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悪役令嬢は扇を閉じて微笑んだ

第3話 第3話

第3話

第3話

封を裂こうとした指先が、ためらったまま宙に止まっていた。

 見覚えのない筆跡。けれど、胸の奥のどこかが、この文字の傾きをうっすらと知っている気がする。前世の記憶の、まだ埃をかぶった抽斗の奥から、誰かがそっとこちらを覗き込んでいるような——そんな、うなじの産毛がわずかに逆立つ感触。わたくしはしばらくそのまま、白い紙の上に落ちた自分の影を見つめていた。

 結局、封は切らなかった。

 切ってしまえば、せっかく今夜決めたばかりのことが、また誰かの筋書きの頁へ引き戻されてしまいそうな気がしたのだ。わたくしは封書を抽斗の奥へ静かに滑り込ませ、そのかわりに、窓の外の空をもう一度見上げた。白く霞んでいた月はもう薄れて、東のほうから、夜明け前の灰青色がゆっくりと滲み出している。

 ——薔薇園へ、行こう。

 なぜそう思ったのかは、自分でもよくわからなかった。ただ、あの封書の気配から、少しだけ遠くへ歩いておきたかった。膝をつかずに歩ける足が、まだ自分にあることを確かめたかった、のかもしれない。

 アンナを起こすのは忍びなくて、わたくしは自分で薄手の肩掛けを取り、足音を殺して階段を降りた。屋敷のどこかで、暖炉に薪を足す使用人の小さな音がしている。昨夜の広間のざわめきとは、まるで別の世界の音だった。

 ——

 公爵家の東側、塀越しに宮廷の庭園へ続く小径を抜けると、薔薇園はいつも、一日のうちでもっとも静かな顔をしてわたくしを迎えてくれる。

 登城の約束があったわけではない。けれど、薔薇園の半分は王宮の庭と地続きで、公爵家の娘には朝の散策を許す古い慣例があった。昨日までのわたくしなら、婚約破棄の翌朝にそんな場所へ足を向けるなど、考えもしなかっただろう。噂を集めるだけの散策になってしまうから。

 けれど今朝のわたくしは、噂を拾いに来たのではない。

 ただ、薔薇を見に来たのだ。

 夜明けの薔薇園は、思っていたよりもずっと清らかだった。朝露が花弁のひとつひとつの縁に小さな珠を結び、その珠の内側に、まだ眠たげな空の色がひとつずつ閉じ込められている。濃い紅、淡い桃、乳のような白。色の違う花が、同じ光のなかで、同じだけ静かに呼吸をしていた。

 わたくしは一輪の白薔薇の前に立ち止まる。屈むでもなく、指で触れるでもなく、ただ視線の高さを合わせて、その花と向き合った。昨夜、広間で感じた背筋の冷たさとも、先ほど窓辺で指先を伝った硝子の冷たさとも違う、やわらかな夜明けの冷気が、頬に触れていく。

 ——この花は、誰に見てもらうために咲いたのでもないのね。

 ふと、そんなことを思った。誰かに褒められるためでも、誰かの涙を際立たせる背景になるためでもなく、ただ、咲くから咲いていた。わたくしはずっと、花というものを、夜会の飾りか、贈り物の意味の延長でしか見てこなかった気がする。両手を前で軽く重ね、肩掛けの下で背筋を伸ばす。こんなに静かに薔薇を見たのは、生まれて初めてかもしれなかった。

 胸の奥のどこかで、前世の女の人が、ほう、と小さく息を吐く気配があった。終電のあとの雨の歩道橋も、コンビニの自動ドアも、今朝のこの空気から見れば、ずいぶん遠い景色だ。けれど、どちらも同じわたくしが歩いてきた場所だった。遠いことと、なかったことは、違う。

 ——

 小径のほうで、砂利を踏む靴音がした。

 一歩、また一歩。こちらへ近づきかけて、ふと、ためらうように止まる。振り返るまでもなく、その歩幅と足音の硬さに覚えがあった。昨夜、柱の陰で息を呑んだあの方の、踏み出しかけて止まった一歩と、同じ重さの音だった。靴の底が砂利を噛むときの、ほんのわずかな遠慮。次の一歩を踏み出してよいかを、自分自身に問うているような、奇妙に正直な間。

 第二王子ユリウス様。

 見なくてもわかる、という感覚が、自分でも不思議だった。わたくしは、あの方の靴音など、今まで一度も耳に留めたことはなかったはずなのに。けれど、昨夜のほんの一歩分の音が、胸のどこかに、ひとつだけ種のようにこぼれ落ちていたのかもしれない。芽吹くあてもないまま、それでも確かに、朝の土の下で静かに膨らんでいた種のような。

 砂利の音が、数歩のところで途絶える。そこから先へは、踏み込めないでいるようだった。ためらいは、怯えにも似て、けれど怯えとは違う何かだった。息を殺しているのが、風の加減でこちらまで伝わってくる。

