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追放料理人の兵糧戦記

第2話 第2話

第2話

第2話

狼煙の黒い筋は、空の高みで風に梳かれて散り、散ったそばからまた一筋、ゆっくりと上がっていた。三度、四度。数を繰るたび、陣所の空気が一段ずつ冷えていく。ロザリンデは剣の柄から手を離さぬまま、斥候を走らせ、天幕の間を低く駆け抜けた。靴底が枯草を踏みしだく音ばかりが、やけに大きく響く。

「狼煙は東から二筋、北から一筋。まだ敵影は近うない」

 バルトが低く告げると、ロザリンデは顎を引き、ユーリを振り返った。その眼差しには、さきほどまでの諦めの翳りの代わりに、研ぎ直したばかりの刃に似た猜疑が宿っていた。兵は飢えている。薪は尽きている。そこへ王都からの流れ者がひとり、鍋を抱えて立っている。信じるに値する顔か、鍋ごと叩き割って放逐すべき顔か——女騎士の瞳は、そのどちらを選ぶかを計っていた。

「料理人殿。河原の石がどうこうと申したな」

「申しました」

「その前に、ひとつ確かめねばならぬことがある」

 ロザリンデは剣こそ抜かなかったが、鞘のまま、ユーリの胸先にその切っ先を軽く押し当てた。鉄の冷たさが、白衣越しに肋を這い上がってくる。

「ここはルヴァンの陣所だ。王都から流されたという話、誰が裏を取れる。お前が宰相の放った細作でないと、どう証を立てる」

 細作——その一言が、陣の空気を凍らせた。バルトが息を呑み、遠巻きに見ていた若い兵のひとりが、無意識に黒パンを握りしめた。ユーリは視線を逸らさなかった。逸らせば、この陣で二度と鍋を握らせてはもらえぬことが、骨身に沁みてわかっていた。

「証は、立てられませぬ」ユーリは静かに答えた。「王都を出るとき、紹介状のたぐいは破り捨てました。持てば追手の標になる。……ですが、舌がございます」

「舌?」

「毒味役として、お使いいただきたい」

***

 ロザリンデは眉を上げ、しばし黙した。剣鞘の先が、ユーリの胸からわずかに離れる。代わりに、女騎士は顎をしゃくってバルトを呼んだ。

「兵糧係。焼け残りの樽を、ひとつ残らず引き出せ。灰まみれでも、湿ったものでも、全てだ」

「姫様、あれは食えた代物では——」

「食うのではない。試すのだ」

 バルトは不服の色を隠さず、それでも命に従った。老いた背が天幕の奥へ消え、やがて数人の下働きと共に、煤けた麻袋と罅割れた木樽を引きずって戻ってきた。袋の口からは焦げた麦が覗き、樽の底には黒く変色した干し肉の塊が沈んでいる。鼻を衝く匂いが、ひと流れ、陣の中央に広がった。甘く饐えた腐臭、焦げの煤、そして——かすかに鉄錆に似た、何か別のもの。

「これを、舌で分けてみせよ」ロザリンデは言った。「食えるもの、食えぬもの。毒を帯びたもの、ただ傷んだだけのもの。当てられねば、お前は細作と見做し、この場で縛る。当てられれば——」

 女騎士は一拍置いた。

「——下働きとして、厨の端に座ることを許す」

 兵たちがざわめいた。下働き。それは元・宮廷料理人に差し出すには、あまりに侮蔑の混じった椅子だった。だがユーリは、それを侮蔑とは受け取らなかった。椅子がひとつでもあるなら、座れる。座れば、鍋に手が届く。鍋に手が届けば、味が作れる。味が作れれば、兵が立つ。——それで充分だった。

「お受けいたします」

 ユーリは膝を折り、最初の麻袋の口を開いた。焦げた麦の粒を指先でつまみ、舌先に乗せる。眼を閉じる。口の中で、冷えた粒がゆっくりと温まっていく。唾液が染みる。

 ——炭の苦み。その奥に、刈り取って半月ほどの若い麦の甘み。焼けてはいるが、芯までは焦げていない。水に晒して三度漉せば、まだ粥になる。

「これは食えます。ただし外皮を削ぎ、一度川水に晒すこと。でなければ炭の苦みで兵の胃を焼きます」

 次の樽。黒ずんだ干し肉の切れ端を、爪の先ほどだけ口に含む。噛めば、繊維の奥から、饐えた乳のような味が滲み、舌の縁にぴりりと痺れに似た違和が走った。鼻腔の奥では、古い藁と鉄錆の匂いが絡み合う。喉の手前で、ユーリの舌は止まった。

「これは、駄目です」

「腐っているか」

「腐る寸前です。あと半日、寒気が緩めば、腹を下す毒に変わります。ですが——」ユーリは干し肉を押し戴くように指先で持ち上げた。「煮出して、灰汁を三度掬えば、出汁になります。肉としては死んでいますが、汁としてなら、まだ兵の腹を温められる」

