上に、見覚えのない筆跡で、わたくしの名が記されている。

 クラリス・フォン・エーデルシュタイン様へ。

 その一行を目にした瞬間、なぜだか、窓の外の月が一瞬だけ翳ったような気がした。指先で封を裂こうとして、わたくしはふと、手を止める。この筆跡を、わたくしは知らない。知らないはずなのに——胸の奥の、前世の記憶が眠っているあたりが、なぜか、かすかに、ざわりと波立った。

 夜明け前の空気が、ひとつ、静かに息を止めた。

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