 振り返ると、灰青色の夜明けの光のなかに、あの方が立っていた。

 外套の肩にうっすらと朝露が降りている。おそらく、夜のあいだ一度も屋根の下へ戻らなかったのだろう。髪の端が、冷気にかすかに湿っていた。長い夜をそのまま引きずってきたような、白い横顔。唇の色までが夜明け前の水のように薄く、それでいて、目だけがやけに澄んでいる。こちらを見つめる瞳は、昨夜広間で一瞬だけ合ったときよりも、ずっと複雑な色をしていた。憐れみでも、好奇でも、断罪でもない——名前の見つからない光。どこかで一度だけ見たことがあるようで、けれどその「どこか」が思い出せない。唇が、何かを言いかけて、けれど音にならずに閉じる。息を一度吸い込み、それを言葉にする代わりに、ゆっくりと吐き出した気配が、朝の冷気のなかで白く細い線になった。その白い線が消えるまでのほんの短い間に、あの方の喉がかすかに上下したのが見えた。飲み込まれた言葉の形が、そのまま喉の奥でほどけていくような、ひどく静かな仕草だった。外套の裾を握った指の関節が、ほんの一瞬だけ白くなり、それからまた、ゆっくりと力を失っていく。

 あの方は、わたくしが今朝ここで泣いているはずだと思って、声をかけるつもりで来てくださったのかもしれない。あるいは、昨夜の広間で倒れた令嬢の容態を、ただ確かめに来ただけなのかもしれない。どちらでも構わなかった。どちらであっても、今のわたくしには、差し出すべき涙も、すがるべき言い訳も、持ち合わせがなかった。

 わたくしは、扇を持たない手を胸の前でそっと重ね、背筋を伸ばした。母が教えてくれた、エーデルシュタインの娘のもっとも丁寧な礼とは違う、朝の散策で偶然貴人に行き合ったときの、ささやかで静かな会釈。顎の角度は、昨夜の広間のときよりも、ずっと柔らかく引いた。肩掛けの裾が、膝のあたりで小さく揺れ、そのまま音もなく元へ戻る。

 視線は、合わせた。

 あの方の瞳の奥で、何かがかすかに揺れたのがわかった。水面に一粒だけ落ちた露の、その最初の波紋にも似た、ごくごく小さな揺らぎ。けれどわたくしは、そのまま目を伏せることも、言葉を探すこともしなかった。言葉は、今朝のわたくしと薔薇のあいだに、必要なかったのと同じくらい、今このひとときにも、必要ない気がしたのだ。むしろ、言葉にしてしまえば、この夜明けの色のどこかが、かならず損なわれてしまう気がした。

 会釈を解くと、わたくしは踵を返し、来た小径のほうへ静かに歩き出した。

 砂利の上を、自分の靴音がひとつ、またひとつと小さく鳴る。その一歩ごとに、昨夜の広間の嘲笑と、今朝の封書の気配と、前世の歩道橋の赤い信号の光が、ゆっくりと背後に置き去りになっていく。置き去りにする、というよりは、ようやくそれぞれのあるべき場所へ、ひとつずつ返してゆくような感覚だった。振り返らなかった。振り返らないことが、今朝のわたくしにできる、精一杯の返礼のような気がした。

 ——

 薔薇園の入り口の、石造りの門を抜けるとき、朝の風がふわりとわたくしの肩をかすめた。

 肩掛けの裾から、ほんのわずか、白薔薇の香りが立ちのぼった気がした。花に触れたわけでもないのに、夜明けの空気のどこかが、わたくしの衣に一筋だけ香りを残していってくれたらしい。

 背後に、あの方の気配が、まだ立ち尽くしたままでいるのがわかる。

 ——振り返らなくても、わかってしまう。そのことが、少しだけ、こわい。

 砂利を踏む音は、門を出てしばらくのあいだ、一度も追ってはこなかった。わたくしはそのことに、ほんの小さな、けれど確かな安堵を覚えながら、屋敷へと続く並木の下へ戻っていく。頭上の枝葉のあいだから、ようやく昇りはじめた陽の光が、細い金の筋になって小径に落ちていた。

 ——ユリウス様の唇が、わたくしの名を、呼ばずに閉じた。

 その沈黙の意味を、あの方自身がまだ言葉にできていないことも、なぜだか、わかる気がした。昨日まで、わたくしもまた、自分の胸の内のいくつもを、言葉にできないまま抱えていたのだから。

 ——

 薔薇園に残されたユリウス様の、そのときの胸のうちを、わたくしはもちろん知らない。

 ただ、ずっとあとになって、あの方がぽつりと漏らした一言だけを、風の噂のように耳にすることになる。

 ——あの人は、昨日まで僕が知っていた令嬢では、ない。

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