 バルトの手が、ぴたりと止まった。老いた兵糧係の、落ち窪んだ眼の奥で、何かが鈍く光った。

 次の樽。次の袋。ユーリは舌先でひと粒、ひとかけらを確かめ、食えるもの、晒せば食えるもの、煮出せば出汁になるもの、そして完全に死んだものを、手の動きひとつで仕分けていった。腐敗寸前の塩漬け鯖。雨に濡れて発酵しかけた豆。焦げの下に生きている胡麻。灰を被った燻し肉の、芯の一寸だけが無事な塊。——そのどれもを、ユーリは迷わなかった。舌の奥で、前世の厨と今世の陣が、一本の細い糸で繋がっていく感覚があった。毒を見抜くための鋭さが、生かすための鋭さに変わる。さきほどの予感は、いま輪郭を帯びていた。

 仕分けを終えたとき、陣の中央には、捨てるべき山と、生かせる山とが、二つに分かれていた。捨てる山は思ったより小さく、生かせる山は思ったより大きかった。

***

 バルトが、ふらりと一歩踏み出した。老兵糧係は、ユーリの前に膝を折り、焦げた麦をひと粒、自分の舌に乗せた。噛む。眉根が寄る。それから、長い、長い息を吐いた。

「……料理人殿」

 声は掠れていた。

「あんた、本物か」

 バルトの眼には、うっすらと涙の膜が張っていた。老いた兵糧係が四十年、袋を担ぎ、樽を見張り、焦げた鍋底を掻いてきた歳月が、その一粒の麦の上に載っていた。仕分けられるはずのないものを、仕分けた。捨てるしかないと思っていたものの半ばが、まだ生きていた。それは、この陣の兵が、まだ半ば生きているということと同じだった。

「本物かどうかは」ユーリは首を振った。「明日の朝、兵が立ち上がれるかどうかで決まります。いまはまだ、舌だけの話です」

「いや」バルトは首を振り返した。「舌だけで、充分だ。この陣じゃ、舌を持った人間が、ここ三月ばかり、ひとりもおらなんだ」

 ロザリンデは腕を組み、仕分けの山を見下ろしていた。剣の柄から、ようやく手が離れていた。女騎士の横顔には、まだ猜疑の名残があった。だがその猜疑は、さきほどまでの拒絶の猜疑ではなく、値踏みの猜疑に変わっていた。信じてよいかを計るのではなく、どこまで使えるかを計る眼——兵を束ねる者の眼に、戻っていた。

「毒味役だ」ロザリンデは短く言った。「下働きの序列の、一番下。厨に入ることは許す。ただし、鍋に触れる前に、作ったものは全て、まず己の舌で確かめよ。——それと」

 女騎士は、ユーリの腰の庖丁に一瞥をくれた。

「その庖丁、研ぎ直せ。刃こぼれしておる」

「は」

「研ぎ石は、バルトの天幕にある。——バルト、この男に貸してやれ」

 老兵糧係は、無言で頷いた。頷きながら、もう一度、ユーリの顔をまじまじと見た。落ち窪んだ眼の奥には、さきほどまではなかった小さな灯が、確かにともっていた。三月前から消えていた炊煙の、最初のひとすじが、いま老人の胸の中で立ち上がろうとしていた。

***

 その夜、ユーリはバルトの天幕の隅に座り、借りた研ぎ石に庖丁の刃を当てていた。水を含ませた石の上で、鉄の刃がゆっくりと滑る。しゅ、しゅ、と低い音が、天幕の中を満たした。外では風が強まり、狼煙の行方を隠すように雲が流れていた。東の斥候はまだ戻らぬ。北の斥候も、同じだった。

 バルトは、ユーリの向かいで麻袋を繕っていた。老いた指が、糸を通し、結び、切る。その手つきには、四十年ぶんの律動があった。

「料理人殿」ややあって、バルトが口を開いた。「仕分けのとき、あんた、塩漬け鯖の樽の前で、一瞬だけ、妙な顔をしなすった」

 ユーリは刃を石から離し、顔を上げた。

「匂いの奥に、ひとつだけ、知らぬ香りがありました。魚の腐敗でもない、塩の雑味でもない。……薬草の、ような」

「薬草」

「はい。ごく微量ですが、鯖の樽にだけ、混ざっていた。舌の縁が、ほんのわずかに、乾くような渋みを残したのです」

 バルトの手が止まった。老いた眼が、ゆっくりと細まった。針の先が、薄闇の中で鈍く光る。

「……姫様に、お伝えせねばならぬな」

 ユーリは頷いた。狼煙の意味が、いま、別の形で胸の奥に落ちてきた。敵は、兵糧庫を焼くだけでは飽き足らず、焼け残った樽にまで、何かを仕込んでいたのかもしれない。舌が告げていた。まだ輪郭は見えぬが、輪郭は必ず、次の朝までに形を帯びる。

 研ぎ石の上で、庖丁がもう一度、低く鳴った。外の風の奥で、遠い、ごく遠い馬蹄の音が、地面を伝ってかすかに届いた気がした。ユーリの右目の奥で、昨日よりも少しだけ濃く、見知らぬ文様が、ひとつ、脈打った。

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